ダビデとゴリアト[サムエル上17章]

サムエル記
スポンサーリンク

ゴリアトは大きい図体のわりに真面目で姑息なやり方でイスラエルの士気を弱らせます。

新戦力として神様から投入されたダビデは、巨人を恐れずに一騎打ちに応じ、万軍の主の御名で勝利を宣言します。

ダビデとゴリアト[サムエル上17章]

ダビデとゴリアト[サムエル上17章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
1-11節。戦いは、両軍が激突してすぐに決着がつくこともあれば、このように、二つの陣営の長いにらみ合いが続くこともある。時々小競り合いはするけれども、すぐに全面衝突しない。それはどちらも慎重になっている場合に起こる。イスラエルがペリシテ軍に対して慎重になるのは当然。ペリシテはイスラエルにとって最大の強敵だった。ペリシテ軍も慎重だった。前回ペリシテ軍がサウル王率いるイスラエル軍と戦ったときは、戦力差の開きが大きかった。ペリシテ軍としては、数にまかせてひねりつぶすだけでよかったはずなのに、まさかの大敗北をきっした。そこでペリシテ軍は思い知った。「イスラエルは侮れない。」しかも、前回のときと比べてイスラエルは多くの戦いでの勝利を経験し、本格的な軍隊としての実力をつけつつあった。「イスラエルを倒すためには、心を折り、神に対する信仰をくじかなければならない。」そこで、ペリシテ軍の中でも最強の戦士のゴリアトを動員して、イスラエルを繰り返し一騎打ちの挑戦をつきつけ、イスラエルを恐れさせ、士気を落とすことにした。このことから、私たちはサタンの戦略を知ることができる。敵は馬鹿ではない。私たちがイエス様の御名によって強められて、簡単には誘惑できない、下手すれば返り討ちにあうと知れば、執拗な神経戦に変える。私たちを執拗に脅かして恐怖を植え付けて、信仰をくじこうとする。

ゴリアトの姿を見てみよう。背丈6アンマ半というのは3メートル以上ということ。巨人だ。もし普通の人間が身長3メートルもあったら、体のサイズに内臓や骨がついていけず、激しい運動ができない。しかし、ゴリアトは百戦錬磨の戦士だ。ということは、3メートルの体にあった内臓や骨を持っていたということ。普通の人間ではなく、人間の亜種といっていい。巨人はサタンによる支配を象徴する存在だ。ノアの洪水のときにも、ネフィリムという巨人が悪さをしていたし、カナンの地の征服の時にも、巨人が相手だった。ゴリアトは全身を完全武装していた。青銅約50kgもあるうろことじの鎧を着て、その他に兜、すね当て、盾で守られていて、武器としては刃の部分だけでも7kgもある投げ槍を持っていた。参考までに陸上競技で使われる投げ槍は男子800gだ。ゴリアトが7kgの槍を投げたら大砲のような威力だっただろう。イスラエル軍はみんなゴリアトの大きさに圧倒されてしまった。

ペリシテ人が要求したのは、一騎討ちだ。一騎討ちは、戦争では、時々行われた。全面衝突だと両軍に被害が大きいので、少数の精鋭での戦いで勝敗を決めてしまおうということだ。そのペリシテ人は明らかに誰よりも強そうだった。誰も「われこそは!」と名乗り出る勇気のある人はいなかった。かといってここで一騎討ちを嫌がって、ペリシテ人の要求を拒んだら、イスラエルの兵たちの士気がガタ落ちになる。こういうとき、誰が真っ先に名乗り出るべきだろうか?サウル王だ。サウル王はイスラエルの誰よりも大きかった。ゴリアトのサイズに対抗できそうな唯一の人だった。それに、王が一騎討ちを名乗り出れば、兵士たちが鼓舞されただろう。実際にサウルが戦わなくても、兵士たちも「いや、王が戦ってはなりません。ここは私におまかせください」とみんな一騎討ちを志願しただろう。しかし、サウルも恐れおののいてしまい、ゴリアトを見ただけで打ちのめされてしまった。

12-15節。本来、ダビデがこの戦いと関わることはないはずだった。エッサイはベツレヘムでは長老だった。責任ある立場だったので、上の息子たち3人を戦場に送り出したが、ダビデは末っ子だ。生まれた順番的にも、年齢的にも、戦いに参加することは期待されていなかった。そしてダビデはダビデで忙しかった。サウルに仕えて竪琴を奏でることと、父親の羊の世話をすることの一人二役をやってのけている。おそらくは、日や曜日を決めて、定期的にサウルを訪問していたのだろう。マルチプレイヤーだ。私たちも主が命じられるなら、二つ三つの役割を同時にこなし、どれも忠実に行う者となろう。主にあって私たちは自分が考えているよりもずっと多くのことができる。

