沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい[ルカ5:1-11]

ルカによる福音書
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自分の力での成果よりもはるかにまさるものが得られます。

沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい[ルカ5:1-11]

沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい[ルカ5:1-11]

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【ノート】
1節。ゲネサレト湖畔と書いてある。イスラエルの北東の方にある南北に細長い湖は、新約時代には3つの名前で呼ばれている。その湖周辺の地域を指すガリラヤにちなんでガリラヤ湖。ガリラヤの語根はガリルという言葉で円筒という意味。その地が海抜-213m円状の窪地になっているからだろう。次に、ティベリアス湖。聖書には出てこないがガリラヤ湖北西岸建設されたガリラヤの首都で、二代目ローマ皇帝のティベリウスの名前からとられたティベリアに由来してティベリアス湖だ。そして、最後にここで登場するゲネサレト湖という表現だ。ゲネサレトという湖の西側にある平原に由来する。旧約では「キネレト湖」。ここでは漁が今も昔も盛んに行われている。

イエス様はそのゲネサレト湖畔に立っていた。それまでイエス様は、安息日に会堂で教えておられた。その日は安息日ではなく平日だ。その場所は会堂ではなく野外だ。にもかかわらず、人々が神の御言葉を聞こうとして押し寄せてきたのだ。次の日曜日の礼拝まで待てない!平日にも神の御言葉を聞きたい!こういう飢え渇きを持つのが健康的なクリスチャンだ。そういう飢え渇きを持っているか?マナ教会もいずれは平日の集会を持ちたい。そうでなくても、聖書を開いてディボーションをすれば、神の御言葉にあずかることができる。インターネット上には無数の主からのメッセージがある。飢え渇きを持って、平日も主の御言葉から霊的な糧、マナを得る者となろう。

これをきっかけにイエス様は平日も働かれるようになった。私たちは、平日もイエス様が私たちと共にいて、家庭や野外、職場や学校で働いてくださることを期待できるのだ。「今日主は私と共にいてすばらしいことをしてくださるかもしれない。主の導きがあるときには、私は喜んで従順しよう」そういう期待感と開かれた心をもって、私たちはイエス様と共に、遣わされた場所で働こう。イエス様は備えられた者を用いられる。

2節。漁師たちが網を洗っていた。網を投げると多くの付着物がついてしまう。だから、漁を終えたら、網をよく洗って付着物を落とさなければならない。その日の漁の結果が何であれ、次の漁に備えるのだ。3節。このシモンはペトロのこと。すでに4章でペトロはしゅうとめをイエス様に癒していただいた。ペトロはイエス様と交流があり、イエス様の奇跡を目撃していた。しかし、この時点では、ペトロはまだ漁師であり、イエス様の行くところどこまでもついていく弟子にはなっていなかった。ペトロはイエス様の話を聞こうとする群衆の中にいない。イエス様に背を向けて網を洗っている。イエス様の話には興味がある。でも仕事をしなければ食べていけない。信仰と仕事は全く別物だする態度を見てとれる。まじめに働くことは良いことだ。仕事を忠実にする人を主は愛しておられる。しかし、主は私たちの職場にも入っていきたいと願っておられる。それでペトロの舟に乗っだ。そのほかの舟に乗った理由としては、押し寄せる群衆に飲み込まれてしまわないため。大勢の人に御言葉を聞かせることができるため。湖では声が響く。そして、音を遮るものが何もない。湖が天然のマイクの役割を果たすのだ。ペトロを弟子にするため。ペトロは漁の帰りでくたくたになっていた。そのまま家に帰って休んでしまうかもしれない。舟に乗っていれば捕まえておくことができる。

そんなことから、ペトロはイエス様のために舟を出すという奉仕をした。漁をしてくたくたなのに引き受けた。そのお陰でペトロは祝福を受けることになった。このとき、イエス様の御言葉を最も近くで聞くことができたのは誰か?ペトロだ。主に仕える奉仕者は、最も近い距離で主の臨在に触れ、主の御言葉を聞く特権にあずかることができるのだ。
舟が説教を語るための講壇のようなものとして用いられた。舟は、主がおられることによって聖なるものとなり、主の御言葉による油注ぎを受けた。それが、奇跡のための一つの備えとなった。御言葉が語られると主が働く土台が築き上げられる。

