神の国はあなたがたの間にある[ルカ17:11-37]

ルカによる福音書
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神の国は私たちの間にあり、私たちの中にあります。

神の国はあなたがたの間にある[ルカ17:11-37]


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【ノート】
11-19節。イエス様はガリラヤとサマリアの国境付近にいた。そこに重い皮膚病を患っていた人が十人いた。その中の少なくとも一人はサマリア人だった。ユダヤ人はサマリア人を嫌って交際しなかった。民族的、歴史的、宗教的な壁が両者の間に存在していた。しかし、ここではユダヤ人とサマリア人が一緒にいる。みんなが悲劇的な状況にあるときには、ユダヤ人とかサマリア人というのはどうでもよくなり、ただひたすらに自分たちはみんな神の救いを必要としているという意識で一つとなることができる。もし、すべての人が自分のありのままの状態を知れば、つまり謙遜になって、自分たちが呪われた罪人であり、神の救いを必要としているということを悟れば、世界はたちまちキリストのもとに一つとなることができるだろう。

重い皮膚病の人たちはイエス様に近寄らずに、遠くの方に立って、声を張り上げて救いを求めた。重い皮膚病の人は健康な人から離れていなければならないという取り決めがあったからだ。特に重い皮膚病の人の方から健康の人の方に風が吹くときには、少なくとも、45m離れていなければならなかった。彼らは隔離され、孤立無援の生活を強いられていたのだ。私たちも孤立無援に思われることがあるかもしれない。しかし、イエス様にあって、神はいつも私たちの近くにおられ、憐れんで、助けてくださる。
イエス様は彼らを憐れんだ。14節で、「祭司たちのところに体を見せなさい」と言われた。これはどういうことか?律法書には、重い皮膚病の人が癒されたときは、祭司に体を見せて癒しについて証明してもらうことになっていた。つまり、イエス様は必ず癒されるということを宣言なさったのだ。

ところが、十人が癒されたのに、一人しか感謝するために戻ってこなかった。彼らは癒されたので、自分の願いが適えられたので、もうイエス様は用済み、バイバイということだ。イエス様は「ほかの九人はどこにいるのか」と言われた。彼らはイエス様の目にどこにいるのかわからなくなった。つまり、イエス様から遠く離れてしまった。それは、神様から遠く離れていることでもある。人は罪の結果、神との関係が断絶してしまったが、この人たちはイエス様による罪の赦しを受けることなく、罪の状態にとどまってしまったのだ。
苦しい時の神頼みということわざがある。きっかけはそれでもよい。苦しいことがきっかけでイエス様を信じるのであれば、苦しみすらも有益だ。しかし、苦しい時に神に頼って救われたのに、神から離れてしまってはならない。イエス様を信じて祈ったら、病気が癒された。経済的な危機から救われた。問題が解決した。それならば、そのことを感謝して、イエス様への信仰にとどまろう。そうすれば、罪からの救いも受けられる。
恩知らずの9人はまた病気になるかもしれない。私たちが祈りや信仰によって勝ち取った勝利は、自動的に維持させるものではない。その後に戦いがある。神への感謝を忘れてしまうと戦いに負けてしまい、せっかく勝ち取ったものを失ってしまう。約束の地を占領したイスラエルがそうだった。癒しも、一度は完全に癒されたのに、サタンが不信仰に陥らせて、「癒されたはずがない」とか「また病気が戻ってきた」と嘘を信じ込ませることがある。嘘はクリスチャンの口から語られるかもしれないし、医者の口から語られるかもしれない。その嘘を信じてしまうと、本当に病気が戻ってきてしまう。勝ち取ったものを維持するためには、このサマリア人のように神に賛美と感謝をささげ続けることが必要だ。
感謝しに戻ったサマリア人の優れた点は、求めるときと感謝するときが同じ態度なところだ。イエス様に憐れみを求めるときは十人全員が声を張り上げた。感謝するときはサマリア人一人だったが、このサマリア人は15-16節で「大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」と書いてある。賛美と感謝をささげるときも、求めるときと同じくらい熱烈なことがわかる。この点を大いに見習わなければならない。私たちは果たして、願い求めるときと同じくらいの度合で感謝と賛美をささげているだろうか?ささげる者になろう。サマリア人は19節で救いの宣言を受けられた。感謝するものには祝福がある。救いの確信が与えられる。得られた勝利が確かなものとなる。

