聖書全体から御自分について書かれていることを説明された[ルカ24:13-35]

ルカによる福音書
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暗い顔をしてしまっているのは、真理を悟れていないからです。
聖書からイエス様を見出し、悟るならば、いつも喜んでいることができます。

聖書全体から御自分について書かれていることを説明された[ルカ24:13-35]

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【ノート】
イエス様は復活された。イエス様は復活された。この事実は、超自然的な現象、つまり奇跡だというだけですごいことだが、イエス様の復活はあらゆる奇跡の中でも最も偉大だ。病人を癒すことも、水をぶどう酒に変えることも驚くべき奇跡だが、復活こそがイエス様の救い主としての最たるしるしだ。イエス様の復活という事実に触れるとき、私たちは変化せずにはいられない。そのままではいられない。どうしても変えられてしまう。イエス様の復活は、私たちにどんな衝撃を与えるのか?今日はエマオに行くと途上の二人の弟子のエピソードを通して学んでいこう。

13-14節。二人の弟子がエマオに向かっていた。この時点では、二人の弟子たちは、イエス様が十字架で死なれたことですっかり失望してしまった。もうすべてが終わったと思った。それで、まだ使徒たちがエルサレムにいたのに、エルサレムの弟子たちの群れから離れてエマオに向かってしまっていた。エマオとは温かいお風呂という意味。嫌なことを忘れて、風呂でも入ってリフレッシュしようとでもいうところか。でも、その嫌なことというのはイエス様の十字架の死と復活のことだ。この二人の行動では、今で言えばつまずいて、教会から離れてしまうようなもの。イエス様の福音を悟っていないと、人は教会から離れてしまう。イエス様の福音を悟っていれば、一時的に何らかのトラブルがあって教会から離れることがあったとしても、同じ教会にかはわからないが、どこかしらの教会に戻ることができる。

15-17節。なんと、イエス様御自身が二人の弟子と一緒に歩き始めた!どうしてか?
第一に、イエス様は羊飼いとして、教会から離れつつある人のことを心配している。教会から離れた人というのは、飼い主のいない羊だ。さまよってしまう。悪魔の餌食になってしまう。イエス様は良い羊飼い。飼い主のいない羊を憐れむ。失われた羊のためならば探し出すまで見つける。今も、イエス様はそうしていらっしゃる。私たちはイエス様を心配させないように、教会にしっかりとつながったものになろう。私たち自身の安全のためにも、教会にがっしりつながったものになろう。

第二に、この二人は不信仰ながらも、イエス様のことを話題の中心にしていた。イエス様はマタイ18:20で「二人または三人がわたしの名によって集まるとこには、わたしもその真ん中にいるのである」と言われた。その御言葉がここで実現している。この二人はイエス様が一緒におられても気づいていなかった。そのように、私たちも気づかないこともあるかもしれない。イエス様のことを口にしながらも必ずしも100%の信仰を持っていないかもしれない。しかし、それでもイエス様のことを話題の中心にするなら、主は一緒にいてくださる。私たちの間で、イエス様のことを語ろう。イエス様のことを話題の中心にしよう。

イエス様が目の前に現れた!本来なら飛び上がって喜ぶべき状況だ。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエス様がとはわからなかったと書いてある。それで二人はイエス様が一緒にいるのに暗い顔をしていた。この目をさえぎるものとはいったい何なのか?「さえぎられて」にあたる言葉は原語のギリシャ語ではクラテオーで、ある力に支配されているという意味がある。Ⅱコリント4:3-4。この世の神とはサタンのことだ。福音を信じられない、悟れない人にはこのサタンによる覆いがある。これを取り除かなければ、目の前にイエス様がおられても気づかないほど鈍感になってしまう。
飛び上がって喜ぶべきときに暗い顔をしていなければならなくなる。どうすればこの覆いを取り除けるのか?

