金持ちとラザロ[16:14-31]

ルカによる福音書
スポンサーリンク

たとえではなく、実際にあった出来事です。

金持ちとラザロ[16:14-31]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
14-15節。一部始終とは、イエス様が弟子たちに語られた不正な管理人のたとえのこと。その主な内容は、永遠の世界で報いを豊かに得るために、知恵を尽くしてお金を使うことだ。イエス様は弟子たちに話したが、ファリサイ派の人々も聞き耳を立てていたのだ。 その結果、イエス様を嘲笑った。この嘲笑ったというのは、鼻で笑ったという意味の言葉。弟子たち向けのレベルが高い話だったので、ファリサイ派の人々にはついていけなかったのだ。もし、私たちが御言葉を鼻で笑うなら、私たちは自分の霊的な未熟さをさらけだすことになる。私たちは御言葉に対して畏敬の念をもって接するようにしよう。ファリサイ派の人々はなぜ鼻で笑ったのか?まず、金に執着するファリサイ派の人々は、と書いてある。金に執着しているので、天の富には全然興味なかった。人は全然興味ないものをとにかく嘲笑ってしまうものだ。天での報い?ふん、そんなことよりもこの世の中で金持ちになることが重要だろうといった態度。ところで、そんな金に執着すると書いてあるファリサイ派の人々すら、人からの称賛を得るために十分の一を必ずささげていたということを忘れてはならない。さらに人からの称賛を得るためにラッパを鳴らして施しさえをもしていたことを忘れてはならない。それでも、彼らはお金に執着していた。私たちはどうだろうか?お金への執着から自由だろうか?それともファリサイ派の人々と同じ指摘を受けなければならないだろうか?

彼らの考えは単純だ。アブラハムは金持ちだった。だから、ユダヤ人の中では、金持ち=自動的に神から祝福されているしるしだと見られていた。人々は金持ちを見れば、自動的になんと祝福されていることかと称賛した。自動的に。そのお金を神が喜ばれることに使ったかどうかではなく、とにかく金持ちであれば神から承認を受けていて祝福されているということだ。だから、イエス様の語られたことを鼻で笑った。今の世の中でも、金持ちであれば、実力があれば、知名度があれば、その使い道がどうであれとにかく称賛するというきらいがある。すごい、すばらしい、私もそんなふうになりたい。しかし、イエス様は「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」と言われる。私たちは、持っているものの使い道にこそ焦点をあてる者となろう。人からの称賛よりも神から喜ばれることを追求する者となろう。

ファリサイ派の人々がイエス様の話を理解できなかったのは、古いものにとどまっていたからだ。16節。ファリサイ派の人々は律法と預言者にこだわっていたが、それはもはや古いものだった。バプテスマのヨハネ以降は、神の国の福音こそが最優先事項だ。律法と預言者は人が罪人であることを明らかにする。しかし、律法も預言者も私たちを罪から救ってくれない。ただ、律法と預言者は、将来やってくるキリストの存在を示すにとどまる。では福音は何か?キリストが来た!罪を悔い改めて、イエス・キリストを心に迎え入れれば救われる!神の国に入れる!さあ急げ、ということで殺到する。ファリサイ派の人々はそれに乗り遅れていた。私たちもヨハネから始まったこの神の国のムーブメントに乗り遅れてはならない。神の国を全力で追い求める者となろう。そうすれば、私たちは当然イエス様が言われた通りに知恵を尽くして永遠の世界のためにお金や持っているものを使うだろう。

17節。イエス様はこの節で、ファリサイ派の人々がイエス様に対してしていた間違った批判に先回りして答えている。ファリサイ派の人々はまた単純に考えた。そして、単純な考えはえてして間違っている。
「イエスは神の国の福音という新しいことを伝えて、律法と預言者を完全に否定してしまった異端だ。」そんなことは全くなかった。律法の文字の一角すらなくないというのは、ダレト(ד)の角がなくなってレーシュ(ר)になる、ということはないということ。一文字すらも変わらないくらい律法はこの世界が存続する限りずっと有効なのだ。祭儀律法は確かに、文字通りに守る必要はない。私たちはもはや羊や牛や山羊を生け贄にささげなくてもよい。なぜか?イエス様が世の罪を取り除く神の小羊として、生け贄となって死んでくださったからだ。祭儀律法はすべてイエス様の十字架の死にあって求めるところがすべて満たされた。イエス様が代わりに全部行ってくださった。だから、もはや守る必要はない。それでも、祭儀律法に触れるとき、私たちはイエス様の十字架の死をそこに見出すことができる。そういう点で祭儀律法は今もイエス様にあって意味を失ってはいない。そして、倫理道徳的な律法は今でも文字通り全部守らなければならない。私たちは聖書に書いてあるすべての倫理道徳の教えを文字通りに守ることに対して少しのよどみもなくアーメンと応答しよう。では、イエス様の教える倫理道徳の教えのレベルはファリサイ派の人々と同レベルだったのか?むしろ、イエス様はファリサイ派の人々よりもずっと高い水準の倫理道徳の教えを説かれた。その一例が18節だ。