4-5節。まずペトロの反応を見てみよう。ペトロの反応の中にはネガティブな部分とポジティブな部分がある。ネガティブな部分は「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」だ。だから、これから漁をしたところで、何もとれないでしょう。ペトロは全然期待していなかった。ペトロはプロの漁師だ。それが一晩中苦労しても何もとれなかったのだから漁というのはたやすいものではない。ペトロの目に、イエス様は聖書を教える立派な先生だが、釣りに関しては素人だと見えた。漁は時間帯が肝心だ。普通、ガリラヤ湖の漁は夜に行う。ガリラヤ湖でよくとれる魚は、昼間は太陽の光を避けて冷たい日陰や深い場所に隠れる。夜になると漁師の網の届く範囲に出てくる。また、夜の方が、魚の目に漁師の網が見えにくい。そして、普通、沖の深みに網を投げても、魚が逃げてしまい、獲ることができない。なのに、イエス様はよりによって日中に沖に出て網で漁をしろという。プロの漁師としては、考えられない!ナンセンス!これだから素人は。そうペトロは考えた。それでは、イエス様は漁が下手だったのか?いいえ、イエス様はペトロよりも漁が上手だ。ペトロがぼうずのときも、イエス様は大漁を得る方法を知っている!ペトロよりもイエス様の方が優れた漁師だ。私たちも、時々ペトロと同じようにとんでもない思い違いをすることがあるかもしれない。イエス様は人々を救うことは上手かもしれないが、営業の仕事は私の方ができる。事務の仕事は私の方ができる。経営の仕事は私の方ができる。家事や育児は私の方ができる。違う!イエス様はどの分野についても私たちよりもずっと優れている!ハレルヤ!「この分野では私がプロなんだから、イエス様の指図は受けない。」それはとんでもない高ぶりであり不信仰だ。とびぬけた成果を出して主の栄光を現したいのであれば、私の専門分野について、イエス様のアドバイスを求めよう。イエス様に耳を傾けよう。「主よ、この仕事どうすればいいでしょう。」イエス様はあなたよりもすばらしい解決策を知っておられる。それは、私たちのいつものやり方とは違う斬新な方法かもしれないが、イエス様に従えば大成功間違いなし。

ペトロの応答には、ポジティブな面もあった。主の御言葉で言われたことだからと従順したことだ。くたくたに疲れている。全然成功しなさそうに見える。もう終わりのつもりで網を洗ってしまった。でも、とりあえずやってみる。主が言われたから実践してみる。従順しなければ、何も起こらない。しかし、わずかな信仰であっても、従順するなら、主は働いてくださることがある。主にとってはからし種一粒の信仰で十分だからだ。

次に、イエス様が指示された内容に注目しよう。イエス様は沖に漕ぎ出すように言われた。浅瀬では駄目で、イエス様は沖に出ることにこだわった。沖は水深が深い場所だ。私たちはイエス様と共に前進し、より深いところまで行くように召されている。エゼキエル書の神殿の幻の中で、水が出てくる箇所がある。エゼキエル書47:2-6。主と共に命の水の中を進めば進むほど、主の恵みの深さを体験していくことができる。主の恵みの豊かさには限りがない。私たちが知っているところはほんのわずかにすぎない。祈りについて、主と共に前進するなら、より深い主との交わりに入っていくことができる。御言葉について、主と共に前進するなら、より深く主を知り、主からの啓示を豊かに受けることができる。岸辺で遠くを眺めているだけではいけない。沖を漕ぎ出そう。その結果として、主の御業を見ることができる。

6-7節。これが沖に出た結果だ。網が破けそうになるくらいの大漁!二艘の舟が沈みそうになるほどの魚でいっぱいになる!沖で主が与えてくださる恵みは満たしてあまりあるものだ。主は聖霊様で満ちあふれさせ、喜びで満ちあふれさせ、愛で満ちあふれさせてくださる。
その大漁はその場にいた漁師の誰も経験したことがないものだ。イエス様の御業は私たちの人生でのピーク、自分の力で最大限努力したらこのくらいはできるというピークを一度で超えさせてくださる。それはペトロの職場で起きた。今日も、主は私たちの生活の現場で奇跡を行いたいと願っておられる。沖へ出て網を降ろしなさいと言われる。主に従順しよう。沖へ出よう。主の与えてくださる無限の豊かさを体験しよう。

