その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった[サムエル記上3-4章]

サムエル記
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サムエルを通してイスラエルに御言葉が絶えず与えられるようになりました。

その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった[サムエル記上3-4章]

その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった[サムエル記上3-4章]

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【ノート】
1-2節。少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。直接的にはエリの指示を受けて、エリに仕えていただろう。主は、サムエルが年を取ったエリに仕えることを、御自分に仕えることとみなしておられたのだ。エリは目が見えなくなりつつあったので、介護を受ける必要があった。本来ならエリの息子たちが助けるべきだが、息子たちはエリにとって悩み種であって、とても親孝行するような人たちではない。そこで、よくサムエルを呼んでは頼み事をしていたに違いない。サムエルは少年ながらエリに忠実に仕えていた。主は忠実に仕えるサムエルをご覧になっておられた。
御言葉や幻がまれにだった「そのころ」、というのはエリがイスラエルを裁いていたころだ。主は信頼に足りる忠実な者に御言葉を与えて御自分を示される。その点、イスラエルに適格な人が誰もいなかった。しかし、やっとここで主はサムエルを見出したのだ。

3節。神のともし火とは、常夜灯のことだ。出エジプト27:20-21。このことからまだ夜明けではないということがわかる。神の箱は律法の板とアロンの杖とマナの壺が入った契約の箱のことだ。契約の箱には取っ手があって運ぶことができ、箱の蓋は贖いの座と言ってそこには一対のケルビムがつけられていた。契約の箱は主の臨在が最も激しい場所だ。王座のような場所。契約の箱はイエス・キリストの受肉の型だ。契約の箱はこのとき、臨在の幕屋の至聖所の中にあり、サムエルはその隣の聖所で寝ていた。つまり、神の臨在にいつもとどまる生活をしていたのだ。モーセが燃える柴で召命を受けたように、神の臨在に触れるときに人は特別な召命を受ける。今でいえば集会や個人で熱く祈るときがそれにあたる。

このときエリやサムエルがいたのは、ソロモン王が建てたような立派な神殿ではなく、あくまでも臨在の幕屋だった。ただ移動させる必要がなくなったので、幕屋の周辺を拡張させて、扉やいろいろな部屋などをつくる工事を加えたものだ。なぜそう言えるのか?ヨシュア18:1。この箇所でシロに臨在の幕屋が移されたことがわかる。しかし、サムエル記上1章や3章で神殿という言葉が出てくるので、幕屋を捨てて立派な神殿を建てたように思われがちだがそうではない。ここで神殿と訳されているヘブライ語は聖所とも訳すことができる。サムエル記下7:6-7。ダビデのときまで主はずっと幕屋に住んでおられたとはっきり言われている。幕屋は少なくともソロモンが神殿を建てるまで存在していた。

4-9節。主は夜中に呼びかけられた。日中サムエルはせわしくなく働いたせいで、静かに主の御声を聞くことができなかった。無防備に眠りに落ちるときこそ、語りかけるに良い機会だった。私たちが脱力して眠っているとき、主はまどろむこともなく眠ることもない。聖所で常夜灯が常に燃え続けたように、主の御目は常に見開いておられる。
主が三度サムエルに語りかけ、三度サムエルがエリのもとにかけつける様から、3つの優れた点がわかる。まず、サムエルの忍耐強さがわかる。まだ少年で、しかも夜中だ。もちろん、お世話になっているエリの言いつけなので、夜中でも起きる。走ってエリのもとに行った。しかし、私たちが用もないのに人から三度も夜中に起こされたら、どうだろうか?忍耐を切らして「用もないのに夜中に呼ばないで!私は寝る!」 として無視してしまうかもしれない。サムエルが全く同じ「お呼びになったので参りました」という言葉でエリのもとにかけつけていることは、サムエルの主からの訓練によって練り上げられた不屈の忍耐強さを見ることができる。
また、主の優れた知恵がわかる。三度の呼びかけによって、ただの夢や思い違いではなく、確かに主が呼ばれたのだということがエリとサムエルの2人によって確認された。あれは気のせいだったということで済まされたり、サムエルがエリに言わずに黙ったままになったりする余地がなくなった。
そして、主の忍耐強さもわかる。主がサムエルに何度も呼びかけることを通して、主は私たちに語りたいことについて、私たちに伝わるまで、何度も呼びかけてくださるということがわかる。私たちは主からメッセージやいろいろな方法で語りかけられているのに、聞き逃してしまっているかもしれないし、耳を塞いでしまっているかもしれない。主の御言葉は、私たちにとってあまり楽しくない内容もある。しかし、そういう御言葉こそ、どうしても必要だからこそ主は何度も語られる。私たちはサムエルのように、「どうぞお話ください。僕は聞いております」と応答する者となろう。

10-14節。11節で「それを聞く者は皆、両耳が鳴る」と書いてある。「両耳が鳴る」というのはキーンと耳鳴りがするほど、耳の痛い内容、ショックを受ける内容だということ。「それを聞く者は皆」と書いてあることから、これはただサムエル個人に語ったものではなく、サムエルがイスラエル中に語るべきものとして語ったことがわかる。サムエルにとってもとんでもないショッキングな御言葉だった。サムエルは「主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」状態だ。そこで最初に主から直接聞いた御言葉は、自分の恩師であり、養い親であるエリの家に対する永遠の裁きの御言葉だった。しかも、その裁きはもう決定していて、覆ることはない。14節で、「わたしはエリの家について誓った」とある。主は誓いが必要のない真実なお方だが、その主があえて誓うのは、もうそのことがどんなことがあっても覆ることがないということ。これは主が神の人を通して語った御言葉と同じだ。同じことが複数の人に示されることで、それは確かに主からの御言葉であって、必ず実現するということを確認できる。

