信仰が無くならないように祈った[ルカ22:24-34]

ルカによる福音書
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先回りの執り成しの祈りがあります。

信仰が無くならないように祈った[ルカ22:24-34]


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【ノート】
イエス様が聖餐について語られた。聖餐は、イエス様の御体である一つのパンを全員が分けて食べることから、その場にいるクリスチャンがイエス様によって一つとなることを意味する。イエス様の願いは、弟子たちが一つになることだった。一つになるというのは、簡単に言えば、争わずに仲良くなることだ。これはイエス様の切なる願いであって、ヨハネによる福音書の大祭司の祈りの中でも三位一体の神のように、弟子たちが一つとなることをイエス様は祈られた。しかし、この聖餐に与かる時点では、弟子たちはまだまだばらばらだった。何が弟子たちをばらばらにしてしまったのだろうか。

24節。これが最後の晩餐での弟子たちの話題だった。たぶんどこに座るか、席決めがきっかけで争いが起こったのだろう。ユダヤ人の祝宴では席順がはっきりと決められていた。食卓はV字型になっていて、中央の角に主人が座り、主人の右隣りに第一の賓客が座り、左隣りに第二の賓客が座る。第三の賓客は第一の賓客の右隣りで、第四の賓客は第二の賓客の左隣りに座る。つまり、座る席によって、誰が偉いかがはっきりするようになっていた。そこで、誰がどこに座るべきか、という点で争いが起こったのだ。みんなができるだけイエス様に近い席につきたいと願った。これはこの時点で始まった話題ではなく、弟子たちの中心的な話題だった。事あるごとに、弟子たちは誰が偉いかを議論した。ルカ9:46。また、ヤコブとヨハネがほかの弟子たちを出し抜いて、イエス様の右と左に座れる約束を得ようとした時も、この言い争いが起こった。イエス様はそのたびに、弟子たちに教えを説かれたが、弟子たちは聞き従っていなかった。

弟子たちはなぜいつまでもこんな議論をしてしまったのか?そこには競争心がある。今も昔も人間の社会は競争心によって成り立っている。資本主義社会自体、他の会社よりも他の商品よりも他の人々よりも優位に立とうとする競争によって成り立っている。受験も就職も出世も婚活も競争の原理がそこにある。他人をおしのけてでも優位に立とうとするものだ。競争心について聖書は何といっているか?コヘレト4:4。むなしい!では、競争は一切しなくてよいのかというとそうではない。使徒パウロは「競技場で走る者は皆走るけども、賞を得るのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」と書いている。何を競えばよいか?私たちは愛するという点で競い合うべきだ。心から愛すること、へりくだること、仕えること、譲ること、気前よくすること、赦すこと、献げること、そういうことにおいて競い合うならば、競えば競うほど一つになることができる。

そこにはねたみがある。ユダヤ人の指導者たちがイエス様を殺害しようとしたのはねたみのためだった。総督のポンテオ・ピラトが見抜くことのできるくらいあからさまだった。聖書では、誰かの成功についてどういう反応をするべきだと書いているか?ローマ12:15。自分は独身なのに誰かが結婚したら?喜ぼう。自分は貧乏なのに誰かが出世したら?喜ぼう。自分は仕事漬けなのに誰かが海外旅行に行ったら?喜ぼう。自分は賜物がないことについて誰かが自分よりも十倍もうまくやり遂げたら?喜ぼう!愛する人々がうまくやっているのだから、自分のこととして喜ぼう。そうすれば、神はいつかあなたにも同じ祝福、いやより大きな祝福を与えてくださるようになる。

イエス様は私たちが競争心やねたみをもって争うとき、どのようにご覧になるか?まず理解しなければならないことは、弟子たちが席のことで争ったということはイエス様が弟子たちの席を特別定めてはおられなかったということだ。もしイエス様御自身が席を決めておられたのなら、弟子たちが争うはずがない。イエス様は弟子たちを公平に扱っておられた。だから、少なくとも教会では、誰が上で誰が下ということはなく、イエス様の御前で公平に扱われる。その上でイエス様の教えに耳を傾けてみよう。

25-27節。神の国と世の国では原理が違う。世では偉い人が偉そうにする。世では偉い人がその権力をいかんなく発揮して人々に命令を降す。言うことを聞かせる。従わせる。古代の社会では特にこれが当たり前にまかり通っていることだった。世で偉くなりたいと望む人々、出世や昇進を望む人々がそれを望むのは、支配し、権力をふるいからだ。人を思うがままにコントロールしたいという欲望は、原罪から生じたものだ。罪によって男が女を支配する、人が人を支配するという構造が生まれた。この世では、サタンにその罪深い支配欲を刺激されて、人々が偉くなろうと躍起になっているのだ。弟子たちも、イエス様の王国を地上の王国と同じ次元で見て、偉くなりたいと願っていた。イエス様は26節で、「あなたがたはそれではいけない」と言われた。つまり、クリスチャンは世と同じ原理ではいけないということ。神の国では上下が逆転する。クリスチャンは、偉い者としての特権よりも責任を重んじる。率先して動く。最も労苦する。従ってくる人々一人一人に心を遣う。家では家事を。会社では仕事を。教会では奉仕を。
「私は偉くならなくていいから仕えない」とか「私は偉くないから仕えない」というのは駄目だ。イエス様は神の国の原理の中であなたが偉くなることを望んでおられる。そして、神の国の原理の中で偉くなることは本当に良いことだ。教会でも家庭でも社会でも、あなたのリーダーシップによって、人々が祝福されることになる。
エイブラハム・リンカーンは南北戦争のとき、戦場で兵士たちと共に食事をし、話を聞き、励まし、自分が彼らと共に戦っていることを示した。有名なゲティスバーグ演説は激戦地となった場所で語られたもの。松下幸之助は労働者の声を聴き、働く環境を改善し、福祉制度を導入した。特に、松下幸之助は1929年、世界恐慌のとき、従業員の解雇や減給を一切しなかった。1946年に、彼の会社の労働者が遅刻したことを受けて、自分自身も一か月分の減給処分にして、経済的な犠牲を共有した。
イエス様が最たる模範だ。イエス様より偉い人は存在しない。イエス様は創造主なる神様御自身、人類の罪からの救い主、王の王、主の主だ。そんなイエス様がいつも一向の中で給仕をする者としての役回りを担った。弟子たちの誰よりも祈った。弟子たちの誰よりも頭を働かせて計画を立てた。弟子たちの誰よりも教えたり病人をいやしたりといった奉仕をした。そして、弟子たちの足を洗った。イエス様のように仕えるリーダーになろう。

イエス様のように仕えるなら、ちゃんと天の報いが約束されている。28-30節。弟子たちは言い争わなくてもすばらしい報いが用意されていた。イエス様と共に試練の時に踏みとどまったからだ。イエス様から離れなかったからだ。弟子たちに対しては、このときの過越の食事ばかりでなく、イエス様の王国でイエス様の食事の席について飲み食いできる権利が与えられる。王と共に食事ができるということは、王の家臣の中でも特別な地位にある人々だった。

サウルの食卓にダビデがいたこと、ダビデの食卓にヨナタンの息子のメフィボシェトが同席できたこと、ユダの王ヨヤキンがバビロンに捕囚に遭った後牢から解放されて、バビロンの王と食事を共にしたことはいずれも格別の特権だった。さらに、弟子たちにはイスラエルの十二部族を治める権利が約束された。単純にイスラエルを代表する12人の一人になれるということだ。私たちに対しても、イエス様は私たちをただで働かせることはない。私たちがどんな試練に遭ってもイエス様から離れないなら、天では報いがある。イエス様と食卓を共にできる。また、支配者となることができる。

31-34節。この箇所からは大きく4つのことを知ることができる。
第一に、サタンによる攻撃が神の許可のもとに聞き入れられることがある。小麦のようにふるいにかけるとある。小麦を食べられるようにするためには、籾殻を取り除かなければならない。まず小麦をかたい床の上に広げて、たたく。次に穀物を空中に投げると、軽い籾殻は風に飛ばされ、重い穀物だけが残る。同じように、信仰者は真のいのちの信仰を残すために、試練によって打ち砕かれ、不純物が風に吹き飛ばされるというプロセスが必要になる。ここでは、サタンがそのプロセスの促進を担っている。サタンはあわよくば私たちを滅ぼそうとしてこれを行う。しかし、サタンは神の許可を得ないとこれができない。神が許可をするということは、それがどれだけ致命的な試練、壊滅的な状況に追い込まれたように思えたとしても、私たちの益になり得ることであるということだ。だから、どんなひどい試練に遭っても、信仰を保とう。弟子たちにとってふるいにかけられねばならない不純物は世的な価値観や神によらない自信などだろう。あなたには打ち砕かれ、ふるいにかけられなければならない性質はあるか?

第二に、イエス様の先回りの執り成しがある。イエス様はまだ起こっていない未来の出来事についてまで先回りして執り成すことができる。また、イエス様は御自分を否定する罪についてまで執り成してくださる。ペトロは三度イエス様を否定した。これはクリスチャンとしては、背教とも言える最悪の部類の罪だろう。にもかかわらず、イエス様は御自分を否むペトロを憎むのではなく、むしろ、ペトロを愛して、赦して、執り成してくださっている。この執り成しがあなたにもある。イエス様がたとえどんなひどい失敗をしたとしても、あるいはこれからするとしても、あなたの信仰が無くならないように執り成して、守ってくださる。

第三に、立ち直った者は、ほかの者を力づけることができる。イエス様はペトロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われた。これはペトロが三度イエス様を否定したからこそできることだ。つまずいた人が立ち直るなら、同様の理由でつまずいた人を助けることができる。受験に失敗した、家庭崩壊した、依存症に陥った、大きな病気をした、そういう人々は立ち直ったとき、同じ問題を抱える人々を助けられる。悔やまれるはずのことが貴重な経験になる。不利だったことが、イエス様にあって有利になる。

第四に、自信過剰な者は倒れやすい。ペトロはイエス様から警告されても、自分は大丈夫だと言い張った。イエス様と共に投獄されたり死んだりすることを覚悟していると。そういうことを口にするだけでも、たいしたものだ。しかし、ほかならぬイエス様から警告されたのだから、ペトロは言われた通りにならないようにもっと警戒するべきだった。

ペトロは警戒していなかったので、ゲッセマネの園で祈らずに居眠りしてしまった。そして、イエス様が言われた通りになってしまう。Ⅰコリント10:12では「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と書いてある。自信過剰な者には油断がある。その油断が、敵に漬け入れられる隙を産む。何の備えも根拠もなしにただ「大丈夫だ」というのは非常に危険な状態だ。無謀と信仰は違う。「大丈夫だ」と言い張る前に神の武具で武装しよう。日々の祈りを欠かさず、イエス様の血潮をかぶり、敵の攻撃や試練が襲ってくることに備える者になろう。アーメン。

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