18節。姦通の罪を犯してはならない、つまり不倫をしてはならないということについて、ユダヤ人は徹底していた。ところが、離婚については、どこまでもその基準がゆるく、簡単に容認されてしまっていた。聖書には、離婚について、申命記24:1。この離婚理由としても良い恥ずべきことが何かが問題となる。ラビ・ヒルレルという人の解釈が最も人気があった。ラビ・ヒルレルの解釈は、どんな理由であれ離婚してもよいというもの。ちょっと大声を出したはい離婚。お皿を割ってしまったはい離婚。ラビ・アキバと言う人は、「男が妻よりきれいな女を見つけたときには、それだけで離婚理由になる」とすら言った。現代と同じように、簡単に離婚した。今でも、人々はささいな理由で離婚する。神の御前で誓ったことを簡単に破る。どんなときも死ぬまで愛すると誓っておきながら誓いを破る。法律的な手続きとしては、書類をそろえて裁判所に行けば終わりだ。しかし、神はその離婚を認めない。神が認めるのは、相手が不倫をしたときだけだ。それ以外の離婚を神は認めないので、法律的に関係を解消したつもりでも、ほかの人と一緒になれば姦通の罪を犯したことになる。自己中心的な考えを捨てよう。結婚の誓いを貫こう。

イエス様はイエス様を信じず、イエス様が語る神の国の教えも全然受け入れようとしないファリサイ派の人々に対して強烈な教えを語る。全然受け入れようとしない人々に対しては裁きのメッセージが効果がある。多少粗治療とはなるが、もうショック療法しかない。金持ちとラザロについての話だ。19-22節。ある人々はこれをたとえ話だという。しかし、これはたとえではない。イエス様はたとえだとは言わなかった。この内容がたとえではない根拠はもう一つある。ラザロという個人名が出てくることだ。ラザロは貧しい人であってこの箇所以外に出てこないから明らかに有名人ではない。にもかかわらず、イエス様はラザロという個人名で呼ばれた。個人名が出てくるたとえは一つもない。
イエス様は神の国の王として、自分の民であるラザロのことをよく知っていたのだ。しかし、金持ちは名前がない。天に名前が記されておらず、イエス様に覚えられていないのだ。イエス様が「あなたがたのことは全然知らない」と言われる人の内の一人だ。

金持ちとラザロは対照的な人生を送っていた。金持ちはぜいたくに遊び暮らしていた。ラザロは貧しい人で犬と一緒に路上にいた。
死んだときは、金持ちは墓に葬られたことが書いてあるが、ラザロについては書いていない。当時貧しい人が死ぬと、墓に葬られることなく、ただヒノムの谷と言われるゴミ捨て場のような場所に投げ込まれて焼かれることになる。多くの人の目にとまるのは、ここまでだ。多くの人はその死体がどうなるかまでしか知らない。それによって、金持ちについては、「ああ、あの人はやりたいことを何でもできた幸せな人生だった。ああやって丁重にお墓に葬られたから天国でも幸せに暮らせるだろう」などと思い、貧しい人については「私はあんなでなくてよかった」と思うだけ。私たちはどうか?肉体的に生きていたときどうだったかということと、死体がどう扱われたかというだけの限定的な情報で、人々の人生の善し悪しを評価していないか?実際には、その先でどうなるかがもっと重要だ。死ぬまで人々が気にも留めなかったラザロだったが、その後の取り扱いは全然違う。一人ではなく、複数の天使たちに迎えられる。神の国では、ラザロのことを注目していたのだ。そして、アブラハムのすぐそばに連れて行かれた。

じゃあ金持ちは?23-26節。陰府とはどのような場所か?ギリシャ語のハデスという言葉が使われており、ヘブライ語ではシェオル。一般的に人々が地獄と呼ぶこともある場所だ。それは地の下にあり、すべての死者が行きつくところだ。しかし、良い場所ではなく、最終的に主がそこから御自分の民を救い出してくださることが歌われている。民数記16:30-31。詩編49:15、86:13。しかし、死なない人は誰もいない。すべての人が陰府に行くのに、主が陰府から救ってくださるとはどういうことか?まず金持ちとラザロの話をみると金持ちはもだえ苦しみ続けているのに対して、ラザロは「アブラハムのふところ」とも訳すことができるアブラハムのすぐそばで宴席についている。陰府の中ではすべての人が同じ扱いではなく、大きな淵が間にあってアブラハムのふところと呼ばれる快適な場所と火で苦しみ続ける恐ろしい場所に分離していることがわかる。その分離は完全なので、誰もその間を行き来することはできない。だから、金持ちは絶対にそこを出ることができず、水一滴の憐れみすらも受けることができず、苦しみ続けなければならなかった。絶対にこんな場所に行ってはならない!

