アヒトフェルの助言を覆す[サムエル下17章]

サムエル記
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命をかけるものを間違えてはいけません。
仕えるお方を間違えてはいけません。

アヒトフェルの助言を覆す[サムエル下17章]


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【ノート】
アヒトフェルの助言に従ってアブサロムはダビデのそばめたちと性的関係を結んだ。それによってダビデとアブサロムの親子関係を修復不可能なものにし、アブサロムに従う者たちの決意を確かなものにする効果があった。アヒトフェルの助言の通りにするとうまくいった。アヒトフェルの助言は、ダビデにとっても、アブサロムにとっても、神託のように受け取られていた。つまり、神の御言葉のように受け取られていた。人間の言葉に過ぎないのに、偶像になってしまっていたのだ。何度も神様の御声を聞いて危機を逃れ、成功をおさめてきたダビデすら、アヒトフェルの助言を神託のように受け取っていたくらいだから、それだけ、その通りにすれば百発百中でうまくいったということだ。確かに、賢い言葉には脅威がある。しかし、御言葉と比肩するかのようにとらえられることは、神への冒涜だ。歴史上の偉人、有名人、インフルエンサーの言葉に注目するのはほどほどにしよう。私たちが神託であるかのような、過度な評価を彼らの言葉に与えてしまうならば、神を冒涜することになってしまう。気をつけよう。
神はいつまでも侮られたままでおられることは決してないお方ではない。神の民の不従順によって一時的に侮られることがあっても、人の手を一切借りずに、御自分の御力だけで十分に侮辱を払拭することがおできなる。イスラエルが契約の箱を戦場に動員したときもそうだった。イスラエルは罪によって敗北を喫したが、主の契約の箱はペリシテ人の地に災いをもたらして、ペリシテ人が命からがら箱を返さなければならなくなった。ここでは、神の御言葉とアヒトフェルの助言が同列視されるという冒涜的な状況を、神は預言の力によってひっくり返すことになる。ダビデがフシャイに語った「お前はわたしのためにアヒトフェルの助言を覆すことができる」という主への祈りの答えとして与えられた預言が成就していくことになる。

1-4節。アヒトフェルの二番目の助言だ。ダビデは突然の都落ちで疲れて力を失っている。ダビデに体勢を立て直す時間を与えず、急襲すれば、兵が散り散りになり、ダビデ一人を討ち取って、一件落着ということだ。こうすれば、エルサレムに潜んでいるかもしれないスパイに情報連携の時間を与えずにすべてを終わらせることができる。まさにダビデが今いる状況を正確にとらえて、最短最善の策を打ち出しているのを見ることができる。しかも、アブサロムやイスラエルの長老たち、その場にいる有力者全員の賛成を得ることができた。この通りにすれば、ダビデたちはひとたまりもなかっただろう。

5-6節。アヒトフェルの助言は全員が納得するくらい優れたものだったのに、アブサロムはフシャイの意見も聞いてみようとした。その場にいなかったのに、あえてフシャイを呼んで発言させることにした。アブサロムがこうしなかったらフシャイは発言権を得られておらず、アヒトフェルの助言が採用されていたはずだった。アブサロムはなぜフシャイにも聞こうとしたのだろうか?アブサロムの気まぐれか?フシャイの実力を試そうとしたのか?いずれにせよ、これは主への祈りの答えとして与えられた「お前はわたしのためにアヒトフェルの助言を覆すことができる」というフシャイへの預言を成就のために、主の導きによってなされたことだ。一見、王座に座っているアブサロムがその場をコントロールしているかに見えた。そういう高ぶりがアブサロムにはあった。しかし、状況を完全に掌握しているのはいつも主なる神様だ。この方の御前にへりくだる者になろう。そして、主がいつも状況を完全に掌握してくださると認識することは、神に従う者に平安を与える。まずいように思える状況に陥っても、主が大逆転を与えてくださるとわかるからだ。

