「聖書が完成したときに聖霊の賜物はなくなった」という人がいます。
なるほど、もっともらしい話です。
ところで世界中に5億8400万人いる聖霊の賜物を信じ、体験している人たちについてどう解釈したら良いのでしょうか?(*´艸`)
預言は廃れ、異言はやんだのか?
【聖書箇所】
コリントの信徒への手紙一13:8
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
マルコによる福音書16:15-18
15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
コリントの信徒への手紙一12:7
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
ヨハネの黙示録11:3
わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」
ヨエル書2:23
シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために/秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
ヨエル書3:1-2
1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
コリントの信徒への手紙一13:4-7
4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
マルコによる福音書3:28-30
28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
ヘブライ人への手紙13:8
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
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コメント
大変興味深い内容です。以下のような聖句はどう思われるでしょうか?
「しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。新改訳2017・Iコリ 14:19」
何億人の人が聖霊から賜物を語っておられるのか私にはわかりません。その数のうち、聖霊から賜物を与えられた本当のキリスト者がどれ位いるのか未知数かと思います。異端者や偽信者が似たようなことを行っているケースを何度も見てきています。数の論理が決定的な証拠とはならないかと思います。・・・仮にそれが神様からの賜物であっても2000分の1程度の価値しかないと使徒パウロは聖霊に導かれて語っています。知恵ある5つの言葉を語りたいとも書かかれてあります。
原語を調べますと「異言(舌)」=「言語」「国語」「方言」「外国語」と訳せます。また、ここで言う「異言」とは即ち聖霊によって語ることが許された外国語と考えられます。人数を根拠にされるのであればそのような翻訳をしている注解者・聖書学者も決して少なくありません。いずれにしましても2000分の1の価値しかないものを追求することは知恵あることばを語る以上には価値がないと思われます。
小坂様は主にある兄弟とお見受けしましたので私の価値観を押し付けることはいたしませんが、人数を真理の根拠にされているとするならば「ノア」「エノク」のような信仰者はどうだったのでしょうか?という疑問が自然と湧いてきます。
あさはかな私の知識では、このような書き込みは相応しくないかとは思いましたが小坂様が人数だけを根拠にされているとも思っておりませんが、そのように解釈されてしまう内容だけに残念だなと思わされた次第で、キーを執らせて頂きました。 在主
人数ではなく、聖書の御言葉を根拠に説明しました。また、異言だけに限定したものではなく、タイトルにもある預言を含めた9つの聖霊の賜物全てについて扱った動画です。異言の価値も決して知性の言葉の2000分の1ではありません。
あなたが引用した聖句は「教会では」とあるように、個人的に主と交わりをする場合ではなく、「教会」における実践について使徒パウロは言っています。異言は個人の徳を建てあげるものであり、聖霊様の執り成しによって自然と神の御心を祈ることができるという点で非常に優れています。詳しくは「聖霊に助けられて祈る」という動画を観てください。だから、教会では誰にでもわかるように預言を優先しますが、異言は個人の主との交わりにおいて用いるということです。パウロは「あなたがたの誰よりも異言を語れることを感謝する」「私は霊によって祈り、理性でも祈るようにしよう」ということを言っています。異言も重要です。神の賜物をないがしろにしてはなりません。もう一度よく第1コリントの内容を熟読してみてください。