16節。ゴリアトはなんと40日間連続で毎日休まず、同じ場所に現れて一騎討ちの要求をしてはイスラエルに恐怖をうえつけた。その狙いは一騎討ち自体ではなく、イスラエルをすっかり恐怖のどん底に突き落として立ち直れなくするためだ。信仰も士気も何もなくなってしまったところで、総攻撃で叩こうという魂胆だ。ゴリアトはイスラエルにとってトラウマのようになっていく。大きい図体に似合わず、真面目で、姑息だ。40日というのは、人をすっかり変えるのに用いられる期間だ。ノアの人生は40日間の雨によって変わった。モーセはシナイ山の40日間で律法を受け取り、変えられた。イエス様は荒れ野での40日間を通して力を受けられた。弟子たちはイエス様の復活後、40日間イエス様と共に過ごして変えられた。40日間のゴリアトによる挑戦でイスラエルはすっかり臆病に変えられてしまった。しかし、神が常に上手である。それは、ダビデが活躍する舞台を整えることになる。

サタンはものすごくまじめで姑息だ。サタンが私たちに恐怖を煽ってきたら、どうするべきか?とんでもなく大きな問題を見せて、失望させようとしてきたらどうするか?そういう言葉には一切耳をかさず、すぐにイエス様の御名で撃退することだ。そうしないと、繰り返しサタンは私たちをおどかしてくるので、私たちはすっかり参ってしまい、勝てるという望み失ってしまいかねない。イエス様はからし種一粒ほどの信仰があれば山も動くと言われた。どんな問題も対処できるということ。信仰を持って敵の脅しを撃退しよう。

神が臆病になったイスラエルに替わる新戦力としてダビデを戦場に送る方法を見てみよう。17-30節。ダビデは父エッサイの言いつけ通りに、ちゃんと羊の群れを番人にまかせて、戦場にいる兄にお弁当を届けにいった。そこでゴリアトの声を聞くことになる。サウルはゴリアトを撃つために懸賞金と自分の娘を与え、税金を免除するという褒美を約束したが、誰も恐れて、挑戦しようとしない。ところが、ダビデの反応は恐れではない。他の兵士たちと違っていた。

第一に、神とイスラエルを侮辱されたことに対する怒りだ。私たちは悪魔とその配下の悪霊どもに対してだけは、正当に怒りを燃やして然るべきだ。悪魔が神とキリストに反対し、家庭を破壊し、人間を捕らえ、誘惑し、苦しめていることについて、無感覚であってはならない。悪魔を倒し、悪魔に奪われてしまっているものをすべてを奪い返す、という意気込みを持とう。

第二に、約束された褒美にも興味を示した。危険を冒して戦うのだから、褒美に興味を持つことは当然だ。霊的な戦いに勝利すれば、神が約束しておられる褒美が待っているということを覚えよう。勝利を得る者には、天では大きな報いがある。その報いは永遠に残る。地においては、人々が救われ、解放されていく。あなたが勝利すれば、あなたの家族や友人知人が祝福されて、囚われの身から解放されてイエス様のものとなっていくのだ。

ダビデは燃えていたが、水を差す人がいた。長兄のエリアブだ。なぜか末っ子のダビデだけがサムエルから油注ぎを受けた。そのことをエリアブも見ていた。その油注ぎが何を意味するのか、わからなかったが、何かしらの祝福には違いない。エリアブにはそれが妬ましく憎たらしかった。それで、エリアブはダビデに対して悪い見方をしている。「私が知っている」と言って、ダビデが、怠け者で、実力をわきまえずに思い上がっていて、興味本位で戦いを観戦しようとする野次馬根性の人だと決めつけている。さて、これはいずれも事実ではなく、エリアブの思い込みだった。私たちが人に妬みや憎しみといった悪い感情を抱く時、真実が見えなくなってしまう。エリアブはほかの兵士と同じように臆病になっていたがダビデはエリアブと違って勇気をもって戦おうとしていた。もし、優れた人物に対して悪い感情を持っていたら悔い改めて清めていただこう。ダビデはエリアブの話を退けた。

