失われた者を全力で救う神[ルカ15:1-10]

ルカによる福音書
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神様は執念深い燃えるような愛で私たちを救ってくださいます。

失われた者を全力で救う神[ルカ15:1-10]

失われた者を全力で救う神[ルカ15:1-10]

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【ノート】
ルカによる福音書15章は福音の中の福音だ。ここでは3つのたとえが連続してなされているが、すべて同じ意味だ。同じ意味のことが三連続で語られている。それは、その内容をこれでもかと強調するためだ。人は一度聞いて全部悟るということがなかなかできない。ましてや、自分の感性のうちに存在しないことであれば、何度も語られなければよくわからない。イエス様がここで三連続で語られたのは、多くの人にとって信じがたいこと、チンプンカンプンなことだからだ。その内容とは、神の罪人の救いに対する執念だ。神は罪人を愛しておられる。愛とはどのようなものか?雅歌8:6-7。愛は燃える炎だ。熱いもの。愛の対象を簡単にあきらめたり手放したりすることはできない。神は罪人を愛しておられるので、罪人の救いのためだったら何でもする。どんな犠牲でも払う。そういう執念を持っておられる。堕落した罪人のうちには完全な愛であるアガペーの愛が存在しない。だから、神のなさることがなかなかわからない。私たちはわかっているだろうか?福音がわかっているだろうか?ここで語られていることが本当にわかっているだろうか? わかる者となろう。

1-3節。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエス様のしていることが全く理解できなかった。徴税人は権力を後ろ盾にもったマフィアのような人々。ローマの手先になって同胞のユダヤ人から税金を巻き上げる裏切り者。しかも徴税人は人々が無知なのをいいことに実際の規定よりもずっとたくさんのお金をだましとることがよくあった。正直な徴税人というのは、ほとんど見つけることができないほどだった。徴税人は公募制だ。自ら志願してなるのだから言い訳の余地がない。罪人は、律法を守らない人々だ。彼らが律法を守らないのは、たいてい職業上の理由や経済的な理由からだ。たとえば、使徒言行録では皮なめし職人のシモンが出てくる。皮なめし職人は動物を毛や皮を薬品などを使い剥ぐが、動物の死骸に触れることは律法で禁じられているので、シモンも罪人ということになる。ファリサイ派の人々は、罪人のことを「地の民」と呼び、一切関わりを持とうとしなかった。ファリサイ派の人々にとって、徴税人や罪人が死ぬと天に大きな喜びがあると思っていた。ところが、イエス様は徴税人や罪人と食事をなさる。「食事までしている」と書いてある。食事をするというのは、一つになるということ。イエス様が徴税人や罪人と食事をするということは、彼らと一つになるということだ。これはファリサイ派の人々にとっては身の毛がよだつことだった。教えるだけにとどまらず、なぜそこまでするのか?食事まですることないだろう。やりすぎだ。
もしかしたら、私たちも心の内でそういう疑問を持ったことがあるかもしれない。伝道をする人を見て、駅前で路傍伝道をするなんて、なぜそこまでするのか?人々の救いのために日夜涙を流して祈るなんて、なぜそこまでするのか?あるいは、自分がするとき、なぜクリスチャンはそこまでしなければならないのか?熱心に伝道する人であっても、時々、わからなくなってしまうことがあるかもしれない。ここまでする必要があるのか?と。もしわからないのであれば、私たちもファリサイ派の人々とあまり変わりがない。答えはイエス様が説明してくださる。

4-7節。このたとえに出てくる羊飼いは神様のことで、羊は人間だ。ダビデは「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」と歌った。イエス様は御自分のことを、羊のために命を捨てる良い羊飼いだと言われた。なぜ神様はよく羊飼いとして表されるのか?羊飼いは非常に過酷な職業だ。当時は、今のように整備された牧場は存在していない。そして、イスラエルの地は非常に険しい。
開かれた場所はものすごく狭く、少しでも遠くに行けば断崖絶壁があり、遠くには獣の遠吠えが聞こえる。安全のための柵もない。そんな場所で羊飼いは夜通し目を光らせて、羊の群れの1匹1匹に至るまで心にとめる。1匹でも迷い出てしまわないように。私たちの人生も、イスラエルの地のように、ごつごつとした険しい岩場や断崖絶壁もある。草や水が乏しい場所もある。しかし、羊飼いなる神様がいつもじっと目を光らせていて、導いてくださるのだ。
迷い出た1匹の羊は?イエス様を知らない人やイエス様を信じたにもかからわず信仰によって生きることをやめてしまった人だ。迷い出る羊は必ずいる。迷い出ていない羊は99匹に対して、迷い出た羊はたったの1匹だ。もしかしたら私たちの感覚では思うかもしれない。99匹が無事なら1匹くらい迷い出るのは仕方ない。あきらめよう。しかし、羊飼いはそうではない。絶対に見つけ出すまで探し回る。そして、見つけたら、友達や近所の人々までも集めて、一緒に喜んでくださいという。異常に思えるかもしれない。そこまでするかと思えるかもしれない。しかし、イエス様は羊飼いであるならば当然のこととして書いている。羊飼いは事実そういうものである。羊飼いは羊に対して個人的な責任を持っている。もし羊が迷い出て死んでしまったらその羊毛を刈り取った上で、なぜ死んでしまったのか説明責任を問われる。そして、羊飼いは羊を追跡する達人だ。迷い出た羊の足跡を負って、丘を越えて何kmもの道のりを追跡することができる。羊の群れはたいてい村の共同財産だった。定刻になっても羊飼いが羊を探して村に戻らないことがある。そうすると、村全体が羊飼いが捜しに行った方に目をこらす。やがて羊飼いが羊を肩にかついで現れると村全体が歓声をあげて喜びに包まれる。

神様はそうなさる。神様は私たち一人一人を愛しておられる。一人一人がかけがえのない宝物だ。誰一人として欠けていてはならない。一人が迷い出たら、絶対に見つけ出すまで捜し回るのをあきらめない。人はあきらめても神様はあきらめない。そのような愛によって私たちは救われた。自分の人生の中で、神様の追跡があったことを振り返ってみよう。神様は99人の正しい人について、つまり救われてクリスチャンとして忠実に歩んでいる人々についても喜ぶ。しかし、悔い改めて御自分のもとに戻ってくる一人の罪人については、天国全体をあげて喜ばれる。そして、その喜びを、私たちにも共有してほしいと願っておられる。「一緒に喜んでください」と書いてある。私たちも神の御心を心として、悔い改める一人の罪人について神様と共に喜ぶ者となろう。

8-10節。このたとえに出てくる女は神様のことで、ドラクメ銀貨は人間のことだ。イスラエルの農家で、銀貨を一つ落としたら、それを見つけ出すのは簡単ではない。家全体が薄暗い。丸い窓が一つついているだけだ。だから女はともし火をつけた。また、床には乾いた草がしかれた土間であって、物が落ちていてもわからない。だから女はしきつめられていた草を掃いたのだろう。私たちは、家で何か探し物をしているとき、どのくらい探すだろうか?家のベッドをどけて、カーペットを剥がして、冷蔵庫や洗濯機をどかしてまで探すだろうか?よほど大事なものでない限り、そこまでしないうちにあきらめるだろう。
しかし、女は「見つけるまで念を入れて捜す」。念を入れてはエピメロスというギリシャ語が使われている。新約聖書の中でここだけの言葉だ。一生懸命とか、積極的にとか、こまめにという意味の言葉だ。イエス様は「捜さないだろうか」と言われた。見つけ出すまで一生懸命捜すのを当然とみなしている。それが天国の常識だ。

この女はなぜそこまでするのか?ドラクメというのは一日の労働賃金にあたる。今でいうと万札を無くしたようなもの。当時は多くの人が毎日食べていくのがやっとだったから、ドラクメが1枚あるかないかは死活の問題だ。ただし、このドラクメにはおそらくそれ以上の価値があるだろう。
イスラエルの既婚女性は銀の鎖に10枚のドラクメ銀貨をつける髪飾りをつける風習があった。この髪飾りは結婚指輪のようなもので、一度10枚手にした女性からは借金の型でも絶対に取り上げてはならないとされていた。ドラクメ銀貨はいわば愛の結晶であって、絶対に失われてはならないものなのだ。それで女は見つけ出すまで探した。結婚指輪をなくしたら、さすがに家をひっくり返してでも探すだろう。その愛が冷えていなければ。神の愛は燃え上がっている。その愛は、罪もサタンも誰も妨げることはできない。その愛によって私たちは神様のもとに戻ってきて、その愛によって私たちは今も守られている。神様は人よりもずっと憐れみ深いお方だ。イエス様にとって、神様は失われた者のために見つけ出すまで探すのが当然のことだ。これが天国の常識だ。神様は罪人の救いを喜ばれる。天使たちの間でも喜びがある。ただ愛のない人間だけが理解できずにいて、ファリサイ派の人々のように不平を言いだす。私たちはそうであってはならない。

イエス様は父なる神様の御心を知っておられた。それで、イエス様は神の御子でありながら、人間となって地上に来てくださった。神に背いた罪人である私たちと同じようになってくださった。そして、イエス様は十字架で私たちの罪の身代わりに死んでくださった。どうしてそこまでするのか驚いてしまう。神様の燃える愛のゆえだ。神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛された。神様はそこまで愛しておられる。私たちもその愛がわかる者となろう。一人の救いのためにどんな犠牲でも払う者となろう。伝道をし、迫害に耐え、持っているものを喜んで差し出すものとなろう。

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