ダビデの人口調査[サムエル下24章]

サムエル記
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神様がダビデを誘われたというのはどういうことでしょうか。
また、民の数を数えることは悪いことなのでしょうか。
どうしてダビデはアラウナからあえて代金を払って麦打ち場と牛を買ったのでしょうか。
神様がこの国の祈りに答えて、神の民の数を百倍にしてくださる秘訣がここにあります。

ダビデの人口調査[サムエル下24章]


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【ノート】
1-2節。主の怒りが燃え上がった。主の怒りの対象は、ダビデ個人ではなく、「イスラエルに対して」と書いてある。どうして主が怒ったのかは書かれていない。しかし、この章全体の内容から察するに、怒りの原因はイスラエルの思い上がりにあったようだ。ダビデの統治によって平和を享受するようになってからというもの、イスラエルは主に依り頼む信仰や主に対する感謝をささげることを忘れて、自分たちの力で平和を勝ち取ったと勘違いしてしまったのだろう。何も困ったことがない、すべてが滞りなく運んでいる、それは格別な祝福をいただいているということだ。全部を主によって満たしていただいているということだ。そういうときこそ、主をほめたたえよう。困ったときも、そうでないときも、神様に頼り、感謝と賛美をささげる者になろう。
主が、イスラエルとユダの人口を数えよ、とダビデを誘われたことが書いてある。ダビデはその誘いに乗って、人口を数えるようにヨアブに命令を出す。そして、このことが後から罪であったことが判明し、イスラエルは大打撃を受けることになる。ここで二つの問題が出てくる。

第一に、民の数を数えることは悪いことなのか?教会でいえば、礼拝者の人数を数えることは悪いことなのか?決してそうではない。旧約聖書の中には、民数記という書物がある。民の数を数えることについての書物だ。それは神様御自身が命じたことであって、特に何も問題は発生しておらず、お咎めはない。新約聖書でも、人数を数えることについては多くの言及がある。5つのパンと2匹の魚で満腹した人数は成人男性だけで5千人だった。なぜ5千人とわかるのか?数えたからだ。イエス様の復活を大勢で目撃した場にはⅠコリント15:6による5百人以上の兄弟たちだった。なぜ5百人以上とわかるのか?数えたからだ。ペンテコステのときに集まって祈っていた弟子たちの人数は120人ほどだった。なぜ120人ほどだとわかったのか?数えたからだ。ペンテコステの日のペトロのメッセージを聞いてイエス様を信じて水のバプテスマを受けたのは、3千人ほどだった。なぜ3千人ほどだとわかるのか?数えたからだ。美しの門で物乞いをしていた足の萎えた人の癒しが起こったとき、ペトロのメッセージを聞いて救われた人数は成人男性だけで5千人ほどだった。なぜ5千人ほどだとわかるのか?数えたからだ。特に礼拝者を数えるということは、命じられている箇所もある。黙示録11:1。私たちは最も貴いと考えるものについては数を数え、大事に管理する。教会では献金がいくら集まったか数える。大事だからだ。しかし、献金は数えても礼拝者は数えないとなるとどうだろうか?礼拝者は献金以下なのだろうか?そんなことがあってはならない。礼拝者も数えよう。
民を数えること自体は問題なかった。王であれば、徴兵や徴税のために人数を把握し、登録するということは普通のことだ。ダビデがそれをしようとした動機に問題があった。ダビデは、人数を頼みとし、人数を誇るようになってしまったのだ。異邦人のように、数の力に依り頼むようになってしまった。「これだけの人数がいるから、諸外国を相手にしても大丈夫だ。」そういう思いを持つようになってしまった。それは信仰者の思考ではない。ヨナタンの信仰を思い出そう。サムエル上14:6。たった二人でも勝てる、それが信仰者の思考だ。ダビデももともとそういう思考を持っていた。詩編33:16-18。この信仰があったので、少人数の軍隊で大軍を打ち破るということを何度も経験した。数を数えるときに注意しなければならないのはそこに虚栄がないか、ということだ。数を誇ったり、数に依り頼んだり、実際より多くみせかけたりしてはならない。数はただ感謝と賛美のため、管理をするためにだけ数えればよい。

第二に、神がダビデに対して罪の誘惑をしたのか、という問題だ。それはありえない。ヤコブ1:13-14。まずもって数えること自体は罪ではないので、神は罪の誘惑をしていないということになる。ただダビデが自分の欲望に引かれ、唆されて悪い動機を持ったに過ぎない。そして、歴代誌上21:1ではこの同じ出来事について、別の書き方がなされている。サタンがダビデを誘った。神は、サタンがダビデを誘うのを許容したということだ。いずれにせよ、ダビデとイスラエルの内にある悪い心が明るみに出されて、裁きにかけられた出来事なのだ。

3-4節。この件ばかりはヨアブの方が主を意識していたし、ダビデの中に良からぬ心があるのを見てとっていた。イスラエルの民の数を増やしてくださったのは主だ。そして、主がよしとされるなら、イスラエルの民の人数をさらに百倍にも増やしてくださる。私たちもこの信仰を持とう。百倍を願うというのは、現状を誇って高ぶっていたら絶対にできないことだ。御心は私たちの思いよりもはるか高みにある。私たちも宣言しよう。今までクリスチャンを増やしてくださったのは主だ。主がさらに百倍に増やしてくださる。自分の教会のクリスチャンの数が百倍になることをイメージしよう。神様は全能の方であり、それができる。日本のクリスチャンが百倍になることを想像しよう。日本は完全にクリスチャンの国だ。どの街角にも教会があるようになる。どの家庭、どの学校、どの職場でも祈りや賛美や礼拝の時間が持たれ、政治家もみな主を畏れて御心に従うようになり、刑務所は空っぽになり、いかがわしい店は潰れて健全な商売をする店に代わり、離婚の数や自殺者の数は限りなくゼロに近くなる。ダビデはヨアブの質問には答えず、王としての権威を利用して人口調査の実施を強制している。答えなかったは良からぬ心があったからだ。いつ、主から問い質されても良いように適切な答えを持っている者は幸いだ。