7-14節。ここでフシャイが狙っているのは、ただダビデがヨルダン川の向こう側に逃げるための時間稼ぎだ。しかし、フシャイのたくみな言葉がアブサロムの心を完全にとらえて、間違った判断を下させている。どんな要因が判断を誤らせるのか見ていこう。
まず、フシャイは意外にも、誰もが賞賛したアヒトフェルの助言を「良くない」と判断する。そして、アヒトフェルが疲れて力を失っていると予想したダビデたちのことを逆に「子を奪われた熊のように気が荒くなっている」という。急襲が失敗したら士気が落ちることになる。これはアブサロムが内心密かに恐れていたことを言語化している。神から祝福され、百戦錬磨の父ダビデに対する恐れがずっとあった。同席していたイスラエルの長老たちもまさにこれを恐れていた。恐れを植え付けられると、人は保守的になり、リスクをとらずに最も安全な道を選ぼうとしがちになる。しかし、最も安全な道とは結局信仰の道であって、信仰の道とはリスクをとらなければならない道だ。だから、主は聖書を通して「恐れてはならない」と365回も語っている。御言葉によって毎日恐れに打ち勝とう。
続いてフシャイは、ダンからベエル・シェバまでイスラエル全国から兵士を集めてアブサロム自らが率いて戦闘に出るように進言する。こうすれば、勝利の栄光を誇示することができる。つまり、アブサロムのプライドを刺激している。プライドは人の判断を誤らせる。痛手に先立つのはおごり、つまずきに先立つのは高慢な霊と書いてある通りだ。
最後に、「海辺の砂のような兵士」を集めて、「露が土に降りるように襲いかかる」とか、「その町に縄をかけ、引いて行って川にほうり込み、小石一つ残らなくする」とか勝利のイメージを描かせている。人はイメージに大きく左右される。神もその性質を利用してイメージを通して私たちの信仰を奮い立たせることがあるが、人間が与えるイメージの場合、判断を誤らせるおそれがある。商品やサービスを選ぶとき、単純な製品の良し悪しだけでなく、ブランドイメージによって大きく左右される。ここでも、アヒトフェルの助言とフシャイの助言の価値が、イメージによって左右され、判断を誤らせている。
こうして、アヒトフェルの優れた提案は捨てられた。人間の言葉の限界をここに見ることができる。人間の言葉には、それを実現する力まではない。どんなに賢い助言であったとしても、その通りにしなければ効果がない。しかし、神の御言葉には、それ自体に実現する絶大な力がある。神が「光あれ」と言われると光が創造された。御言葉には実現する力があるからだ。聖書の預言はことごとく成就した。御言葉には実現する力があるからだ。御言葉で人間の力で不可能なことを命じられても、その通りに行うことができる。敵を愛しなさいとか、赦しなさいとか、病人を癒しなさいとか、命じられても、その通りに行うことができる。御言葉には実現する力があるからだ。それ自体に力がある御言葉を信じる者になろう。

ところで、どうして主はアブサロムに災いを降すと定められたのだろうか?もしアブサロムがダビデのように、主の御言葉を重んじる人だったら、ダビデに代わって王になることも十分ありえただろう。しかし、アブサロムはダビデと違って、アヒトフェルの助言を聞き、フシャイの助言を聞くけれども、主に聞くということをしなかった。主は人間を、御自分に代わって地を治める者として造られた。しかし、御言葉を聞かない者が主に御心に従って治めるということはありえない。だから、主は御自分の御言葉を軽んじる者を重宝することはできない。御言葉を軽んじる者は主に軽んじられてしまう。御言葉を愛する者は幸いだ。その人は一挙に主が貴く用いる候補者に立てられることになる。
15-22節。フシャイからの情報連携で、無事にダビデたちがヨルダン川を渡って、アブサロムの急襲を避けることができた。その要因として大きく二つのことをあげられる。

第一に、ダビデが配置したヨナタンとアヒマアツが伝令役として大活躍している。アブサロムはせっかくアヒトフェルの優れた助言を退けてしまったが、ダビデは人の賜物を引き出すのが得意のようだ。18章からアヒマアツは足が速いことがわかる。また、追手から逃げるにあたって、瞬時に井戸に逃げるということをしている。2人とも足の速さや身のこなしを買われて伝令役に抜擢されたのだろう。優れた賜物があるのに、それを発揮する機会を得ないというのは悲劇だ。神の国にとって大きな損失になる。我らが王、イエス・キリストも、私たちの賜物を引き出すのが得意。この方の御声に聞き従うならば、埋もれてしまうことがない。私たちは自分の賜物を最大限に発揮できる働きを与えられることになる。

