アブサロムの反逆とダビデの都落ち[サムエル下15章]

サムエル記
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アブサロムはサタンに用いられて謀反を企てます。
一方、ダビデは自分のことを主にゆだねて、都落ちに際しても冷静で的確な判断ができました。

アブサロムの反逆とダビデの都落ち[サムエル下15章]


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【ノート】
14章で、ダビデとアブサロムの間は、形だけの和解がなされた。しかし、当人たちの中では何の解決もされていなかった。ダビデはアブサロムを心から赦していないし、アブサロムもダビデから赦されていないことがわかっているし、ダビデに不満を抱いたままだ。それなのに、外向きのパフォーマンスとして和解したふりをするとどうなるか?表面的にはもう解決済みかのように取り繕うようになるが、その代わりに隠れたところで、苦い根が育ってしまう。だから、イエス様は心から兄弟を赦すように命じられた。徹底的に赦そう。何度でも、何百回でも、赦しと祝福を宣言しよう。
15章では、心からの赦しと和解なしに、苦い根が育つにまかせているとどうなるかを学ぶことができる。

1節。アブサロムはダビデとの関係修復をあきらめて、ダビデを倒してしまおうと謀反の準備にとりかかった。その手始めとして、私設の戦力を整えた。謀反を、神がよしとされることはあるだろうか?あるにはある。北イスラエル王国のヤロブアムやイエフは、主がその時の悪い権力者に謀反を起こさせるために油を注いで立てた王だ。神が立てた権威を重んじるのが基本だから、慎重に判断しなければならないが、もし、確かに主がそうするように命じておられるなら、悪の権力者に対する御心に適う反逆ということはありうる。もし、確かに主の導きがあれば、イエス様が宮清めをなさったように、不義の是正を訴えたり、目上の人たちの不正を暴いたりと、断固たる行動を取ろう。「私にはそこまでする力や勇気がない」という人は、主に叫ぼう。イエス様はやもめと裁判官のたとえの中で、約束しておられる。ルカ18:7-8。神は死後の罰と言わず、速やかに権力者を倒してくださる。
アブサロムの謀反の場合はどうか?もし、神様の御心に適うことであれば、人は自然と集まる。ダビデの場合、アドラムの洞窟にいた時、主の導きで自然と人が集まった。アブサロムは神の導きに従っていないので、自分で計画的に兵隊を揃えなければならなかった。

2-6節。裁判を受ける人々を呼び止めて、アブサロムは何をやっているのか?選挙運動だ。政治家のように演説やパフォーマンスで支持を得て、勢力を拡大しようと必死なのだ。ダビデが王になるときには、ダビデは支持を得るために奔走するということがなかった。ダビデはただ主の御声を聞いて従っただけだった。主がダビデの味方だったからだ。これがクリスチャンのやり方だ。アブサロムには主が味方しておられなかったので、世の中の政治家と同じやり方を取らざるを得なかった。あなたはどちらの方法をとって出世しようとしているか。御声に聞き従うことか、それとも世の中の政治家のような方法か。クリスチャンの特権を生かして御声に聞き従って出世する者になろう。

3節の「だがあの王の下では聞いてくれる者はいない」というのは誇張があるが、アブサロムの本音を表している。アムノンの件について王が何の処罰も下してくれなかったことについての恨み節だ。アブサロムの主張は、一応、真実を含んでいる。しかし、アブサロムが言っていることというのは、結局のところ悪口だ。真実であろうがなかろうが、悪口を言うことは正しくない。それが不法なやり方である証拠として、6節には「心を盗み取った」とある。盗むというのは誰のすることか。ヨハネ10:10。イエス様はサタンのことを指して言っている。アブサロムはサタンに用いられる者になってしまった。
主に用いられて得たものは永遠に残るが、サタンに用いられて得たものは簡単に失ってしまう。盗んだものであれば、償わなければならなくなるときがくる。不法な方法で得ようとするのはやめよう。悪口を言うとき、私たちの霊は汚れてしまう。サタンのとりこになってしまう。アブサロムは悪口を言って、イスラエル、つまり神の民の国を混乱させた。今で言えば、悪口を言う者が教会の交わりを破壊してしまう。悪口をやめよう。噂話やゴシップをやめよう。秘密を漏らすことはやめよう。人を裁くことはやめよう。どうすればやめられるだろうか。他の人を尊敬することでやめられる。フィリピ2:3-4。代わりに恵みの言葉を語ろう。エフェソ4:29。

7-9節。謀反を成功させるくらい勢力拡大のためには、ダビデのいるエルサレムではすぐにばれてしまう。そこでアブサロムはヘブロンに移住することにしたのだ。アブサロムが「主に誓願をしたから」という理由を言うとダビデはすぐに信じて送り出した。無理はない。まさか主の御名で偽りを語ることはあるまいということだ。アブサロムは主の御名を悪用してしまった。私たちはクリスチャンが相手なら、主の御名を口にして説得したら、信用されるかもしれない。それが単純に信仰から出たことなら問題ない。しかし、もしそこに偽りや邪な意図が隠されているなら、主の御名を悪用するという大きな罪を犯すことになることになる。そんなことをしたら絶対に祝福されない。