20-21節。神の国は見える形で、物質的な繁栄や地上の王国といった形では来ない。中世のローマ・カトリック教会は物質的に繁栄して、異端の教えを説いて贖宥状を売りさばいて立派な大聖堂を建て、聖人と呼ばれる人々の偶像を乱立させた。ローマ・カトリック教会はそのような形で神の国を表すことができると思った。「神の国はここにある!」と。実際、立派な建物を見て息をのんで「これは御業だ」と思う人もいる。しかし、イエス様は「神の国はそんな目に見える形では来ない。そんなものは神の国ではない」と言っておられる。では、神の国はどこにどんな形であるのか?イエス様は、「神の国はあなたがたの間にある」と言われた。原語のギリシャ語では、「神の国はあなたがたの中にある」と訳すこともできる。どちらもその通りだ。神の「国」とは、神の「統治」が及んでいる場所のことだからだ。目に見える立派な建物や服や像や財宝なんかよりも、この神の統治が及んでいることがずっと大事だ。イエス様は何よりもまず神の国を求めなさいと言われた。この神の統治こそ何よりもまず求めよう。

第一に、神の国は私たちの中にある。心にある。ローマ14:17。もし私たちの心の王座にイエス様が座っておられて、イエス様が私たちを統治しておられるのであれば。私たちが主の御心を心としているならば。私たちが聖霊様を悲しませることなく、聖霊様の導きに従っているのであれば。私の中に神の統治が実現しているので、神の国はいままさに私のうちになる。それは、義と平和と喜びによって体験することができる。私たちは地上にいながら天国を体験できるのだ。主にある義と平和と喜びを体験しているか?少ししているか?もっと求めよう。もっと慕い求めよう。

第二に、神の国は私たちの間にある。もし心に神の国がある人々が集まって、神に統治していただくことを願い、御心を行うなら、その場所に神の国がある。そして、一人だけで神の国を体験するよりも、集まった方がもっと濃密な主の臨在、聖霊様の働きを体験できる。教会がまさにそういう場所でなければ意味がない。教会はそういう場所であるべきだが、必ずしもそうとは限らない。自動的に教会=神の国ではない。私たちは教会を全面的に神に統治していただこう。イエス様を王として仰ごう。そして、教会だけでない。私たちが神の統治されている者であるなら、家庭も、職場も、地域も、私たちが行く場所場所に神の国が力強く侵入するようになる。まだ、イエス様を知らない人がいれば、この偉大な王を紹介して受け入れるように導く。伝道する。御国を来たらせたまえ。それは、そのための祈りだ。御国を来たらせたまえ。天におけるように地にも!地上での神の国の拡大に用いられる私たちになろう。

ところで、神の国の王はイエス様だ。イエス様を一目でも見てみたいとは思わないか。それはごく自然な願いだ。最終的には必ず適えられるが、しばらく忍耐して待たなければならない。22-25節。イエス様はまず受難を経験される。その後、復活され、昇天された後、弟子たちはイエス様の姿を見たいと思っても見ることができなくなる。イエス様が再臨されて神の国が力をもって来るまでは、一日たりとも見ることはできない。使徒ヨハネが黙示録の啓示の中でイエス様を見たように、一部の例外はありうる。しかし、基本的にはほとんどのクリスチャンはイエス様の御姿を直にこの肉眼で見ることはかなわない。イエス様見たさはほどほどに抑えなければならない。私たちは聖霊様を通して神の国を体験することで満足し、イエス様と顔と顔とを合わせて会うのは、再臨まで待たなければならない。もし、イエス様見たさが高じるとどうなるか?惑わされることになる。「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」とキリストが密かに再臨したと主張する人がいたら私たちはどう判断すれば良いのか?全部偽物だと判断すれば良い。なぜなら、イエス様は24節で稲妻がひらめいて大空の端から端まで輝くように再臨するとおっしゃっているからだ。稲妻が端から端まで輝くとどうなるか?広い範囲に住むの多くの人が空が明るくなるのを見て、あるいはその稲妻の轟音を聞いて、すぐに「稲妻だ」と知る。同じように、イエス様が再臨するとき、すぐに全世界の人々が「イエス様の再臨だ」と知ることのできるしるしが与えられるのだ。イエス様は密かに再臨するのではなく、全世界の誰の目にも明らかな形で再臨されるのだ。それは歴史上最大のイベントなのだ。

そのときに何が起こるのだろうか?人々はどのような取り扱いを受けるのだろうか?26-30節。イエス様はノアとロトを例に出された。この二つの例には多くの共通点があり、その共通点がイエス様の再臨にもあてはまる。第一に、人々の状態が共通している。ノアのときは、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。ロトのときは、人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしてた。彼らはみんな滅んでしまった。これらのことは罪だろうか?いや、全く罪ではない。私たちは食べたり飲んだりしていいし、結婚していいし、経済活動をしていいし、農業も建設業も許されている。問題は、この世のことだけにとらわれていて、神の国に全く無関心だったことだ。霊的にぼけていた。鈍感になっていた。それで、彼らは自分たちが滅びることになる直前まで何も気づかなかった。第二に、ノアとロトの家族だけが救われたという点が共通している。人々の取り扱いは真っ二つに分かれたのだ。救われるグループと滅びるグループの二つに分かれた。イエス様の再臨のときもそうなる。第三に、滅びは突然やってくる。ノアの時代には、ノアが箱舟に入るその日に洪水が襲ってくる。ロトの時代には、ロトがソドムを出て行ったその日に火と硫黄が天から降ってきた。イエス様の空中再臨のときは、クリスチャンが携挙される日に患難期が始まることになる。

では、救われるグループに入るためのポイントは何か?31-33節。家財道具を取り出そうとするな、ロトの妻のようになるなとイエス様は言われた。これはどういうことか?ロトの妻は、ソドムが滅びるとき、後ろを振り返ってしまった。ソドムにたくさんの財産を残してきたので、未練があったのだろう。すると、逃げ遅れて災害に巻き込まれて塩の柱になってしまった。これは、私たちがこの世の財産を未練がましく思うなら、携挙しそびれるということだ。私たちは世のことにとらわれ、そればかりに夢中になってはならない。この世の財産に対して未練がましく思ってはならない。一日も神の国のことを忘れてはならない。この世のことよりも、神の国をまず求める者になろう。

34-36節。同じ場所、同じグループにいても、神の取り扱いは二つにわかれる。一人は連れて行かれ、一人は取り残される。ノアとロトのケースでは、世から出て行く者が救われる方で、世に残る方が滅びてしまう方だ。同じように、世に取り残される方が患難期を迎える方で、連れて行かれる方は携挙されて空中でイエス様と出会う方だ。同じグループにいても取り扱いは異なる。私たちが初代教会のように最高の教会にいたとしても、私たちの家族全員が熱心なクリスチャンだとしても、それは、私が携挙される理由にはならない。神の国に入るにあたっての最終的な取り扱いは、個人的なものだからだ。隣にいる誰かが優れていることは何のあてにもならない。私はどうか?私はそのとき、携挙されるか?私はこの世のことよりも神の国のことを求める者か?自問自答してみよう。誰しも自信満々とはいかないだろう。しかし、希望がある。たったお一人だけ、私たちはあてにできる友達がいる。それは、私たちの主イエス・キリストだ。イエス様と一緒にいるなら、イエス様と一緒の取り扱いを受けられる。イエス様が昇天なさったように、天に挙げられることができる。私たちはイエス様と共に日々歩んでいるか?天にあげられるときまで、その方と一緒に歩んでいこう。

37節。弟子たちはその出来事の場所を聞いた。イエス様はそのヒントとして「死体のあるところに禿鷹も集まるものだ」と言われた。これもやはり、稲妻の例と同じように、多くの禿鷹が空中を旋回したり、むらがっていたりするのを見て、「あそこに死体があるに違いない」と遠目でもわかるように、その事が起これば、どこで起きたのかすぐにわかるということ。しかし、もっと深い意味にもとれる。禿鷹は律法で汚れた鳥とされており、禿鷹が死体をむさぼるというのは、明らかに不幸な出来事を意味する。黙示録8:13では禿鷹が「不幸だ、不幸だ」と叫んでいる。不幸の象徴だ。イエス様の再臨の中でも最も不幸な者たちは反キリストと反キリストに属する軍勢だ。黙示録19章を読むとイエス様の地上再臨のとき、反キリストの軍隊は壊滅し、空の鳥の餌食になる。その場所はイザヤ63章によると、エドムのボツラだ。つまり、イエス様は弟子たちの場所についての質問のヒントとして、「再臨の際の裁きはエドムのボツラでなされることになる。そのときに反キリストにつく者たちははげたかの餌食になる」ということを示唆しているのだ。

イエス・キリストは必ず再臨される。クリスチャンの携挙も必ずある。私たちはそれに備えているか?世のことよりも神の国を求めているか?イエス様を心の王座にお迎えして、統治していただいているか?聖霊様を通して神の国の義と平和と喜びを味わっているか?神の国を体験し、拡大し、待望する者となり、いつその日が来ても良いようにしよう!

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