褒美に興味を持った人はほかにいなかったので、サウルの耳に入った。31-40節。サウルとダビデはすでに面識があったが、ダビデの竪琴弾きとしての立場は非公式的なものだった。王が悪霊によって苦しめられているなんていうことは公に知られてはならない。だから、ここでは、まるで初対面であるかのように会話している。

ダビデはゴリアトと戦うことを申し出た。サウルは止めた。しかし、ダビデは食い下がり、自分が勝てるという根拠を示した。人を説得するには、強い確信をもって、燃える心で根拠をあげて力説することだ。そうすれば、大変な頼み事でも聞いてくれるし、企業の面接だったら採用されるし、当然、福音伝道であれば救いの実が結ばれる。ダビデは、まぐれでゴリアトを倒すのではないし、油注ぎを受けていきなりゴリアトを倒せる力を得たのでもない。ダビデは日ごろの生活の中で訓練されていた。十分な実戦経験を積んでいた。ダビデは、ほかの兄弟たちが嫌がる羊の番の仕事を押し付けられるようにまかされているとき、その仕事を命懸けで忠実に行った。ダビデは神様以外誰も注目していないところで、羊を守るために獅子や熊と戦って勝った。隠れたところで獅子と熊を倒す人が、大勢に前で巨人を倒す上で用いられる。あなたが今まかされていること、それは人から高い評価を得られるものではないかもしれない。しかし、そこで最低限の仕事だけするか、全力を尽くして行って獅子をやっつけるほどの成果を出すかは、あなた次第だ。その過程であなたは訓練され、成長できる。神はあなたの働きぶりを見ておられ、いつか報いてくださる。だから、今与えられていることを、忠実に、全力で取り組む者となろう。

サウルは説得されて、ダビデをゴリアトと戦わせることにした。必ず勝てるとは思っていなかっただろう。しかし、とりあえず自分以外に戦う人が見つかったことを良しとした。サウルは勇気をもって志願したダビデに、良かれと思って自分の武具を惜しみなく提供する。しかし、ダビデは身に着けようとしなかった。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と。ダビデは言うべきことをはっきりと言う人だった。長身のサウルの武具が少年ダビデに合うわけがない。自分の身の丈にあわない他人からの借りもの、慣れていないもので勝負してはならない。私たちは無理して人の真似をしなくていい。神から自分に与えられている賜物で勝負するべきだ。ダビデが武器に選んだのは川岸のなめらかな石だ。ダニエル書で、夢で巨大な偶像を打ち砕いたのは、人の手によらずに切り出された石だった。石はイエス・キリストを象徴する。イエス・キリストが巨人に象徴されるサタンの支配を打ち砕くのだ。

41-47節。ダビデは万軍の主の御名で信仰によって勝利を宣言した。万軍の主は、神の国の軍隊を率いて、御自分に属する者に勝利をもたらされる。しかもその勝利は、ただゴリアトを倒すだけでなく、ペリシテ軍全体を倒す完全勝利だ。ダビデは、戦いを自分の戦いではなく、「この戦いは主のものだ」と宣言して、主に戦っていただくことを明らかにしている。勝利の栄光をあらかじめ全部主に帰している。イスラエルの兵士たちは、ゴリアトを見て恐れていたが、ダビデはゴリアトよりもはるかに強くて大きな万軍の主を信仰の目で見て勝利を確信した。私たちの目は何を見ているか?信仰の目を見開いていつも主を見よう。その方の愛、知恵、全能の力について思いめぐらし、生活の中で体験し、信仰の目でありありと見えるようにしよう。イエス様の御名によって戦い勝利する者となろう。

48-58節。40日間のにらみ合いの末での戦いは、一瞬で決着がついた。ダビデの一回の投石で、あっけなく勝負あった。ペリシテ軍は恐れて総崩れになった。霊的な戦いというのはこんなもの。たった一人でも、備えができている人がいれば、一言イエス様の御名で命じるだけで悪霊どもは総崩れになり、二度と戻ってこなくなることもある。実際、イエス様は3千もの悪霊を追い出すのに、全然苦労しなかった。一言命じるだけだった。

サウルは戦士を見れば皆召し抱える人だったので、こんな優れた人材を逃すわけがない。ダビデはサウルの前に連れてこられた。「少年よ、お前は誰の息子か」「ベツレヘムのエッサイの息子です」これにより、ダビデとサウルは初めて公で互いのことを知るようになった。ダビデは敵であるペリシテ人相手にはたやすく勝ったが、味方のはずのサウルにずいぶん苦しめられることになる。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました