ハンナの祈り[サムエル記上1:1-28]

サムエル記
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ハンナは祈りの戦士です。

ハンナの祈り[サムエル記上1:1-28]

ハンナの祈り[サムエル記上1:1-28]

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【ノート】
サムエル記はイスラエルの王政の確立についての書物だ。イスラエルは出エジプトした後、カナンの地を占領して自分の国を持つに至ったが、王を立てなかった。イスラエルとは、神に支配されるという意味。主なる神が王であって、他の民族のように王を必要とはしないのだ。カナンの地占領後、イスラエルの罪によって国が危機に陥ると、イスラエルは主に助けを求めて叫んだ。すると、主は士師と呼ばれる臨時の指導者を立てて危機から救ってくださった。それが約300年続いた。しかし、イスラエルは預言者サムエルの時代になって、王を立てることを要求する。それは、主の目に悪とされる要求だったが主は許可した。預言者サムエルはイスラエルを士師政から王政への橋渡しをした人物だ。サムエル記がサムエル記という名前で呼ばれるのは、王政への転換にあたって最も直接的に用いられた人物だからだ。しかし、サムエルは王を立てる使命を果たした後、フェードアウトしていき、サムエル上の16章以降からはサムエルが王としての油注ぎをしたダビデに焦点があたる。ダビデが主の御心を行うことで、イスラエルに王政が確立する。王を立てることが主の目に悪とみなされたにもかかわらず、主が王を立てることを許したのには理由がある。1.サウルのように悪い指導者による支配がいかに悪いものかを知らしめるため。2.ダビデのように御心に適った指導者による支配がいかに栄光に満ちたものであるかを示すため。教会はこれを目指したい。3.イエス・キリストによる千年王国の支配を予表するため。イエス・キリストがダビデの子孫としてお生まれになったのは、ダビデが王として支配する再臨後のキリストの型だからだ。

こういった神の壮大な計画を踏まえた上で、サムエル記での神の導きとすばらしい御業を賛美しよう。また、サムエル記には多くの信仰者の成功と失敗が赤裸々に書いてある。それらから私たちの信仰者としてあるべき姿を学んでいこう。

1章はサムエル誕生の背景。1節。サムエルの父エルカナの出身地と家系。彼はエフライム山地で生まれ育った人だ。出生地主義で祖先のツフがエフライム人と書いてある。しかし、血筋については歴代誌上6章を読むとはっきりレビ族の人だということがわかる。これは士師記17章に出てくるレビ人について、血筋はレビ族なのに出生地がユダの地なので出生地主義でユダ族と書かれているのと同じだ。サムエルはレビ族の出なのだ。さらに、歴代誌上6章を読むと、サムエルは荒れ野でモーセに逆らって死んだコラの子孫であることがわかる。コラは主がお立てになったモーセに反逆して死んだ。しかし、コラの子供たちは反逆しなかった。両親が犯す罪に追随せずに、その呪いを断ち切ること、これは自然にできることではなく、信仰が必要だ。主はその信仰を認めて、偉大に用いられる預言者をコラの子孫の中に起こしてくださったのだ。主は父母を敬うように命じておられるが、私たちは多少なりとも両親の罪や先祖の罪による影響を受けているところがある。主イエス・キリストへの信仰によって両親の罪、先祖の罪の呪いを断ち切る者となろう。

2節。エルカナには妻が二人いた。一人はハンナで、もう一人はペニナとある。この「もう一人」というのは第二という意味。ハンナが第一夫人で、ペニナが第二夫人だったのだ。当時のイスラエルでは、一夫多妻は禁止されてはいなかった。しかし、だからといって一夫多妻は決して良いことではない。神のオリジナルの計画は「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」だ。あくまで二人だ。そこにほかの人が加わると、必ず妬みや争いが起こる。エルカナの家庭でも、一夫多妻を導入したせいで、心安らぐはずの家庭が戦場になってしまった。

3節。エルカナは毎年忠実に礼拝をし、生け贄をささげていた。ホフニとピネハスはとんでもない祭司だったが、それに左右されず礼拝を欠かさない立派な信仰の持ち主だ。ここに初めて万軍の主という御名が登場する。
アドナイ・ツェヴァーオートというヘブライ語。アドナイはご主人様、支配者、所有者という意味。ツェヴァーオートは大勢の集団という意味だが、多くの場合は軍隊に関連付けられる。その軍隊には天使たちと主の戦いを戦う人間が含まれる。万軍の主が味方なら必勝だ。万軍の主は、戦いに勝利をもたらされる神の御名だ。
エルカナ一家は、その戦いに勝利をもたらされる万軍の主を定期的に礼拝した。そして、まさにその礼拝のときに、家族の中でバチバチと戦いが起こった。4-8節。動物の献げ物は、焼き尽くす献げ物の場合は何もかも焼いてしまうが、和解の献げ物であれば、肉は胸の肉と右後ろ脚は祭司のものとなるが、ほかの部分についてはささげた奉納者とその家族で食べることができる。エルカナ一家が食べたのはこれだ。年に一回の礼拝のときの豪華な食事、それは本来、最も喜びにあふれるはずの日だ。今で言えばクリスマスや復活祭の礼拝の後の食事のようなもの。家族でごちそうを囲んで楽しく過ごす。そのはずの食事が、ハンナにとっては最も苦痛に満ちた食事になってしまった。第二婦人として来たぺニナは最初、ハンナを敬っていただろう。それはペニナが妊娠するまでのことだった。ペニナは子供を得たことで、ハンナを見下すようになった。しかし、子供を得てもどうしても手に入らないものがある。それはエルカナの愛だ。エルカナはハンナの方をもっと愛していた。そこで、ペニナはハンナを敵とみなして、主に礼拝をささげるとき、「子供を得られないのは主から祝福されていないからだ」ということを言ってハンナを攻撃した。これには真実が含まれる。嘘なら無視できる。真実ほど人を痛めつけるものはない。5節にはっきりと「主はハンナの胎を閉ざしておられた」と書いてある。ハンナが子供を産めなかったのは、確かに主によるものだったのだ。それでハンナは最も喜ばしいはずのシロでの礼拝のときに特に、泣いて、食事ものどを通らないくらい苦しんだ。エルカナが慰めようとしても、慰めることができなかった。どうして主はハンナの胎を閉ざしておられたのか?それはハンナが万軍の主に切なる祈りをささげるように導くためだ。家族で主を礼拝する時に、食事も喉を通らないくらい苦しむ、そんな最悪な経験すら、それによって追い詰められて激しく祈るように導かれるなら、それは良いことだ。その祈りの中で、ハンナは預言者サムエルを産むための誓いを口にすることになる。いま苦しみを経験しているか?祈ろう!そうすれば、苦しみがその何倍にもまさる祝福に変わることを体験できる。

9-11節。激しい苦しみは激しい祈りに変わる。ハンナはここで万軍の主に祈っている。万軍の主の御業を最初に体験したのは、不妊の女性のハンナだった。万軍の主の軍隊で戦うことのなさそうな女性。しかし、ハンナは実際には戦士だった。祈りの戦士だ。ハンナは祈りによって戦って勝利を得た。この祈りから、万軍の主がどのような人に味方してくださるかがわかる。ハンナの祈りは「子供を産んで、ペニナをぎゃふんと言わせることができまるように!」とか「ペニナが呪われて子供が産めなくなりますように!」という打倒ペニナの祈りではなかった。そういう身内の人間を敵として、倒すための祈りを万軍の主は聞いてはくださらない。ハンナの祈りはまず憐れみを求める祈り。「はしための苦しみをご覧ください」と祈っている。万軍の主は苦しんでいる者の祈りを聞かずにはいられない憐れみ深いお方なのだ。それは、万軍の主には人の苦しみがわかるからだ。夫エルカナにすらハンナの苦しみはよくわからなかったが、万軍の主は御自分が体験したかのように、はっきりとハンナの苦しみを御覧になることができた。パウロが教会を迫害したことについて、イエス様は「なぜ私を迫害するのか?」と言われた。私たちが経験する苦しみは、主も完全に共有しておられるのだ。そして、最も重要なのは、ハンナの祈りが祈りの答えを全部主に献げることを表明するものだったことだ。頭にかみそりをあてないということは、ナジル人として一生を主にささげるということ。男子を得たら、その子を自分のものにするのではなく、全面的に主に献げるのだ。主は私たちを愛しておられ、祝福したいので、私たち自身の利益になる願いを聞いてくださることもよくある。しかし、主に献げたいという願いは強力だ。主は献げたいという願いを喜ばれる。気をつけなければならないのは、これは誓いであって、もしこういう誓いをしたら必ず果たさなければならないということだ。口ばかり立派なことを言って、後になって「あれはなかったことにします」と言って万軍の主をがっかりさせることのないようにしよう。誓ったことは覚えておいて忘れず、主に対して誠実であるように努めよう。

12-17節。エリは当時の祭司長だ。長年、神殿で祈る人の姿を見てきた。神殿は祈るにはもってこいの場所だから、比較的長く祈る人の姿を見たことはあっただろう。そのエリが、ハンナの祈りをあまりにも長く祈っていると思ったということは、ハンナのそのときの祈りの長さは群を抜いていたということ。祈りが答えられる秘訣は、一つの祈り課題について、長時間集中的に祈ることだ。多くの人が、十分に祈ることなく、祈りをやめてしまうのはなぜか?そこまで切実ではないからだ。切実な祈り課題がある人は、中途半端なところで祈りをやめることができない。まずはその祈り課題について「絶対に叶えていただきたい」という切実さを持つことだ。そうすれば、ハンナのような祈りが出てきて、答えをいただくことができる。ハンナは声を出すことなく祈っていた。言葉ではなく、心で祈っていたのだ。ハンナの祈りは心を注ぎ出す祈りだった。原稿を棒読みするような祈りではなく、ただいつも口にしている祈りの言葉を自動的に出すような祈りでもなく、心の切なる思いをそのまま主に注ぎ出していた。主が祈りに期待しておられるのは、きれいな言葉を並べることではなく、ハンナのように心を注ぎ出して願い求めることだ。エリの耳にはハンナが何を祈っているのか全く聞こえなかった。それで、エリはハンナが酔っぱらって呂律が回らなくなっていると勘違いした。異言で祈った弟子たちに対して「彼らは新しい酒に酔っているのだ」と言って嘲る人がいたのに似ている。エリは当時最高の霊的指導者だ。それなのにハンナの祈りの声が聞こえてこないので、誤解した。人間は最高の部類の人でもそんなものだ。しかし、万軍の主は、ハンナの声なき祈りのすべてを聞き分けておられる。万軍の主には心の声も切実さも全部届いているから大丈夫だ。エリはハンナの弁明を聞いて理解し、ハンナに祝福の言葉を送った。エリはそれでも祭司長だったので、その祝福の言葉には効果があった。

18節。ハンナはまだ子供を授かっていない。ペニナは相変わらず敵だ。まだ以前と何も変わった状況にはない。しかし、ハンナ自身の様子は180度変わった。主が祝福を与えてくださると確信したからだ。祈り込むとこのような確信が与えられることがある。切実な祈り課題については確信が与えられるまで祈り続けよう。
ハンナの心をずっと暗くしたのは、ペニナに悪く言われているということよりも、「自分は主から見放されているに違いない」という苦しみからだ。祈りによって、主が自分を顧みてくださったとわかり、心に喜びと平和が与えられた。それですっかり元気になり、食事をすることができた。心を暗くする根本的な原因は、霊的なものの場合が多い。主との関係の回復こそが私たちの心に喜びと平和をもたらす。それは子供を授かるよりも大きい。和解の献げ物だけでは駄目だった。ハンナには激しい祈りが必要であり、祭司エリの言葉がきっかけとなった。私たちには父なる神との和解をもたらす偉大な大祭司イエス・キリストがおられる。心が暗くなることがあれば、主イエス・キリストの御名で祈り、霊的なブレイクスルーを体験することができる。

19-20節。ハンナが祈った通り、主は男子を与えてくださった。このように、長らく続いた不妊を祈りによって乗り越え、主から子供を授かる証しはクリスチャンの間で非常に多い。

21-23節。ハンナは自分が誓ったことを覚えており、それを果たそうとしている。ハンナは髪の毛を剃らないだけでなく、シロの祭司に仕えさせることまでしようとした。夫のある女性が何か誓いをしたら、夫にはそれを禁じる権利がある。民数記30:11-13。幸いエルカナはハンナの誓いを無効にはせず、認めたので、その誓いは有効となった。サムエルは乳離れするまで、つまり、3歳くらいまで敬虔な信仰の両親のもとで育つことができた。

24-28節。こうしてハンナは主に誓ったことを忠実にすべて実行した。自分の口にしたことを実行せず、主に対して不誠実な人が多い。そんな中でも自分の言葉の通りにする人がいると、主は感動される。それでサムエルがイスラエルの歴史を動かす預言者として用いられることとなった。何か主に誓ったこと、約束したことで、実行していないことはないか?主に対してハンナのように忠実であろう。サムエルをささげるにあたっては雄牛がほふられた。雄牛は主にささげる動物の中で最も高価なものだ。サムエルは幼子に過ぎなかったが人々はサムエルを主にゆだねることを決して小さなこととして見ていなかったのだ。子供には無限の可能性がある。将来、どんな偉大な人物になるかわからない。ハンナはサムエルをエリに預けたが、それは主にゆだねたことだった。特に大切なものを主にゆだねよう。主にゆだねられたものは守られ、祝福される。

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