反対にラザロはというと、アブラハムのふところで慰められた。どんな慰めを受けたのか?やがてキリストが来て私たちを陰府から救ってくださるという慰めだ。イエス様は十字架で死なれた後どこに行かれたか?使徒信条には陰府に下りと書いてある。イエス様御自身それにあたることを語っている。マタイ12:40。大地の中と書いてある。イエス様は陰府に降ってアブラハムのふところにいる人々を救出して第三の天のパラダイスという場所に引き上げたのだ。パラダイスは第三の天、主の玉座のある場所にある。Ⅱコリント12:2-4。イエス様を信じて眠りについた人の霊は第三の天にいる。そこで、肉体が復活するのを待つ。肉体が復活したら、千年王国でイエス様と地上を統治し、やがて世界全体が完全に新しくなる新天新地となり、新しいエルサレムでの永遠の栄光の生活が待っている。
イエス様の十字架の死によって、陰府のうちのアブラハムのふところは空っぽになった。今はもうない。では、金持ちがいた場所はどうか?まだ存在する。金持ちは今も苦しみ続けている。しかし、ハデスにも終わりはある。千年王国の後、ハデスにいた人々は肉体をもって復活し、大いなる白い玉座にで裁かれる。そのとき、死も陰府も火の池に投げ込まれる。この火の池がゲヘナとも呼ばれる場所で、今度は霊だけでなく肉体も持って永遠に苦しみ続けることになる。陰府よりももっと大きな苦しみが永遠に続くのだ。

金持ちは何で陰府に行かなければならなかったのか?金持ちはみんなハデスに行くのか?いや、そうではない。アブラハムも金持ちだった。
金持ちの罪は何だったのか?金持ちは、ラザロを殴ったわけではない。ラザロの持ち物を奪ったわけでもない。金持ちが確かに贅沢に暮らしていたが、何か特別に大きな悪を働いたという形跡は見られない。では、何が問題だったのか?何もしなかったことが問題だ。自分の門前にラザロがおなかをすかせているのに、食べ物を提供しなかったことが問題だ。自分の腹を満たすことだけだったのが問題だ。なぜ私たちは無料食堂をするのか?この金持ちのような何もしない罪を犯さないためというのが一つの理由だ。私たちは人々を救うのか?むしろある意味で自分たちを救うことでもある。

でも救いは信仰によるのではないか?もちろん信仰による。確認しておこう。誰がハデスに行き、誰がパラダイスに行くのか?イエス様を信じる人々がパラダイスに行き、イエス様を信じない人々がハデスに行く。イエス様がこの金持ちとラザロの話をした相手は、イエス様を全然信じようとしないファリサイ派の人々だった。イエス様は警告として、これを語られた。しかし、仮にもし私たちがイエス様を信じると言いながら、イエス様が語られる金銭についての教えや愛の実践について完全に無関心だとしたら、どこがどうイエス様を信じていると言えるのか?信じていたらその教えを行うだろう。行いを通して信仰を証明する者となろう。
しかし、愛の神が人を陰府や地獄で苦しめ続けるなんてひどくないか?愛の神は人々を地獄で苦しめるつもりは全くない。愛の神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。イエス・キリストを信じれば誰でも救われる。だから、誰も地獄に行く必要はない。愛の神はすでにできるだけのことをされた。ただ人間が好き好んで地獄に自分から飛び込んでいるだけだ。

27-31節。昔に亡くなった私たちの家族や先祖は死んだ後どこに行ったのかわからない。神のみがご存知だが、イエス様を信じていないまま死んだのならあまり希望は持てない。しかし、私たちが心得ておかなければならないのは、仮に私たちの家族や先祖や友人の誰か地獄にいたとして、私たちまでも地獄に来ることを望んでいないということだ。金持ちすらどうだった。

ところで、金持ちの願いは聞き入れられなかった。ラザロが生き返ったところで、モーセと預言者に耳を傾けないなら、耳を傾けないという。本当にラザロが生き返っても金持ちの兄弟たちは耳を傾けないのか?びっくりして信じて耳を傾けるのでは?どう思うか?実は金持ちとラザロの話はヨハネによる福音書に出てくるラザロとリンクしている。ラザロは姉妹のマルタ、マリアと一緒にベタニアに住んでいた人。ラザロはイエス様から愛されていた。しかし、ある時、ラザロは病気になって死んでしまった。イエス様は死んで四日たったラザロを父なる神様に祈って生き返らせた。包帯グルグル巻きのミイラ状態だったところを墓から出てきた。その話を聞いた人々は全員イエス様を信じたか。信じた人もいたが、信じなかった人もいた。もともとイエス様を目の敵にしていた祭司長たちは信じなかったばかりか、イエス様を殺そうとした。イエス様を信じまいと決めている人は、たとえ死者が生き返るのを目撃しても絶対に信じないのだ。だから、私たちは奇跡が起きたら信じるというのをやめよう。奇跡が起きても信じない人は信じない。そうではなく、モーセと預言者が与えられているのだから、それで十分だ。モーセと預言者に耳を傾けよう。聖書の御言葉に耳を傾けよう。また、聖書を通したメッセージに耳を傾けよう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました