ダビデ家とサウル家のむなしい戦い[サムエル下2章]

サムエル記
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ダビデはサウルの死を知った後も、慎重に主の御声を聞いて行動しました。
一方、アサエルは自分に与えられた賜物を過信して深追いしすぎて死んでしまいました。

ダビデ家とサウル家のむなしい戦い[サムエル下2章]

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【ノート】
サウルが死んだことをダビデは知った。これで逃亡生活を終えることができる。ある意味、祈り課題が一つ答えられたという状態。ダビデはサウルが死ぬように直接的に祈っていたわけではないだろうが、サムエルを通して語られたイスラエルの王になるという預言が成就するように祈っていたことだろう。その祈りが答えられる上で、サウルはどうしても死ななければならなかった。このことから、神様の御心に逆らうことがどんなに危険なことかわかる。最悪な場合、その人が死ななければ神様の良いご計画が成就しないのであれば、神様はその人の命を奪うしかないのだ。悔い改めの機会が与えられているうちに悔い改める者になろう。
サウルが死んだから、一見すべてが解決して、イスラエルの王座がもう目の前にあるように思われるかもしれない。しかし、ダビデは慎重だった。ダビデはよく知っていた。すべては主の御声をしっかりと聞いて進めていかなければならないということを。そこで、ダビデはどこに行けばよいのか、主に託宣を求めた。
1-4節。ダビデは主に託宣を求めて、二つのことを確認した。ユダの町に上っていくべきかどうかという点と。どの町に上っていくべきかという点だ。主からの返答は「上れ」「ヘブロンへ」と非常に具体的だ。ヘブロンといえば当時のユダの中心地だ。そこで王として立てられることが主の御心だった。それで、ダビデは確信を持ってヘブロンに行くことができた。一人ではなく、兵士と家族全員を連れてだ。多くの人を巻き込んで大事な行動を起こす時は、見切り発車で動くのではなく、主の御声による指示を求めなければならない。ダビデだからできたこと?いや、そうではない。すべてのクリスチャンは主の御声を聞こうとすれば、聞くことができる。クリスチャンは父なる神様の御声を聞くことができる。聖書にそう書いてある。ヨハネ8:47。クリスチャンであれば、当然神に属する者、そして神に属する者であれば、父なる神様の御声を聞ける。クリスチャンはイエス様の御声を聞ける。ヨハネ10:27。クリスチャンはイエス様の羊。イエス様の羊はイエス様の御声を聞き分ける耳を持っている。クリスチャンは聖霊様の御声を聞く。ヨハネ16:13。未来のことまで聞けてしまう。これらの御言葉をもとに、自分は神の御声を聞けると悟ることがまず大事。そして、実際に祈って御言葉による答えを求めるのだ。「主よ、あの人に何を語れば良いですか?」「このことについてどう対処すればよいでしょうか?」「このことにはどのような御心があるのですか?」そういうふうに聞くのだ。そうやって求めていると、何らかの聖書の御言葉が思い浮かんだり、聖書を読んでいるとある個所に目が止まったり、夢や幻を持って示されたりする。
もし、ダビデが御声を聞かなかったら、もしかしたらツィクラグを与えてくれたガドの王アキシュに対する恩義で後ろ髪ひかれていたかもしれない。どうしたら良いか分からずにツィクラグにとどまっていたかもしれない。御心でない場所に行ってサウル王家を指示する者に暗殺されていたかもしれない。あるいは、自分の力で王になったのだと思いあがってしまったかもしれないし、逆にうまくいかないときに確信を持てなくなってしまうかもしれない。自分のとるに足りない力で王になったのなら、いつその王座を失うかわかったものではない。ダビデは主の御言葉に従ってヘブロンに行って油を注がれてユダの家の王になった。ということは、これは人間の意志によるものではなく、神様の御心によるものであり、神様がダビデをユダの家の王に立てたということだ。神が立てたのなら、盤石である。御言葉を求めて従順することが確信に満ちた歩みを可能にする。こうして、ダビデがサムエルを通して油注がれてから20年くらいの歳月を経て、やっとダビデは王になった。御言葉を求めるか求めないか、この点がダビデとサウルの最大の違いだ。私たちは御言葉を求めて歩む者になろう。アーメン。

