最も小さい者が最も偉い[ルカ9:46-62]

ルカによる福音書
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すべての人を受け入れる人が最も偉いのです。

最も小さい者が最も偉い[ルカ9:46-62]

最も小さい者が最も偉い[ルカ9:46-62]

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【ノート】
46節。弟子たちは「だれが一番偉いのか?」という議論をしていた。おそらくは、十二人の弟子の内で3人の弟子たちだけが山に登り、ほかの9人がふもとに残ったので、そのことについて3人が威張ったり、9人の方が嫉妬したりしたのだろう。それで、イエス様の来るべき王国では誰がナンバーツーなのか、誰が最高の大臣あるいは将軍の栄誉を受けるのかという議論が白熱したのだ。イエス様は「私について来たい者は、自分を捨てなさい」と言われたが、弟子たちはその意味が全然わかっていなかったのだ。弟子たちはあからさまに議論したが、私たちの社会でもこういう議論はあからさまに、あるいは水面下で行われている。誰が次の社長、議員、教授の座につくのかという権力の座を巡る争いがある。また、役職が設定されていなくても、誰がそのグループで最も尊敬を受けるのかという上下関係を巡る争いもある。誰がより上に立つかは、年齢や所属する年数の長短、カリスマ性、能力の優劣、人気、直接対決での勝敗などによって決まる。弟子たちはそれで自分の有能さや貢献度を自慢したり、相手のことをけなしたりして、互いに相手をおしのけて自分が上に立とうとしただろう。ペトロは自分がいの一番に「あなたは神からのメシアです」という信仰告白をしたことを自慢したかもしれない。そうすると、他の弟子たちは一斉に「その後主から退けサタンと言われたではないか」とつっこみを食らっただろう。またある者は自分の勇敢さを誇ってほかの弟子たちの臆病さをなじり、ある者は自分の頭の良さを誇ってほかの弟子たちの愚かさをなじり、ある者は自分の宣教旅行での成果を誇ってほかの弟子たちの成果の乏しさをなじったことだろう。人々が一番偉い者になることを求める動機は何か?それは、偉くなることによって得られる利権への欲望であったり、他人に負けたくないという競争意識であったり、偉くなることによって優越感に浸ることであったりする。全部自己中心的な動機だ。クリスチャンはそうであってはならない。偉くなりたいということ自体は悪くないが、それは決して自己中心的な動機であってはならない。

47-48節。弟子たちはイエス様から少し離れて、聞こえない場所で話していたことだろう。イエス様に聞かれたら叱られるとわかっているからだ。しかし、イエス様には弟子たちの心の声が大音量で響いていた。
イエス様は何がいいたいのだろう。当時、子供というのは、最も取るに足らない存在だと思われていた。子供はいつも無視されてしまい、人数を数えるときには数に入らなかった。つまり、誰一人として子供を受け入れようとしないのは、当たり前のことだった。ところがイエス様はその子供を御自分のそばに立たせた。位置的には、王の側近の中でも最も偉いポジションの人が立つ場所だ。神の国では偉さの基準が世とは真逆である。世では競争があり、力ある者が幅を利かせ、ライバルを打ち負かし、人々を押しのけることによって最も偉いポジションにつく。それで弟子たちは互いをライバルのように思い、押しのけ合うように議論をしていた。しかし、神の国では、イエス様の御名のために最も偉くない子供をも受け入れる人が最も偉い。子供が社会のヒエラルキーの最底辺なのだから、子供を受け入れるということは、すべての人を受け入れるということだ。それは、へりくだって、自分を最も取るに足りない者と思うこと、すなわち、最も小さな者になることによって初めて実現する。だから、もし弟子たちがイエス様の言われる神の国で偉い人になることを目指すなら、互いに自慢したり、欠点を指摘したりするのではなく、互いに相手をないがしろにすることなく、一人の人間として受け入れ、相手を自分よりも優れた者と考えて尊敬することができる。それが、教会のあるべき姿だ。イエス様は弟子たちの一致を求めていた。

「でも、へりくだって、最も小さい者になるというのは、みじめな思いをするのではないか?否定的な自画像を持つことになるのではないか?」決してそうではない。なぜなら、イエス様の御名のためにするからだ。
その人はイエス様を受け入れ、イエス様をお遣わしになった父なる神様を受け入れている。ということは、その人は心に神の無限の愛を受けている。私たちの自画像を健全なものに建て上げるのは、プライドではなく、神の愛だ。私たちがへりくだればへりくだるほど、イエス様を通しての恵みは増し加えられ、神の愛をますます豊かに体験して満たされる。イエス様の御名のために、へりくだって、最も小さな者を目指す私たちになろう。アーメン。