5-9節。これはヨアブもなかなか大変だっただろう。ローマで行われた住民登録では、民自らが登録のために自分の故郷の町に行った。しかし、ここでは民は来ないので、ヨアブたちが一人一人数えに行かなければならない。それでイスラエルを隈なく巡ったのだ。あまりにも効率の悪い、大変すぎる仕事だ。今でも、上司に無茶な要求を突きつけられて悪戦苦闘する部下がいる。上席にある者は、部下に何かを要求するとき、思いつきや気分でそれをしてはならない。本当にそれが必要なのか、もっと良い方法はないのか、そのことを今の人員で実現できるのか、しっかりと考えなければならない。イスラエルがカナンの地に入る前に数えたときには、60万人程度だったから2倍以上に増えている。約束の地でも、着実に祝福され、数を増してきたということだ。

10節。ダビデは罪を犯した後に、良心の呵責を感じるようになった。誰から指摘される前に、罪を犯したと気づいた。何の問題もないと思っていた。それで、ヨアブに理由を問われても、そのまま強行させたのに、罪を犯した途端に、とんでもないことをしてしまったと気づいた。しかも、「ちょっと動機が間違っていただけだから、軽い罪」というふうにとらえたのではなく、重い罪、大変愚かなことと認識している。ダビデは罪に対して非常に鋭敏な感覚を持っていたのだ。しかし、その感覚を持ってしても、罪を犯す前に思いとどまることはできなかった。罪を犯す前に、感覚や感情でそれと気づくことは非常に難しいのだ。罪を犯す前に思いとどまるためには、御言葉によって誘惑を退けるしか方法はない。聖書を読み、御言葉を蓄えよう。ヘブライ4:12-13。思いや考えとあるように、御言葉は動機の部分に至るまで、私たちを刺して治療する。そして、神様の御前に私たちを立たせる。そのことが、罪の予防となる。

11-18節。ダビデのお見逃しくださいという願いは聞かれず、代わりに神の憐れみによって裁きの内容を選ぶことを赦される。七年間の飢饉、三か月間敵に終われる、三日間の疫病、いずれも過酷な選択肢だ。14節でダビデは、どれを選ぶとはっきり言わなかったが、「主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」という。サウルに十年間追い回された苦しみを思ってのことだろう。結果的にこれは疫病で打つということを選ぶものだった。ダビデは主の慈悲に期待した。その結果、どうなったか?疫病による被害は凄まじいものだった。7万人が死んでしまった。そして、さらにエルサレムまでも滅ぼす勢いだったが、そこで主の慈悲が示された。「もう十分だ。その手を下ろせ」と。もし、この主の慈悲による静止がなければ、人間はすでに何度も絶滅していたはずだ。主の慈悲は期待できる。それでも、主の御手にかかることはたやすいことではない。ヘブライ10:31にもそう書いてある。
17節でダビデは、これ以上民が打たれることなく、罪を犯した自分と自分の家に御手が降るようにと願った。実際には、主の怒りはイスラエル全体に対して燃え上がったのだが、ダビデは自分がすべてを負うことを願った。王がすべての罪を負うというこのもう一つの選択肢はとられることがなかった。ダビデ自身が罪人なので、他の人の罪までも背負う資格がなかったからだ。しかし、やがてダビデの子孫から出る王が、罪のない完全な人生を送られた上で、すべての人の罪を背負われることになる。その方こそ、我らの王、主イエス・キリストだ。ダビデによる贖いの願いは聞かれずに、代わりに主はアラウナの麦打ち場に祭壇を築くように命じられた。その場所はモリヤ山だった。その場所でアブラハムがイサクをささげる代わりに神が用意された雄羊をささげた。その場所でソロモンが神殿を築いた。そして、その場所で、神の小羊なるイエス様が十字架にかけられて永遠の贖いを成し遂げられた。
三つの選択肢ではなく、ただ一つ、イエス様の十字架による永遠の贖いというのが存在する。すべての罪が十字架によって解決された。今や神様はイエス様にあって罪を見逃すようになっている。ローマ3:23-25。本来はあなたが生ける神の御手にかからなければならなかった。不純な動機に至るまで重い罪として裁かれなければならなかった。しかし、イエス様がすべての罪を負って身代わりに主の御手にかかってくださった。この恵みに感謝しよう。

19-25節。アラウナは王に対して恐縮し、すべてを無償で差し出そうとした。しかし、ダビデはあえて代価を支払って買い取った。大事なものを手に入れるとき、そこにはそれ相応の犠牲が伴っていなければ意味がない。犠牲をするところにそのものの価値が生まれる。犠牲をするということに、本気で求める心が反映される。神への献げ物であれば特にそうでなければならない。神に何かをささげるときには、安易な道があっても選ばないようにしよう。犠牲を払う道を選ぶようにしよう。

ダビデが命じられた通りに、アラウナの麦打ち場を買い取って祭壇を築き、献げ物をささげると、主は祈りに答えられて疫病はやんだ。私たちが数を頼みにして思いあがることなく、主に依り頼み、主に感謝と賛美をささげるならば、主は祈りに答えてくださる。この国にリバイバルを起こしてくださる。クリスチャンの数を百倍にも増やしてくださる。

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