8-9節。ペトロは5節ではイエス様のことを「先生」と言っていた。人間の立派な先生という尊敬を超えた呼び方だ。ここでは先生が、「主よ」に変わっている。キュリオス、神に対して使うこともできる言葉だ。大漁の御業を通してペトロは、私の主人であられる神としてのイエス様を見出したのだ。神と出会ったとき、人間はどういう反応をするか?恐れる。聖なる神に比べて人間はあまりにも汚れているので、恐ろしくて神の御前に立っていられない。それでペトロは「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。預言者イザヤはあるとき、幻の中で第三の天で主なる神を間近で見た。イザヤ6:5。使徒ヨハネはパトモス島に島流しにあっているときに、幻の中で再臨のイエス・キリストを間近で見た。使徒ヨハネはその姿を見たとき、その足元に倒れて、死んだようになった。彼らは他のの人々よりも罪深かったのか?むしろ他の人々よりも敬虔な生き方をしていた。主に尊く用いられ、主と共に歩んできた人々だ。その反応は単なる恐ろしいという感情の動きではない。その人の霊、魂、肉体の全存在が、神の強力な臨在を体験するのだ。これは、神と間近に出会うときに誰もが経験するものだ。

しかし、安心してほしい。あなたが神の民なら、大丈夫だ。神と出会うときにイエス様がかけてくださる言葉がある。10節。まずイエス様は「恐れることはない」と言った。使徒ヨハネが死んだようになったときも、イエス様は「恐れることはない」と言われた。主イエス・キリストはまさに、聖なる神と罪ある人間との間のギャップを御自分の十字架の死と復活によって埋めるために来られた。イエス様にあって私たちは神に出会うことを恐れることはない。私たちは神と出会うときに、「自分は罪深い者で神に裁かれて地獄に落ちるべき罪人だ」ということと「にもかかわらず、イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪が赦されて神に受け入れられる者となっている」ということの二つを同時にはっきりと悟ることになる。

続いてイエス様はペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われた。ペトロに対する召命だ。そして、キリストの弟子であれば、誰でもこのことに召されている。あなたはキリストの弟子か?そうであればあなたは人間をとる漁師になる。人間をとるというと、何だか怖いイメージを抱くかもしれない。ここでのとるという言葉はゾーグレオーという新約聖書では2回しか使われていない言葉だ。Ⅱテモテ2:26。人々は悪魔に生け捕りにされている。悪魔がそうするのは、神から離れた空しい人生を歩ませ、自分と道連れ滅ぼすためだ。人間をとる漁師は悪魔に生け捕りにされている人々を神の下に導く働きをするのだ。神が人間を生け捕りにするのは、人間を愛して、永遠の命の豊かさにあずからせるためだ。人間をとる働きは貴い働きだ。人間は貴いからだ。魚は人間が食べるためにとる。だから、魚を食べる人間は魚よりもはるかにまさる。神は人間を被造物の代表として神に似せて造られた。神の目に、人間は貴い宝だ。人間をとる漁師は魚をとる漁師よりもはるかにすばらしい働きであり、これにまさるものはない。この地上にあるどんな活動よりも、人間を伝道して救いに導く方がはるかに価値がある。イエス様はあなたをその働きに召し出そうとする。イエス・キリストからの召しに答えて、人間をとる漁師になろう。伝道をする者となろう。アーメン。

11節。漁師たちは、すべてを捨ててイエス様に従った。そこには、漁師という職業を捨てることも含まれている。神がそう望まれるのであれば、私たちも職業を捨ててイエス様に従うべきだ。しかし、人それぞれ与えられている召しは違い、ある人は職業を捨ててイエス様に従い、ある人は職場でイエス様に従う。どちらにしても、イエス様に従い、人間をとっていくのだ。共通するのは、イエス様についていくにあたっては犠牲が伴うこと。自分がしたいことよりも、イエス様の御心に従うのだ。あなたは何を捨ててイエス様に従うか?プライドか?罪深い習慣か?個人的な野望か?贅沢な生活か?主に従うための障害になるものは何であれ捨てよう。それを焼いて、主に対する献げ物としよう。主はその一つ一つの従順を侮られない。そして、献げた以上のものを与えてくださる。行く先々で大漁の奇跡のように豊かな満たしを与えてくださる。すべてを捨てて、主に従おう。

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