5-7節。ヤベシュの人々はサウルが死んだとき、危険を冒してペリシテ人の地まで行って晒し者にされていた遺体を取り戻して墓に葬った。ヤベシュの町はアンモン人に襲撃されたときにサウルに助けてもらったことがあるからだ。そのギレアドのヤベシュの人々を励ますために、ダビデはわざわざ使者を遣わしている。励ましの言葉を伝えることは、それだけの労力をかけるに値するのだ。ヤベシュの人々は、自分たちを窮地から助けてくれたサウル王が亡くなったことを嘆いていた。あなたの周りで、希望を失っている人はいるだろうか?励ましの言葉をかけてあげよう。労力をかけて、その人が力を取り戻すまで、励ましの言葉をかけ続けてあげよう。あるいは、あなたの周りで、良いことをした人はいるだろうか?労ってあげよう。その人が、同じような状況のときに、再び同じ良いことを積極的にできるようにすべく、労ってあげよう。
どんな言葉をかければ良いか?主の御心を語れば良い。ここでいうダビデがした励ましの言葉は、主の御心を伝えるものだ。サウル王は良い王ではなかったが、ヤベシュの人々がサウルに忠実に尽くして葬ったことは主に喜ばれることだった。それでダビデは「今、主があなたがたに慈しみとまことを尽くしてくださいますように」と言っている。主の御心は聖書に書いてある。そして、聖書の御言葉は励ましに満ちている。聖書に基づいて、主の御心を励ましの言葉として語る者となろう。
ダビデがこういうことをしたことには、もちろんいろいろな狙いもあった。
第一に、自分が忠実を尽くす者に報いる王であるということを宣言して、求心力を得ようとしている。正当な報いを与えてくれる指導者に人は従いたいものだ。
第二に、ヤベシュの人々の支持を得ることによってサウル家を牽制しようとしている。8節によるとサウル家はヤベシュから近いマハナイムに本拠地を置いている。そのヤベシュを味方につけられれば、一気に形成がダビデ有利になる。
このダビデの言葉に対するヤベシュ側のリアクションは特にない。何にせよ、励ましの言葉をかけることは、味方を増やし、事をうまく進める上で有益だ。
8-11節。サウル家から新たな王が擁立されている。サウルの息子のうち、ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアはサウルと共に戦死したが、まだイシュ・ボシェトが残っていた。そこで将軍のアブネルがイシュ・ボシェトを擁立してイスラエルの王としている。しかし、ユダの家はダビデを王として立てている。ここで初めて、同じイスラエルの中にイスラエルの王とユダの王という二人の王が立つという状態が成立する。イスラエルとユダの分離はこの後も尾を引くことになる。列王記を読むと、ダビデとソロモンの時代だけはイスラエルが統一されているが、その後は北イスラエル王国と南ユダ王国という二つの国に分かれてしまうことになる。

12-16節はイスラエル全体の王座をかけての戦いの前哨戦だ。本来は味方のはずの同じイスラエル人が戦いの相手だ。できれば全面衝突したくない。だからといって戦いは避けられない。それで、どうして良いのかわからず、手探り状態で、ひとまず代表者12人だけで戦う提案がアブネルからなされた。受けてたったのはダビデの家臣のうち、ツェルヤの子、ヨアブだ。
ツェルヤはダビデの姉妹で、その子にはヨアブ、アビシャイ、アサエルの3人がいる。ダビデからすると甥っ子だ。そのうちのヨアブがダビデ家の司令官だった。
12対12で戦ってみたところ、ありえないようなことが起こった。全員が相討ちしてしまったのだ。どれだけ低い確率か。仮に一組が相討ちする確率を20%としても、約0.0000004%だ。ありえないことが起きたら、そこに主からのメッセージが隠されていることがある。ここでは、主の民同士で戦いを続ければ、互いに悲惨な末路をたどりかねないという預言的な警告だ。
しかし、一気に多くの血が流れたにもかかわらず、勝敗を決められない結果になったことを受けて、戦いはどんどん激化していくことになってしまう。もし、最初の12対12で主の警告を受け取ってやめておきさえすれば、この後の禍根を残す戦闘を避けられたはずだった。