アブサロムの人の集め方を見てみよう。10-12節。彼は確かに人をたくさん集めた。しかし、正攻法ではない。真正面から説得して人々を集めたのではない。集められた人々は「何も知らされてはいなかった。」参加してみたら、謀反のための集まりだった。集まった人々はなんとなく、その場の勢いに押されて、勝ち馬に乗れと言わんばかりアブサロムを支持するようになった。目的を隠して人を集めるというのは、一部のカルト宗教のやり方に似ている。イエス様は何も知らせずになんとなく従わせるなんてことはなさらない。人格的に私たちを扱う。意思の決断を大事にされる。ストレートに「わたしについて来なさい」と言われる。
そして、アブサロムは、アヒトフェルをスカウトにした。アヒトフェルが三国志の諸葛孔明のような計略に長けた人物だったからだ。アヒトフェルは、もともとダビデの顧問だった。どうしてダビデを裏切ったのか?サムエル下をよく読んでみるとアヒトフェルはバト・シェバの祖父であることがわかる。アヒトフェルはバト・シェバと姦淫の罪を犯したダビデを憎んだのだ。つまり、アブサロムとアヒトフェルはダビデ憎しで一致して意気投合したということ。憎しみによる連合だ。憎しみはサタンの軍勢が一致できる理由でもある。ああ、私たちはこんな連合を絶対にしてはならない。私たちはヘイト目的で集うことは絶対にないようにしよう。それでは、サタンと同じになってしまう。私たちが集う理由は、常にイエス様に対する熱烈な愛と互いに対する愛であるようにしよう。アーメン。

13-16節。ダビデの都落ちだ。単純に、自分が生き残ることだけを考えたら、難攻不落のエルサレムで籠城した方が戦いやすいかもしれない。しかし、ダビデは、アブサロムのことを自分が蒔いた種だと悟っていた。ナタンを通して語られた御言葉通り、殺人と姦淫の報いとして、自分の家から悪を働く者が起きた。だから、ダビデがどうなるかは主がお決めになることだ。籠城をすれば安全とか、そういう問題ではない。そして、自分が蒔いた種であれば、ダビデとしては極力ほかの人たちを巻き込みたくなかった。そこで、守るのに有利なエルサレムを離れて都の人々に危害が及ばないようにしたのだ。
このあとのダビデの判断もすべて一貫している。「自分がどうなるかは主にゆだねる。受けるべき報いは受ける」という立場を貫いている。その立場をもとに、ダビデは落ち着いて、家臣たちの前でどうするかはっきりとした判断をくだし、指示をしている。この潔さがダビデの優れた点の一つだ。不祥事が明るみになった後も、いつまでも自分の地位にしがみつこう躍起になる指導者もいる。私たちはダビデのように、自分の地位を脅かすような出来事があったとしても、自分がどうなるかについては全部主にゆだねて、潔くふるまう者になろう。

17-23節。都落ちするダビデだ。これからどんどん落ちぶれてしまうかもしれない。もうダビデが死んでしまったかのように敗戦ムードが漂い、その地全体が大声をあげて泣いた。そして、ダビデの行先は、かつてサウルを避けていたときにさまよった過酷な荒れ野だ。肉的に見れば、勝ち馬に乗るならアブサロムについた方が良さそうだ。そういう中でも、何のためらいもなくダビデについていくことを選んだ兵士たちだ。18節を見ると、まずは家臣たち、長いことイエス様につき従っていた者たちだ。形成が悪いからといって節操なく鞍替えすることはありえない。王への変わらない忠誠を尽くす。これは長年教会に仕える牧師や役員たちのような存在だ。教会が大変な時にも、変わらずに忠実に奉仕をするこういう人々の献身によって神の国は支えられる。
続いてクレタ人全員とペレティ人全員。8章でも紹介されたダビデ軍の最高戦力である外国人傭兵部隊だ。傭兵なのに、外国人なのに、ダビデから信頼されていた。一人も欠けることなく、全員当たり前のようにそこにいた。傭兵なのにお金で寝返らない!不動の忠誠だ!まさに異邦人クリスチャンはクレタ人とペレティ人のように召されている。私たちは神の国の最高戦力として、イエス様から最も信頼される者になろう。
最後にガト人イタイを筆頭とする600人のガト人だ。彼らは言わば新参者で、亡命してきたばかりだった。ダビデは彼らのことを思いやって、あえてアブサロム側につくように勧めた。しかし、イタイたちはダビデと一緒にイタイと命がけで従う決意をしていたので、同行を許された。彼らはいわば信じたばかりの異邦人クリスチャンのような存在だ。クリスチャンは信じたばかりだと信仰が弱くて献身できないかというとそんなことは決してない。むしろ、マンネリ化したクリスチャンよりも初めのころの愛に燃えて熱心に奉仕や伝道ができる。それで、後の者が先になり、先の者が後になるとイエス様が言われたことが起こる。信じたばかりでも、イエス様に対して熱い思いがあるなら、押しとどめておく手はない。イタイのように、思い切った献身を進んでする者になろう。

24-29節。続いて、戦闘要員ではないレビ人たちが契約の箱を担いでダビデに従おうとしていた。罪は犯したが、それでも、ダビデが真の礼拝者だということを彼らは知っていたからだ。ちゃんと信仰を持っている人を王にいただきたいと思った。指導者が信仰者であるということは私たちにとっても重要だ。日本のあらゆる分野の指導者として、信仰者が立てられていくように執り成して祈っていこう。
ダビデとしては、祭司とレビ人を従わせ、契約の箱を手元に確保しておけば、「我こそが主によって立てられた王である」として自分の正当性を主張する材料に使うこともできただろう。しかし、ダビデは契約の箱をもとに戻させた。契約の箱を政治利用してはならない。契約の箱を担げば神を味方につけられるという発想は偶像崇拝であり、神を侮ることだ。かつてイスラエルは戦場に契約の箱を動員してひどい敗戦を喫したことがあった。もしダビデが契約の箱を戻さなかったら、二の舞になっていてもおかしくない。私たちは神をコントロールすることはできない。神を買収することはできない。
ダビデは、ここでも神にすべてをゆだねて、御心通りになさることを願った。神がどのような判断をくだそうとも、それに従う覚悟だ。私たちも、それがどのような内容であろうとも、神が御心通りに自分になさることを願う者になろう。そういうへりくだった者に対してこそ、神は憐み深く対処してくださる。
しかし、味方は多い方がよい。ダビデは祭司の息子たちを密偵として用いて、情報収集できるようにした。荒れ野の渡し場を渡るべきか、とどまるべきか判断できるようにするためだ。戦いでは、情報量が鍵となる。特に私たちは聖書を深く研究して、神様の御声を聞いて適切な判断をくだせる者になろう。

30-37節。アヒトフェルがアブサロムについたという悪い知らせを聞いて、ダビデら一向は嘆いた。これは決して大げさなことではない。アヒトフェルの助言がそれだけ脅威だったのだ。アブサロムの軍勢の数や強さよりも、アヒトフェルの助言が脅威だった。それくらい、賢い言葉には大きな力があるのだ。一つの助言が戦いの趨勢を決めてしまいかねない。私たちもそういう敵がいることによって嘆いてしまうことがある。私たちが頭を抱えるときもたいてい、あのどの生き物よりも賢い蛇が陰で暗躍しているせいなのだ。どうすれば私たちは勝つことができるのか?エフェソ6:10-11。悪魔の策略に対抗して立つ方法として、「悪魔の策略の研究をしなさい」とは書いていない。「悪魔の策略に対抗する策略を練りなさい」とも書いていない。悪魔の策略には、神の偉大なる御力、神の武具で対抗しなさいと書いてある。悪魔よりも知恵も力も優れている神に頼るときに勝利を得ることができる。
ダビデは嘆きの中にありながら主に祈った。「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と。神の偉大な御力に頼った。まず霊的に武装した。嘆いてもいい。嘆いても投げやりになるな。嘆きを祈りに変えろ。この祈りの後どうなったか。32節。神を礼拝する頂上の場所に着くと、フシャイが現れた。つまり、さっそく主に祈った答えが目の前に現れたのだ。ダビデは信仰をもって祈ったので、フシャイこそが主からの答えだとすぐに気づくことができた。信仰なしに祈って、答えが来ることを期待しないと、せっかく神様が目の前に祈りの答えを与えてくださっていても、気づかないことがありうる。祈ったら、答えが目の前に現れることを期待する者になろう。
ダビデは確信をもって預言する。「お前はわたしのためにアヒトフェルの助言を覆すことができる」と。また、密偵として立てた祭司たちのその息子たちと連携するように的確に指示する。祈りの答えが与えられたら確信をもって行動し、勝利を宣言しよう。そうすれば、その通りになっていく。
こうして、都落ちの中で、自分のことを主にゆだねて、ダビデの霊性が回復していくのを見ることができる。ダビデは王宮での何不自由ない生活の中で心がにぶくなり、罪を犯したが、危機に陥って霊性が回復した。大変なことが起こる、戦いがあるということは必ずしも悪いことではない。嘆いてばかりいてはいけない。ピンチはチャンス。ピンチの中で、私たちはかえって心が研ぎ澄まされ、霊性が磨かれ、信仰が成長することもできる。
ダビデはどのくらいゆだねていたのか?詩編3:6。アブサロムから逃げる中でも眠ることができるくらいゆだねていた。自分のことを主にゆだねて、平和の内に歩む者になろう。

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