第二に、バフリムの男の家で難を逃れた。バフリムといえばベニヤミン領で、あのダビデを散々呪ったシムイの出身地だ。もし、このバフリムの男がシムイのような人物だったら、ヨナタンとアヒマアツはすぐに密告されて捕らえられていただろう。フシャイの命もなかっただろう。しかし、意外にもこの男はダビデの味方であり、2人をかばってくれたので、2人は難を逃れることができた。神に従う者の味方はどこにでもいる。敵地のど真ん中にもいる。主がそういう人々を配置しておられる。パウロがコリントで福音を伝える時に、主からの励ましの御言葉の一つは「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」だった。未信者の多い日本では、福音を伝えようとすると全員が自分に反対するように思えるかもしれないが、神様は私たちを助けるために予想外なところにクリスチャンを配置しておられる。主が味方を与えてくださることを信じて、福音を伝える働きをしよう。

23節。このアヒトフェルの自害はイスカリオテのユダに似ている。両者とも裏切り者であり、同じ死に方だ。アヒトフェルは、決戦の前に自害している。たった一度、自分の助言が聞き入れられなかっただけで自害してしまうとは、どういうことか。なぜアヒトフェルは死んでしまったのか。これを知れば、アヒトフェルのようになってしまうことを回避できる。また、イスカリオテのユダのようになってしまうことを回避できる。なぜアヒトフェルは死んでしまったのか。

第一に、間違ったものに命をかけていたから。アヒトフェルは自害する前に自分の家の中を整えるほど、几帳面で完璧主義な人だ。アヒトフェルは自分の助言に対しても、完璧さを追求し、そこに命をかけていた。アヒトフェル自身が自分の言葉を神託のように、御言葉のように偶像化してしまっていた。それで、助言が採用されなかったら、自分の全存在が否定されることになり、もう生きていることができなくなってしまう。アヒトフェルは命をかける対象を間違えた。命をかけるべき対象は、道、真理、命であられるイエス様とイエス様の御言葉だ。イエス様は「自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言われた。イエス様には命をかける価値がある。その方が私たちに永遠の命を与えてくださっているからだ。たとえ殉教しても、それは義の栄冠だ。そして、御言葉は、アヒトフェルの助言と違って必ず成就するので、それに命をかけても何の心配もいらない。

第二に、敗北を悟ったから。アヒトフェルは物事の先々まで見通す能力を持っていた。アヒトフェルはアブサロムが自分の助言を退けた時点で、もうアブサロムの敗北が確定したと悟った。ダビデとアブサロムで対決してみるまでもなかった。アブサロムが負けたら、ダビデを裏切ったアヒトフェルも反逆の罪で処分されることになるだろう。アブサロムの敗北はアヒトフェル自身の敗北でもある。それを悟っての自害だった。アヒトフェルは仕える相手を間違えたのだ。聖書を読むと、私たちは誰が勝利して、誰が敗北するのかを悟ることができる。イエス様が勝利して、サタンが敗北する。だから、私たちは敗北する側に絶対についてはならない。勝利するイエス様の側につこう。そうすれば、アヒトフェルとは逆に、イエス様の最終的な勝利をあらかじめ悟って、そのことが起こる前から喜び祝うことができる。

24-26節。アブサロム陣営は、時間がかかったが、イスラエルの兵を集めて、アマサという将軍を新たに立てて、ヨルダン川を渡った。アマサは重荷という意味。アマサは残念な人だ。総司令官として大抜擢されたのに、将軍として一度も活躍することができず、惨たらしい死を遂げることになった。アブサロムにとってもダビデにとっても重荷にしかならなかった。アマサについて、不真面目だったとか、悪い人だったということは全く書いていない。ただただ、実力が欠けていた。このことから何も学べるだろうか?アマサは用いられない、つまり、余分な重荷を負っていては用いられない。負わなくてもよい重荷を背負ってしまっていないか?主に用いられようとする前に、イエス様の御前に罪の重荷を全部降ろして身軽になろう。

27-29節。ダビデは行く先々で必要が満たされていく。ダビデがマハナイムにつくと、人々から物資の提供をふんだんに受けることができた。これが主にゆだねた者に対する主の報いだ。もちろん、ここに出てくるアンモン人ショビ、アミエルの子マキル、ギレアド人バルジライといった、献げる人々がいたからこそであることも忘れてはならない。神の国は御言葉に従って忠実に献げる人々、惜しまずに与える人々がいてこそ、この世で拡張していく。献げることで、神の国の拡張に用いられる者になろう

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