17-24節。アサエルとは神がお造りになったという意味。ヨアブの兄弟のアサエルはかもしかのように足が速かった。その賜物を生かしてアブネルをどこまでも追跡しようとした。それは果たして主に対する信仰だったのか、自分に対する過信だったのか。信仰による勇猛さと過信による無謀さは紙一重のところがある。どちらかはただ結果を見て判断することができる。アサエルは大将首を狙ってあくまでもアブネルを追いかけ続けた。アブネルは21節で「右か左にそれて若者の一人でも捕らえ、身に着けているものを奪ったらどうだ」と提案している。敵を何人討ち取ったかによって褒賞が変わってくるが、当時は敵を討った証拠として身に着けているものが用いられた。つまり、自分にかまわずに戦功を立てれば良いという提案だ。しかし、アサエルはアブネルを追い続ける。すると22節で、アブネルはヨアブのことを配慮してアサエルを倒したくないという。アサエルもダビデの家臣の中には30隊の一人に数えられる勇士だ。にもかかわらず、敵であるアサエルをできれば倒したくないと心配することができるほど、アブネルは強かった。それだけ実力差が大きかったのだ。アブネルは自分がその気になれば、アサエルを簡単に倒せることを知っていた。ダビデもアブネルのことを「お前に比べられる者はイスラエルにいない」と言って最強の戦士として評価している。そこで、アブネルはおそらくアサエルの足止めをするために槍の石突きでついた。ところが、アサエルがあまりの猛スピードで走っていただけに、槍が背中まで貫通して即死してしまった。アサエルは深追いしすぎた。アサエルの走りは、自分の力を過信したことによつ暴走だった。つまずきに先立つのは高慢だ。何も考えずに走る前に、ダビデのようにへりくだって主の御心を尋ねる姿勢が必要だった。私たちは主から素晴らしい賜物をいただいたら高ぶらないように注意しなければならない。アブネルがアサエルを殺したことによって、ヨアブとアビシャイは復讐心に燃えることになる。

25-30節。主の民同士、いつまでも続きそうな戦いだった。休戦は、互いに「兄弟」であるという認識によってやっと成立した。主の民が二つに分かれて争う、なかなか一つになれない、これは残念なことだ。本来、主の民は一つになれるはずだからだ。もしクリスチャンが自己主張や教団教派の違いや神学的な見解の違いによって言い争うのであれば、これほど残念なことはない。私たちは誰であれ相手がクリスチャンであれば、互いに兄弟姉妹であるという認識を忘れてはならない。特にクリスチャンはイスラエルよりももっと強い絆を持っている。クリスチャンは一つの体だ。同じ聖霊を受けている者だ。クリスチャンは本来絶対に一致できるはずなのだ。私たちはいつでも聖霊様によって一致できる者となろう。アーメン。
31-32節。むなしい戦闘ではあったが、結果を見ればダビデ家の圧勝だ。イスラエルの十二部族のうち、全イスラエルに散らされているレビ族を除けば、サウル家に十部族がつき、ダビデ家にはユダの一部族だけがついた。10対1だ。単純に考えればダビデが圧倒的に数的に不利なように思える。しかし、戦ってみればダビデ軍の方が強い。それは、ダビデの軍隊がよく訓練されていたからというのもあるだろう。もっと大きな要因は、ダビデには神様が味方していたという点だ。神様が味方している方が絶対に勝つ。では、今では神様は誰に味方するのか?キリストとキリストに従う者に味方する。キリストに従ってキリストと共に勝利を得る者になろう。

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