十二弟子たちは、さすがにイエス様から諭されたばかりの時には、十二弟子たちの間ではこの種の議論は控えたことだろう。しかし、ヨハネは、十二弟子以外の人々についてはこれは全然適用されないと勝手に解釈した。それで、ほかのグループの人々に不寛容な態度をとった。それは言ってみれば同じ教会、教団、教派の中では仲良くするけど、ほかのグループは受け入れないという態度だ。49-50節。自分たちに従わないので、やめさせようとした。イエス様の御名を使うからには、十二弟子たちと一緒にイエス様についていかなければならないという考え。私と同じ教団、同じ教派でなければならない。そうでなければ、イエス様に従っていることにはならないという偏狭な考えだ。イエス様は寛容だ。「あなたがたに逆らない者は、あなたがたの味方なのである」逆らわないというのは、反対しない、敵対しないという意味で使われている。ファリサイ派の人々のようにイエス様と使徒たちに敵対する人々はいたし、いまでいえば異端や聖書の内容を否定する人々はイエス様に敵対していると言える。しかし、そうでなければ、特にイエス様の御名の権威を信じて、その御名を使っているのであれば、味方だ。イエス様は一つの教団、教派にこだわっておられない。いろいろな教団、教派にわかれてそれぞれ独自の流儀をもってイエス様に仕えることを良しとしておられる。どの教団、教派であれ、イエス様に仕える上で長所もあれば短所もある。新生している人もいれば、新生していない人もいる。大事なのは個々人がイエス様の御名を重んじて熱心に仕えることだ。

51-52節。イエス様は十字架の死を覚悟してエルサレムに向かう決意を固められた。しかし、ルカは「天に上げられる時期が近づく」と書いている。イエス様が覚悟を決めることができたのは、十字架の先にある栄光の戴冠式である昇天を見据えていたからなのだ。十字架の先には栄光がある。イエス様はおもしろいことに、ガラテヤからヘルモン山からエルサレムに向かう上で、サマリアを通ろうとされた。サマリアを通ることが近道だ。しかし、普通のユダヤ人は近道であってもサマリアを避けて、わざわざ遠回りして、ヨルダン川の東側を通って、ユダヤとガリラヤの間を行き来した。なぜなら、ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲だったからだ。北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたとき、サマリアにアッシリア帝国のいろいろな地方の人々が入植して、イスラエル人と混血したのが、サマリア人だ。彼らは彼らで独自の方法で主なる神を崇めていたが、その宗教はユダヤ教と大きく違っていた。それでユダヤ人はサマリア人を汚れた者だとして、一切交流を持とうとしなかった。数百年来の歴史的な溝が二つの民族の間にあった。イエス様はというと、ユダヤとガリラヤの間を行き来するのにサマリアを避けた痕跡が全くない。イエス様は歴史的な溝など全く意に介さずに、サマリア人の土地を通ったのだ。イエス様は人間の歴史問題による対立に同調しなかった。イエス様はすべての国、民族、肌の色の人を受け入れるために来られた。しかし、だからといって、サマリア人の方もイエス様を歓迎するとは限らない。
53-56節。サマリア人がエルサレムに向かっているユダヤ人であるイエス様を歓迎しないのは、ごく当たり前のことだ。しかし、弟子たちは怒り狂った。ヤコブとヨハネはヘルモン山でエリヤを見た。エリヤは天から火を降らせて敵を滅ぼすことができた預言者だ。ヤコブとヨハネはエリヤに触発されて、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったのだ。サマリア人はイエス様一向を拒んだのだから、「逆らう者、反対する者、敵対する者」ということができる。さすがにそのような人々にまで寛容である必要はないだろうとヤコブとヨハネは思った。
しかし、イエス様は二人を戒められた。イエス様は御自分に反対する者であって火で焼き滅ぼすことをお望みではない。イエス様は誰も滅びることを望んではおられない。私たちもクリスチャンであるということを表明することによって、あるいは福音を伝えることによって、人々から冷たい反応にあうことはある。それはごくごく当然なことなのだ。誰も彼もがイエス様をすぐに歓迎するわけではない。冷たい反応にあうと心が痛いが、だからといって、その人々を憎んではならない。主は彼らを火で滅ぼすことをお望みではない。いつの日か彼らが主に立ち帰って生きることをお望みだ。私たちは冷たい反応にあっても、主の御心を覚えて忍耐する者となろう。

弟子たちはイエス様から諭されて諭されても三連続で他の人々を受け入れまいという立場をとった。進歩がない。そして、イエス様からの「最も小さい者になれ」という御言葉もすぐに忘れてしまい、誰が一番偉いのかという議論は最後の晩餐の席まで続けられる。しかし、そんな弟子たちもある時から完全に変えられた。弟子たちが変わったのは、イエス様の十字架の死を境にしてだ。イエス様の十字架の死の恵みにあずかるとき、私たちは、「私の罪のためにイエス様が死んでくださった」ということを知る。それによって私たちは心砕かれて謙遜になることができる。イエス様の十字架の愛によって満たされて、他人と張り合う必要がなくなる。すべての国の人々のために死なれたイエス様の十字架によって、私たちはすべての国の人々を受け入れることができるようになる。十字架こそがすべての敵意の隔ての壁を取り壊すのだ。ハレルヤ!