15-18節。サムエルはエリに主からのお告げを伝えることを恐れた。エリはサムエルが葛藤を感じるのを知っていながら、あえて預言するように強く迫った。サムエルに対して配慮がないように見える。しかし、預言者には、それがどんなに耳の痛い内容、恐ろしい内容だったとしても、ほかの人々に語る責任がある。それを語る方法には知恵が必要だ。公に伝えるか、それとも個人的に伝えるか、本人にだけわかるように伝えるか。どちらにしても語らなければならない。御言葉を預かっている人は罪について、地獄について、裁きについて語ることをやめてはならない。エリが厳しい態度をとったのは、サムエルの預言者として必要な訓練だった。サムエルはこのテストに合格して隠し立てせずに洗いざらい話した。
裁きの預言に対するエリの応答はさっぱりしている。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。エリは40年間イスラエルを裁いた。一介の祭司として仕えていた期間もいれればもっと長い間主に仕えていただろう。そのエリが裁きを受けなければならない理由はただ一つ、息子の信仰教育について失敗したからだ。それ対してエリは一言の不平も言わず、その通りになることを願っている。これはエリの言葉の中で最もすばらしい告白だ。たとえ自分自身に対する厳しい取り扱いについてであってとしても、主がそれを望まれるなら、私はそれを受け入れる。私もそれを望む。「なぜ?」とか「いやだ!」とか「そんな話は聞きたくない」と主が言われることに不快感を示す人がいる。私たちはどんな内容であってとしても主が願われることを自分の願いとしよう。

19-21節。「その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」というのは、サムエルが語ったことはすべて力を発揮し、すべて実現したということ。預言者の御言葉は空しく宙に消えることなく、放たれた弾丸のように、威力を発揮するのだ。サムエルはイスラエルのすべての人々から預言者として信頼された。主から信頼されている人は、すべての人々からも信頼されるようになる。
これ以後もずっと、主が直に御声をもってサムエルに語りかけることは続いていく。1節では「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」状況が、サムエルの登場で主の御言葉が絶えずイスラエルに臨むように変わったのだ。イスラエルに御言葉が回復した。
4章はペリシテ人との戦いだ。ペリシテ人はイスラエルの南西の方に位置する海洋民族であり、軍事国家だった。非常に好戦的で、何度も侵攻してきてイスラエルを悩ませた。士師記ではシャムガルとサムソンがペリシテ人を相手に戦ったが、その戦いはサムエル記でも続く。

1-11節。この戦いではサムエルは全く登場していない。サムエルは預言者としての務めをしていたものの、指導者としての役割はエリと息子たちが握っていたので、関わる機会がなかったのだろう。なぜイスラエルは負けに負けたのか?まず、最初の野戦でイスラエルは負けて4000人が討ち死にした。その負けに対して3節で「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか」と話し合っている。これは非常に良い問いかけだ。神の民がなすことにはすべて、主が関わっている。私たちはうまくいかないことがあるとき、へりくだって、なぜ主はこのことを許されたのかということを真剣に考え、主の御言葉を求めることが必要だ。幸い、イスラエルには預言者サムエルがいる。サムエルを呼んで、どうして負けたのか、何か悔い改めるべき罪がないか、問うという選択もできた。

ところが、イスラエルの長老たちはその問いかけをそのままにして、契約の箱を陣営に運んでくることにした。契約の箱が戦いと関係あるというのは本当だ。民数記10:35。エリコは契約の箱をかついで街の周りをぐるぐる回ることによって落とすことができた。箱と戦いを結びつけること自体には問題ない。問題はイスラエルがなぜ主が負けるままにされたのか、真剣に取り組まなかったことだ。「サムエルを呼ぶと悔い改めを要求されるかもしれない。それは避けたい。契約の箱を持ってくれば、神がイスラエルに味方してペリシテ人を倒せるだろう。」イスラエルは主との御言葉を通しての対話を捨てて、主の臨在を便利なアイテムのように利用しようとした。しかし、主はそのように利用されることを許さない。私たちは何かしらの儀式や道具を利用して悔い改めを省くことも、主の臨在を操ることもできない。イスラエルの陣営は契約の箱の到着によって奮い立ったが、主はイスラエルに味方しておられなかった。
むしろ敵のペリシテ人の方が主を畏れる信仰を持っている。それで、主はイスラエルが完膚なきまで倒されるのを許され、偶像となりかけていた契約の箱が奪われるのを許しされた。そして、2章で神の人が預言していた通り、ホフニとピネハスが死んだ。

12-22節。エリも死んだ。エリの嫁は神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死んだ。自分も死んでしまう。想像しうる上で最悪の事態が全部起きたのだ。それで、「栄光はイスラエルを去った」と考えて、生まれてくる息子をイカボド、栄光は失われたと名付けた。本当に栄光は失われたのか?そうではない。今までイスラエルが栄光を思っていたのは虚栄だった。栄光はエリの息子たちが献げ物を軽んじることによってとっくに失われていた。むしろ、主は虚栄を取り除いて、イスラエルに御自身の栄光を現わす準備を着々と進めておられた。イスラエルはこれから黄金時代を迎えようとしていた。エリと息子たちが死んだのは、確かに不幸なことだ。しかし、それは預言者サムエルが台頭してイスラエルを裁く上で必要なことだった。そして、契約の箱も戻ってくることになる。

最悪なことが全部起きた。どん底だ。栄光は去った。イカボドだ。状況だけを見ればそうとしか思えない。しかし、その背後では主の不思議なご計画がある。だから、そういうときにはまず、へりくだって、心を尽くして主に立ち帰ろう。そして、信仰を働かせてこう宣言しよう。「これからが黄金時代だ。これから主が栄光を現してくださる。」

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