主から送られた深い眠り[サムエル上26章]

サムエル記
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主は深い眠りの中で人に深い取り扱いをします。

主から送られた深い眠り[サムエル上26章]

主から送られた深い眠り[サムエル上26章]

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【ノート】
1-2節。デジャヴだ。前にも同じことがあった。そう、24章で、サウルはエン・ゲディにいるダビデを追った。そのときも、3千の精鋭を引き連れた。しかし、24章の最後で、ダビデがサウルを殺すチャンスがあったにもかかわらず、手をかけなかったので、サウルは感動の涙を流したのではないか?あの涙はどこに行ったのか?涙はすぐに渇くが、サウルの内にいる悪霊は残る。悪霊は主の御前で罪を悔い改めない限り残り続ける。サウルは一時的にはダビデを放っておく気持ちになった。しかし、悪霊にさいなまれると善く見えたすべてが悪く見えるようになる。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討ったと歌う人物を生かしておくべきか?」「上着の端を切ったのは王に対する反抗心があるからではないか?」「実は攻撃を加えようとして仕損じたのではないか?」「あのときのダビデの振る舞いは油断させるための芝居だったのではないか?」「いまも虎視眈々と自分の寝首を搔こうと狙っているのではないか?」「やはりダビデは油断ならない」などと思い巡らす。そういう折に「ハキラの丘にダビデが隠れている」と聞いてただちに出動したのだ。サウルは悪霊によって悪い思考パターンに陥って抜け出せなくなってしまっていた。だから、サウルはいつまでも進歩がない。私たちの思いは真実を表しているとは限らない。騙されていないだろうか。何かを思い巡らすとき、その思いはいったい誰から来ているのか?神からか?それとも自分の肉や悪霊からか?聖霊様と御言葉によって霊を見分けて、聖霊様からの思いだけをとる者となろう。

3-5節。ダビデはまたサウルが捜しに来るであろうことを見抜いていた。それで、すぐに知らせが入るようにしていた。ダビデは逃げるのではなく、大胆にもサウルの陣営に近づいた。逃げる側が追う側に近づいたのだ。この大胆さは神の守りに対する信頼から来るものだろう。死の陰の谷を行くときも災いを恐れないという信頼だ。ダビデは荒れ野の生活で着々と成長していたのだ。ダビデはさらにリスクを犯して近づこうとしていた。6節。大人数だと見つかるリスクが高くなるので、同行する人を立候補させた。名乗り出たのはアビシャイ。アビシャイはイスラエルの将軍の一人として用いられる人物だ。誰かが立ちあがるべきときに手を挙げる人は貴く用いられるようになる。私たちは立候補を募るときに進んで手を挙げる勇気を持つ者となろう。

7-12節。主から送られた深い 眠りと書いてある。主は、人間の取り扱いをするときに、眠りを送られることがある。主はアダムを眠らせて、アダムのあばら骨からエヴァを創った。その眠りは痛みを感じなくするための麻酔のためであり、新たな命を創るためのものだった。また、アブラハムが主の命令に従って動物を真っ二つに裂いたとき、アブラハムは深い眠りに襲われて主からの子孫についての遠い未来の預言が与えられ、煙を吐く炉と燃える松明が現れ、契約の更新がなされた。そのように、人間に対して、深い取り扱いをするときに、主は深い眠りを送られることがある。人間は起きているとき、神の取り扱いに耐えられないことがある。それに抵抗したり反抗したりしてしまうことがある。神は眠りによってそれを封じ込められる。皮肉なことに私たちが、神の取り扱いを素直に受けようと神に協力しようと思えば、神に協力する上で最も良いことは起きてがんばることではなく、眠っていることなのだ。神にすべてをゆだねて自分の力を手放すことだ。そうすれば、神は人間に適切な取り扱いをすることができる。神の取り扱いの目的は、その人を滅ぼすためではなく、手術台にいる人が名医から手術を受けるように、私たちを治療することだ。サウルたちは、主からの深い眠りによって、ダビデこそが王になるべき存在だということを改めて諭される。主はまだサウルに、悔い改めの機会を用意しておられるのだ。その中にはサウルばかりでなく、サウルの軍の司令官のアブネルも含まれる。アブネルはこの出来事を通して、強い印象を受けただろう。
さて、ダビデについてだが、ダビデにとってもこれは二度目の試みだった。同じ試みが二度あるとき、御心が分かっていない人、意思が弱い人は、負けてしまうこともある。それは徐々に悪魔に心を浸食されて最後には飲み込まれてしまうようなものだ。
前回はサウルの上着の端を切ったから、二度目の今回はサウル自身を攻撃するということもありえた。

しかし、御言葉に基づいて主の御心を悟り、清められた良心を持って最初の試みを克服した人は、二度目はもっと容易に勝利することができる。そればかりでなく、二度目はもっと良い形で、完全な形で勝利できる。ダビデの部下たちは、ダビデと同じ考えではない。血の気が多いアブシャイは見張りにも見つからず、サウルたちが眠り込んでいる天幕に侵入できたことを神からの好機と考えた。ダビデが直接手を下すことを恐れているなら、自分が代わってサウルを討とう。苦しませないように一撃でしとめるから。ダビデの答えは最初から決まっていた。前の時と同じだ。天幕に侵入したのはサウルを討つためではない。ダビデはサウルのことをもう主にゆだねている。主が寿命か戦争でサウルを打つ。自分が手にかけることを主は決してお許しにならない。それで、今回は上着の端を切ることもしなかった。つまり、良心が痛むことを何一つしなかった。ただ、後で返すつもりで、サウルに対して危害を加える気がないということを証明するために、サウルの持ち物の中から槍と水差しだけ取った。試みに完全勝利した!私たちは、何か試みがあるときには、その出来事について主の御心は何であるのかを悟り、確信を得るようにしよう。そうすれば、最初は完全な解決ができなかったとしても、二度目にはもっとうまくやることができるだろう。私たちは主にあって学習し、成長する者となろう。アーメン。

13-16節。ダビデの責める言葉を聞いて、アブネルと兵士たちはどう思っただろうか?彼らは何の反論もできなかった。彼らはサウルのイスラエル軍の中でも精鋭だった。ペリシテ人や異民族との戦いで勝利を重ねた者たちだった。それまでは、サウル王を守るために警戒を怠らず、夜はしっかり交替で寝ずの番をしていたに違いない。しかし、どれだけ強くても精鋭でも、主からの深い眠りには誰も勝てなかった。彼らは自分たちが相手にしているのは、ただの人間ではなく、ダビデと共におられる主御自身であるということを直感したことだろう。このことが後々のダビデとアブネルの間での交渉につながることになる。どんなに強くても、主には勝てない。もし、私たちが戦っている相手が主なら、早々に降参して悔い改めなければならない。

17-20節。ダビデはサウルに対して、無実を主張する。その中で、サウルが追い回すので、ダビデは主の嗣業の地、イスラエルから出なければならなくなっているということを含ませている。

21節。サウルはまた一時的に感動している。そして、自分の過ちを認め、ダビデに対してもう二度と危害を加えないと約束している。しかし、サウルがこのように言うのは、単にダビデの行動に感動したからであって、主の御心を確信し、それに従おうとしているからでも、主の御前で悔い改めたからでもない。サウルはあくまでも感情に流されている。また悪霊からの悪感情がやってくれば、ダビデを追いまわすことをやめないだろう。ダビデもそれを気づいている。軽率にサウルの家臣の身分に戻ることはない。

22-25節。主が正しい行いと忠実さに従って報いてくださる。私たちが他の人の命を大切にするなら、主が私の命を大切にし、苦難から守ってくださる。これがダビデが主に期待していることだった。たとえ、荒れ野でサウルに追い回され、追い詰められそうになっても、そのことを期待した。主が正しい行いと忠実さに従って報いてくださる。だから、私たちも状況が悪かったとしても、主にあって正しいふるまいをすることを常に追求していく者となろう。

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