続いて、イエス様は三人の人物とイエス様の弟子になるかどうかについて、会話する。ここから、イエス様の弟子になるためにはそれ相応の覚悟が必要だということがわかる。57-58節。一人目は自分から弟子になりたがった。「どこへでも従って参ります」というのはすばらしい献身の表明だ。しかし、イエス様の応答は冷たかった。それは、この人の隠れた動機に問題があったからだろう。この人はイエス様の名声を聞いてイエス様について行けばいいことがある。自分も名声が得られるかもしれない、出世できるかもしれない、いい思いができるかもしれない。勝ち馬に乗ろうという魂胆で、イエス様にどこへでも従っていくというリップサービスでイエス様の歓心を得ようとした。確かにイエス様についていくことは最高の道だが、イエス様は言われるのは代価を払う覚悟があるかということ。イエス様に従うと、いいことばかりではない。枕するところもないという、過酷な状況を通ることも必要となる。その点も覚悟して従おうとしているのか?私たちは単なる一時の感情の高まりや何でもうまくいくようになるという甘い考えだけでイエス様に従おうとするなら、途中で挫折することになる。代価を払う覚悟をもって、イエス様にどこへでも従っていく決断をしよう。

二人目はイエス様から「私に従いなさい」と声をかけた。この人の応答は丁寧ではあったが、即座に「従います」と応答しなかった。59-60節。自分の父親を葬りに行かせてもくれないなんて、冷たすぎるのではないか?いや、そういう話ではない。ここでは、この人の父親がちょうどタイミング悪く亡くなったとか、死にかけているという情報は少しも書いてない。もし亡くなったのなら、イスラエルでは埋葬まで2時間もかからない。その2時間の間にイエス様から声をかけられたというのはありえない。死にかけているなら、そうだったらイエス様から癒してもらえただろう。これは中東で人からの要望について躊躇するときの回りくどい慣用句のような表現。実際にはこの人の父親はぴんぴんしていて、亡くなるまでにまだ何年もあっただろう。この人はただ自分のしたいことをいろいろとして、イエス様に従うのは後回しにしたいと思っていただけだ。
イエス様が目に前にいて、イエス様から声をかけられているのに、イエス様に従うことよりも、「まず、自分のことを優先させてください」と言っている。イエス様の弟子は、まず、イエス様を第一優先にしなければならない。まず自分の思い通りにするのではなく、まずイエス様を優先して従うのだ。
十二弟子たちは内輪もめのように、誰が一番偉いのかを議論したが、十二弟子たちが立派だったのは、あくまでもイエス様がナンバーワンであるということはわきまえていたことだ。十二弟子の中でナンバーツーを決めようとした。十二弟子はイエス様から「私に従いなさい」と言われてみんな共通して、すぐにイエス様に従った。イエス様がいつもナンバーワン、イエス様がいつも最優先の者になろう。

三人目はまた自ら弟子に志願した。61-62節。この人はイエス様に従う上での代価をわかっていた。それで家族にいとまごいに行かないといけないと思った。しかし、この人はイエス様に従うにあたって中途半端だった。せっかくイエス様に従おうという熱い志をいただいているのに、この人もやはり「まず自分のしたいことをさせてください」としてちょっとだけ先送りにしようとしている。「家族にいとまごいに行かせるくらいいいではないか!」と思うだろうか?イエス様は人間の心を知り尽くしている。私たちは何かしようと思い立ったとき、「あの人に手紙を書こう、プレゼントを買おう、新しい計画を実行に移してみよう」と思ったその日の内に行動をしないと、永遠に実行できないということがある。その気持ちが熱いうちに動かないと、いろいろな要因によってその心が冷めてしまい、もはや実行に移せないのだ。この人が家族にいとまごいに行ったらどうなるだろうか?家族は反対するかもしれない。反対しなくても、しばらく家に引き留めるかもしれない。家に引き留められているうちに名残惜しくなり、イエス様に従うことをキャンセルしてしまうかもしれない。仮にイエス様に従うことができたとしても、いつも後ろ髪を引かれる思いで家族のことを未練がましく思い出して、イエス様に仕えることがままならなくなる。イエス様はそのことをご存知だった。神があなたに志を与えた。あなたはその志を実行に移すと決意した。その時点であなたはもう鋤に手をかけたのだ。後は後ろのものは忘れて、一心不乱に鋤を前に前にと動かしていくだけだ。後ろを向いていたらまっすぐに進めない。イエス様の方を向いて、神の国のために働く者となろう。イエス様の弟子に要求される覚悟が三つ何か出そろった。代価を覚悟し、イエス様を第一とし、与えられた志をすぐさま実行することだ。みなさんにはその覚悟があるか?イエス様について行きたいか?イエス様にどこへでもついていく者となろう。アーメン。

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