愛されている者の登場です!
人は目に映ることによって見るが主は心によって見る[サムエル上16章]
【ノート】
サウルは神の命令に背いて、悔い改めようとしなかった。それで、サウルは王位から退けられることが決定的となった。サムエルは主の御心を心としてサウルのことを嘆いた。サウルに大きな期待をかけていただけに、その期待が裏切られたことで心を痛めた。ものすごくショックなことがあったとき、人は立ち直るのに時間がかかるものだ。しかし、主に従う人は立ち直りが早い。まだ、サムエルがまだ落ち込んでいるうちに主からの御言葉がサムエルにかけられた。
1節。主はサウルのことに御心を痛めていたが、ここではケロッとして、もう次の手を打とうとしている。主は永遠の時間を生きておられるお方であり、人とは時間の流れが違う。また、御自分の感情に流されてしまうことがない。いつも、正しい時に正しいことをなさるお方。主がなさることはすべて時宜に適って美しい。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」というのは、主の咤激励だ。主の叱咤激励が私たちの嘆きを終わらせ、立ち上がらせ、次の行動に移させてくださる。だから、ショックなことがあっても、主に従う人は祈りの中で主に励まされ、すぐに立ち直ることができる。次のステップに進むことができる。箴言24:16。主はあなたに言われる。もう嘆くな。重荷はすべて私にゆだね、立ち上がれ。
主はサウルが駄目だったからといって、王制をあきらめてはおらず、別の人物を立てる計画を立てておられた。もうその人物を見出しておられた。実際のところ、主は誰を立てるか、天地創造の前から選んでおられる。エッサイとは「私は財産を所有する」という意味。エッサイの持っていた最大の財産は息子のダビデだった。
サムエルはなかなか主のお考えについていけないので、一言だけ言う。2節前半。サムエルは「サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」と言っている。サムエルには、サウルが主の預言者を殺してしまいかねないと確信していた。主もそれを否定してはいない。それくらいサウルの心は主から大きく離れてしまっていたのだ。そこで、主はサムエルに事を荒立てないようにする作戦を授ける。
2節後半-5節。大々的に「別の王を立てる」という目的を前面に出してエッサイのところに行くのではなく、生け贄をささげるといういつもサムエルがしていることを名目にして、ひそかに油注ぎを行うということだ。公に人々の前で指導者に立てられるよりも、ひそかにでも主からの油注ぎを受けることの方がずっと重要だ。油注ぎが、正当な王としての権利を付与する。人々の前で王となるという結果は後からついてくる。
6-10節。預言者サムエルは、イスラエルで最も霊性の鋭い人、長く生きていて、多くの人と会ってきた経験のある人だ。だから、人を見る目は誰よりもあった人だ。そんなサムエルすら、エッサイの息子たちの外見を見てだまされた。主の御言葉によって指摘されないと、わからなかった。ベストセラー本に「人は見た目が9割」というのがあるが、それだけ人は他人の外見だけ見て判断してしまう、だまされてしまうということ。宗教は人の目のだまされやすさを利用する。人は荘厳な建物によって魅了されてしまう。イエス様は違った。イエス様はエルサレム神殿をご覧になったとき、全く感動されなかった。むしろ、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言った。人は立派な身なりの人に魅了されてしまう。イエス様は衣服の房を長くするファリサイ派の人々の汚れた心を見ぬいた。外見が良いのは悪いことではないが、中身が伴っていないと主はお認めにならない。
誰を推薦するか、誰を指導者に立てるか、決めるとき、自分の目や直感に頼るのではなく、霊を見分ける力を働かせて、主の判断を仰ぐようにしよう。
それでは、主はどうしてエリアブら7人を選ばなかったのか?彼らの心が御心に適わなかったからだ。そのいったんは17章で見ることができる。エリアブはダビデに腹を立ててひどいことを言っている。悪い言葉は悪い心から来る。
さて、その場にいたエッサイの息子全員が主に退けられてしまった。どういうことか?11-13節。ダビデは「愛されている者」という意味。ダビデは、父親のエッサイからはないがしろにされていた。末っ子だからということで期待されていなかった。それで、せっかく預言者サムエルと一緒に食事をするという名誉ある機会のときにも、のけ者にされ、羊の番をさせられていたのだ。しかし、少年ダビデは腐ることなく、父の言いつけをよく聞いて、忠実に仕事をする者だった。主はダビデの良い心をご存知だった。ダビデは肉親の父からはあまり愛されていなかったが、父なる神から愛されている者だったのだ。ダビデも外見は立派だった。3つの特徴がある。これはイエス様にも見られるものだ。また、あなたの上にもこの特徴が与えられるように。第一に、血色の良さは良好な健康状態、健康な感受性を表している。ダビデは霊魂肉体すべて健康で、感受性が豊かだった。第二に、目が美しかった。イエス様は「体のともしびは目である。目が澄んでいれば全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言われた。ダビデの目には神がお与えにともし火が宿っていた。第三に、姿が立派だった。ほかの7人が身を清めて、身なりを整えてサムエルの前に出たのと違って、ダビデは羊の番をしていたところから直接来た。よごれていて、汗や羊のにおいがしていたかもしれない。だから、ここでいうのは良い身なりだったというのではなく、良い体つきをしていたということ。
少年ダビデに油注ぎがなされ、主の霊、つまり聖霊様が激しくダビデに降るようになった。油注ぎとは、任命と力の付与。サウルの時に説明したように、聖霊様の油注ぎは、確信を与え、必要なリソースを得られるようにし、敵に対する勝利を得られるようにし、霊的体験を与え、導きを与え、主にある自由を与えるものだ。
主はもうサウルを退けていた。主はダビデに聖霊様の油注ぎを与え、王位を得る正当な権利を与えた。しかし、まだサウルが王位についていた。ダビデがイスラエル全体の王になるのはまだ20年くらい後の話だ。ダビデはイエス・キリストの型だ。世界を支配する権利はもともと人間が持っていた。しかし、人間の罪によって、世界を支配する権利はサタンに移った。イエス・キリストが人間の罪の贖いを成し遂げたことで、世界を支配する正当な権利はイエス・キリストにあって回復された。クリスチャンはイエス・キリストと共に治める者となった。しかし、まだサタンは堕落した世の君として君臨している。もうサタンは敗北が決定しているのに、まだ世を支配している。完全に世界がキリストとクリスチャンのものになるには、世の終わりのサタンの完全敗北を待たなければならない。それまでは戦いが続く。覚えておきたいのは、正当な権利はイエス様にあってクリスチャンにあるということだ。私たちがイエス様の御名によって祈り、宣言するなら、世を勝ち取っていくことができる。敵の抵抗もある。敵は、奪われたものを奪い返そうとする。だから、私たちは信仰によってどんどん勝ち取っていき、勝ち取ったものが守られるように祈り続けなければならない。
14-15節。聖霊様の油注ぎは残念ながら、失われ得る。私は救いが簡単に失われるという話をしているのではない。聖霊様の満たし、油注ぎ、力というのは、私たちが大事にしないとなくなってしまうということだ。「霊の火を消してはなりません」とⅠテサロニケ5:19に書いてあるのはなぜか?聖霊様の火は消えてしまいうるからだ。私たちが罪を犯し続けて悔い改めないとき、神からの召命に応じようとしないとき、喜びと感謝をもって祈ることを完全にやめてしまうとき、火は消えてしまう。聖霊様が去っていくとどうなるか?神からの御守りが失われ、悪霊に対して扉を開くことになる。代わりに悪霊が侵入して来る。悔い改めで悪霊を締め出し、信仰による祈りで火を絶やさないようにしよう。
ここでは、悪霊のことを「主から来る悪霊」「神からの悪霊」と書いてある。どういうことか?神は悪霊の親玉なのか?神は良いお方だ。サタンは悪いものであり、悪いことする。サタンのすることは神の御心には適わない。ただし、サタンは何か悪事をするときはいつも神から許可を得てでないとできない。
神は御自分の良い目的を成し遂げるためにあえてサタンに人間を害する許可を与えることがある。また、神は人間に自由意思を与えている。人間の神への従順が自由な選択の上でなされた意味のあるものとするためだ。私たちが自由意思を使って、背くこともできるにもかかわらず神に従うことを選ぶなら、神はそのことを喜ぶ。自由には選択が必要だ。神が御自分以外の選択肢として存在を許しているのがサタンだ。人間が神ではなくサタンに従おうとするとき、神はそれを許可する。そういう意味で、サタンは一定の目的で神に仕える存在だと言える。神はこの世に存在するすべての霊を支配しておられる絶対的なお方だ。
16-18節。悪霊の影響の一つは気分を悪くすることだ。繰り返し悪感情にさいなまれるという場合、悪霊による影響の可能性がある。そういう場合、できることはたくさんある。よく自分の心を探り、恨みに思う人があったら赦しを宣言しよう。罪を悔い改めよう。信仰によってイエス様の血潮を宣言し癒しを宣言しよう。悪霊に出ていくように命じよう。聖霊様の満たしを求めよう。これらのことを時間をかけて何度も実施しよう。もう一つの効果的なものがここで取り上げられている音楽だ。特に私たちは恵まれた時代に生きている。ダビデのような竪琴の名手を探さなくても、油注がれた賛美のCDを購入して、好きなときに好きなだけ聞くことができる。悪霊からの圧迫を感じるときは、様々な対処と共に賛美CDをかけて気持ちを落ち着けよう。
家臣の一人が気分を良くするために竪琴の名手を探すことを提案したところ、従者がダビデを推薦した。人の優れた特徴を見出すというのは良いことであり、この従者にはその賜物があった。ここでさらにダビデの4つの優れた特徴を知ることができる。これらの特徴もあなたに与えられるように。第四に、竪琴を巧みに奏でる。ダビデには芸術的なセンスと手先の器用さがあった。これも主からの賜物だ。神を賛美し、人々の安らぎを与えられる。第五に、勇敢な戦士で戦術の心得があった。最善の戦い方を選ぶ知恵とそれを実践する勇気を兼ね備えていた。霊的戦いでそうでありたい。第六に、言葉に分別があった。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と書いてある。ダビデは悪い言葉を控え、良い言葉を語ることのできる良い心を持っていた。第七に、主が共におられる人。聖霊様で満たされていたということ。
ダビデは多才だった。マルチプレイヤーだった。それは生まれ持ったものというだけでなく、主からまかされたことを忠実に果たし、いただいた賜物を忠実に用いた結果、新たな賜物が与えられるというふうに、増えていったものだ。もしかしたら、自分で勝手に自分の可能性を狭めてしまっているかもしれない。信仰によってチャレンジさえすれば、主にあって私たちはもっと多くのことができるのではないか。多くの賜物を主からいただいて、幅広い分野・領域で用いられる御国の人材となろう。
19-23節。新たに油注ぎを受けたダビデと油注ぎを失ったサウルが主の不思議な導きで出会った。二人は最初、非常に麗しい関係を築いた。サウルはダビデのことを気に入った。ダビデはサウルに安らぎを与えた。少年ダビデにとっても、サウルはヒーローだっただろう。ダビデはずっとサウルのことを「主が油注がれた方」として尊敬することをやめなかった。しかし、この麗しい関係は、長くは続きはしない。油注ぎを失った者は油注ぎを受けている者を倒そうとしてしまう。教会が教会を敵視してしまう理由はこれだ。
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