18-24節。クレオパは誰もが知っているはずのイエス様の十字架の死と復活の事件について、知らない人がいることを驚いている。このことから、イエス様の十字架の死と復活の福音は、当時エルサレムに滞在していた人なら誰でも知っていた事件だったことがわかる。それは当時のあらゆる人に知られている事件だったので、神話とか、都市伝説とか、陰謀論とかの類ではない。イエス様の十字架の死と復活は、どこに行っても話題沸騰のニュースだったのだ。知らないなら「そんなことも知らないの?」と情弱だと責められかねない話だ。福音は最初から知らないのはおかしい一大事件だった。今や十字架の死と復活の出来事があってから2千年間も経過している。クリスチャンは増え広がり、聖書は世界のベスト・セラーとなり、教会は立ち並び、あらゆる文化、芸術、社会制度に影響を与えている。ますます福音を知らないとおかしい状況になっている。だから、私たちはこのクレオパが語っているように堂々と知るべきこととして語ろう。「この世界に生きていながら、歴史上最大の事件の復活をあなただけがご存知ないのですか?」と。
クレオパは、福音の内容を大筋わかっているのに暗い顔をしている。これはいわば、聖書を一通り読んでも、悟りが与えられない状態だ。ここから脱する必要がある。どうすれば脱することができるのか?

25-27節。イエス様はなんだかひどい言い方をしているように思える。でも、イエス様は愛に満ちた方だ。私たちはこういうふうに嘆くイエス様の心情を知ろうとしなければならない。イエス様は真実を語っておられる。人が暗い顔になるのは、まさに物分かりが悪く、心が鈍く、御言葉を信じていないからだ。実は、真理を悟りさえすれば、暗い顔をしている必要なんてない!落ち込んでいる必要はない!鬱になる必要なんてない!真理を悟っていないので、人は暗い顔になってしまうのだ。

それでは、どうやって物分かりが悪く、心が鈍く、御言葉を信じられない状態から脱すればよいのか?ここでイエス様がなさったことに注目しよう。イエス様は「クレオパよ、よく見なさい。私がイエスだ。復活したのだ」と言われなかった。イエス様は目の前で嵐を起こしたり、死人を生き返らせたりする奇跡を見せるということをしなかった。イエス様は、聖書全体にわたってイエス様について書かれていることを説明された。福音の悟り、聖書全体からイエス様について学ぶことによって与えられる。ここでいう聖書は、新約聖書ではなく旧約聖書だが、旧約聖書は全部イエス様について書いたものだ。その視点で読むとき、恵みと信仰があふれてくる。悟りが与えられる。イエス様御自身による聖書の学び、ぜひとも受けたいものだ。
しかし、残念ながらこの内容の詳細は載っていない。クレオパが書き残されなかったから。では、どうすればよいのか?第一に、聖書の内容を悟った人から教えてもらえばよい。エチオピアの宦官はフィリポから「読んでいることがお分かりになりますか?」と言われて「解釈してくれる人がいなければどうしてわかりましょう」とこたえた。聖書は封印されている本なので、読んでもすぐに悟れないことがたくさんある。そういうことは先に悟った人に教えてもらうしかないのだ。幸い、教会の歴史は2千年あるので、私たちは2千年分の悟りを学ぶことができる。無数の教師たちの本や動画から学びを受けることができる。
もちろん、自分の教会に立てられている牧師が語る教えを最優先にする意識は大切だ。どうして池袋マナ教会では聖書の各巻各章について解説をするのか?イエス様がなさった聖書全体からイエス様を教えるということを目指しているからだ。
第二に、聖霊様の御助けによって自分で読んで悟る。日々のディボーション、通読、聖書研究で、聖霊様が教えてくださる。

28-30節。イエス様はなおも先へ行こうとするそぶりを見せた。本当は復活されたイエス様には、もっと先に行く用事なんてないだろう。イエス様はここでクレオパたちの御言葉を悟りたいという願いの強さを試したのだ。イエス様は私たちを強制的に悟らせようとはなさらない。私たちの求めるところに応じて悟らせてくださる。聖書の学びが実を結ぶかどうかはここにかかっている。もしここでクレオパたちが引き止めなかったら、イエス様はご自身を現すことがなかった。二人はすでにどのくらい御言葉を聞いていたか。エマオまでの道のりは12kmだから、ゆっくり歩いたら長く見積って3時間くらいだろうか?おそらく、心躍るあっという間の3時間だっただろう。だからこそ、もっと聞きたいと思ったのだ。礼拝のメッセージが長い、まだ終わらないのかと時計を見ているうちは、なかなか悟れないかもしれない。中国の家の教会の合同集会では3時間以上メッセージを語れないメッセンジャーは次回以降呼ばれなくなるという。それだけ人々の心に飢え渇きがあり、3時間は最低聞きたい、いや、もっと聞きたいと思っているのだ。信仰にはそのような積極性が必要だ。もっと聖書を学びたい。もっとメッセージを聞きたい。もっとイエス様を知りたい。その熱意を持っていなければ、悟れないままイエス様は去っていってしまう。
クレオパたちが願ったことは、御心に適っている。二人は「一緒にお泊りください」と願った。そして、無理矢理ひきとめた。原語では「とどまる」とか「つながる」という意味のメノーというギリシャ語が使われている。これはイエス様の約束の御言葉にもみられる。ヨハネ8:31。ヨハネ15:7。イエス様の御言葉にとどまろう。イエス様の御言葉を思いめぐらそう。イエス様の御言葉を口ずさもう。無理矢理にでもそうしよう。イエス様との豊かな交わりがそのことの中にある。イエス様は私たちに御自身を表してくださる。御言葉を悟って、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことができる。

こうして二人は御言葉を聞いて悟った。彼らにどんな実が結ばれたか、31-35節。
第一に、イエス様が一緒におられたことがわかる。イエス様の御言葉にとどまり、イエス様と交わりを持つと二人の目にもイエス様が見えるようになった。イエス様がパンをさいた時に二人の目が開かれた。その手に釘の後を見たのだろう。二人の目には、イエス様がパンをさいたとき初めてイエス様だとわかった。しかし、二人はただ気づいていないだけで、イエス様とずっと一緒にいた。では、イエス様の姿が見えなくなった後はどうだろうか?イエス様は見えなくなったので、二人と一緒におられなくなったのか?そうではない。世の終わりまで、いつも一緒におられる。賛美や祈りの中で臨在を感じると、イエス様が一緒におられることがわかる。でも、臨在を感じていない時にも、いつもイエス様は私たちと一緒におられる。どうしてそう言えるのか?御言葉でそう約束されているから。いや、でも、イエス様が他の人と一緒にいたら、私と一緒にいることはできないのではないかとか、そんな心配をする必要はない。この箇所をよく読んでみると、イエス様は二人の弟子とずっと一緒にいながら、ペトロにも現れたことがわかる。イエス様は神様の属性を持っておられるので、同時にあらゆる人々と共にいることができる。御言葉にとどまり、イエス様がいつも一緒におられることを悟ろう。アーメン。

第二に、心を燃やされる。二人は暗い顔をして、心の火が消えてしまい、すっかり意気消沈し、鬱気味で、やる気ナッシングだった。しかし、聖書全体の説明が、二人の心に火をつけた。イエス様を無理矢理引き止めるというのはその現れだ。そういう行動はエネルギーがないとできない。イエス様と話していると元気になる、聖書のメッセージを聞いていると生きる力と希望がわいてくる。悪霊は出ていく。鬱病も癒されてしまう。歌いたくなり、踊りたくなる。だから、ワーシップソングを歌い、人によってはワーシップダンスを踊る。心を燃やしたい時は聖書のメッセージを聞こう。

第三に、喜びのあまり、福音を伝えずにはいられなくなる。二人はイエス様が復活したことを悟って、そのことを証しせずにはいられなくなった。二人は、「もう日も傾いていますから」という理由でイエス様も泊まらせた。この時にはさらに遅い時間だったはずだ。ところが、二人は「また明日にしよう」とはせずに、すぐに出発して、12kmの道のりを歩いてエルサレムに戻った。仲間に1秒でも早く福音を伝えたいと願ったのだ。御言葉を悟った者は、伝えずにはいられない。すぐに伝えずにはいられない。先延ばしにしていることはできない。御言葉を悟って、すぐに福音を伝えずにはいられない者になろう。

クレオパがこの後どうなったかは聖書には詳しく書いていない。しかし彼の名前がここに載っていることと、彼の名前の意味から推測することができる。クレオパは「有名な父親の」という意味の名前だ。ヨハネによる福音書にイエス様の十字架を目撃したクロパの妻という女性が出てくるが、このクロパはクレオパのことだと考えられている。妻はイエス様の十字架を目撃し、夫はイエス様の復活を目撃する栄誉にあずかった夫婦なのだ。その後、祝福されて有名な父親としてその名が教会で知られるようになった。だからこそ、あえてクレオパの名前がここに書いてあるのだ。クレオパが有名な父親として知られているならば、子供たちもそんな父親のもとで祝福されたことだろう。福音にあずかった家庭は祝福される。

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