ベタニアの辺りで天に上げられた[ルカ24:50-53]

ルカによる福音書
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イエス様はベタニアの辺りで天に昇られました。
それは、ベタニアがイエス様にとって特別な場所だったからです。
ベタニアのマルタ、マリア、ラザロの霊性を持てば、私たちがいる場所が、天と地をつなぐ場所として用いられるようになります。

ベタニアの辺りで天に上げられた[ルカ24:50-53]


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【ノート】
ベタニアの辺り。これには意味がある。天に昇られたイエス様をどのように待ち望めば良いかを教える。ベタニアと言えば、マルタ、マリア、ラザロの兄弟がいた場所だ。イエス様がエルサレムで活動する時には彼らの家に滞在していた。イエス様にとってベタニアは第二の故郷のように居心地の良い場所だった。このベタニアからイエス様は天に昇られた。つまり、ベタニアは天と地をつなぐ場所として用いられた。私たちはベタニアのマルタ、マリア、ラザロの霊性を持って、イエス様の再臨を待ち望もう。そうすれば、私たちがいる場所が、私たちの教会が、天と地をつなぐ場所、イエス様の限りない祝福が注ぎ出される場所として用いられる。

第一に、マルタのホスピタリティーをもってイエス様をお出迎えする備えをしよう。それなりの人数のイエス様一向がベタニアに来るとき、家に迎え入れたのはマルタだった。「どうぞ、わが家にいらしてください」とイエス様を歓迎した。イエス様の訪れは突然のことだったが、マルタはいつ来られても歓迎する心備えができていた。ラザロの葬儀の時にも、イエス様をお出迎えしたのはマルタだった。このマルタのように、愛から出るホスピタリティーをもって人々を迎え入れる者になろう。教会にマルタの霊性があれば、教会に来る人々がみんな、「私は歓迎されている」「私は受け入れられている」ということを知って安心することができる。イエス様がそうだったように、「また来たい」と思う。教会が憩いの場所になる。教会に来ればいつも自分の居場所があると知る。そういう場所が、天と地をつなぐ祝福を限りなく受けられる教会として用いられる。そういう教会になろう。誰か一人だけでそういう教会を造り上げることはできない。一人一人がその一端を担っていくのだ。何か大きなことをしようとする必要はない。ただ愛から出る笑顔、挨拶、もてなし、ちょっとした励ましの言葉やお互いのことを気にかけていることを示す近況の確認、そういうことで十分である。そうすると、日曜日が待ち遠しくなる、病みつきになる教会になる。そういう教会を共に築いていこう。また、教会だけのことではない。マルタが歓迎したのは自分の家だった。私たちの家が、私たちのすべての人間関係がマルタのホスピタリティーで祝福されるものになろう。あの家にもう一度行きたい。あの人ともう一度話したい。マルタのホスピタリティーの霊性を持とう。アーメン。

第二に、イエス様の足元で耳を傾けたマリアの霊性を持とう。ベタニアのマリアほど真剣にイエス様の話に耳を傾けた弟子はほかにいなかった。マタイ13:23によると、聞いて悟ると豊かに実を結ぶ。だから、どう聞くかというのは、死活の問題だ。マリアの聞き方に学ぼう。マリアの聞くことにおける優れた点は、へりくだりと集中だ。マリアはへりくだって聞いた。マリアはイエス様の足元に座って話を聞いたが、それはへりくだりを意味する。この箇所からはあえて教えられなくてもわかっているとか、自分の知識と経験の天秤にかけて受け入れられないと判断するとか、今日のメッセージは60点とか、そういう高慢な心で聞いていても何も学ぶことはできない。メッセージは神の御言葉としてへりくだって聞くときに実を結ぶ。そしてマリアは集中して聞いた。マリアはあまりに集中していたので、マルタがせわしなくもてなしをしているのに全く気が付かないほどだった。全身全霊で聞いていたのだ。時間を忘れ、スマホのことを忘れ、食事のことすら忘れて聞いた。そのお陰で、マリアには悟りが与えられた。男性の弟子たちは、イエス様の話を何度も直接聞く機会があったにもかかわらず、イエス様がエルサレムで十字架にかかられるということをよく理解していなかった。
しかし、マリアは、ほんの少ししかイエス様の御言葉を聞く機会がなかったにもかかわらず、イエス様がまもなく十字架にかかられるということを悟った。そこで、イエス様のために、おそらくは結婚のために貯めていたであろうお金を使って、純粋なナルドの香油を買ってイエス様の足に塗り、イエス様の埋葬の準備をしたのだ。それだけ、イエス様とイエス様の御言葉を愛したからだ。マリアのしたことは、マルタや男の弟子たちには理解されなかった。マルタからは怠け者のように、男の弟子たちからは無駄遣いのように思われて非難された。しかし、イエス様はマリアがしたことを喜ばれ、マリアを擁護された。イエス様には、すべてのことをストップして耳を傾ける価値がある。イエス様には、惜しみなく経済を献げる価値がある。マリアの霊性を持ち、イエス様とイエス様の御言葉に対して、ほかの人からクレイジーに思われるほどの愛を表していく者になろう。そうすれば、私たちは天と地をつなぐ祝福を限りなく受けられる教会として用いられる。

第三に、ラザロの生き返りに象徴される復活を期待しよう。ベタニアほど、復活信仰が生き生きとした場所もなかっただろう。イエス様がラザロを生き返らせたからだ。生き返ったラザロを見て多くの人がイエス様を信じた。ラザロの生き返りは、復活とは違う。ラザロは生き返ってもまた死んだ。復活は朽ちない新しい体を持って生き返ることだ。それでも、ラザロの生き返りは復活信仰に火をつけたに違いない。イエス様はラザロを生き返らせる前、マルタに対して、「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して死ぬことがない。このことを信じるか」と言われた。つまり、ラザロを生き返りは、イエス様を信じる者が復活することのしるしとしての奇跡だったのだ。復活はキリスト教信仰の核だ。復活に対する生き生きとした希望を持っているか。死を恐れない者とされているか。天国に行けることの喜びをかみしめているか。全部アーメンであってしかるべきことだ。もし生き生きとしていないのであれば、ベタニアの人々がラザロの生き返りを見て復活信仰が燃え上がったように、ラザロのようなしるしを見てその信仰を燃やそう。マナ教会でも癒しがいくらか起こっている。生き返りも、癒しの延長線上にある奇跡だといえる。神による癒しが聖書通りにあるならば、死者の生き返りも当然聖書通りにある。天国もある。また、放蕩息子のたとえでは、イエス様は放蕩息子が戻ってきたことを「死んでいたのに生き返った」と言われた。私たちがイエス様を信じて救われて変えられたのは、生き返りの奇跡なのだ。私たち一人一人が復活のしるしであるラザロだ。互いの救いの証しを聞いて復活信仰を燃え上がらせよう。天国に対する確信と喜びのあるところが、天と地をつなぐ祝福を限りなく受けられる教会として用いられる。

イエス様は彼らから離れ、天に上げられた。このことを昇天と呼ぶ。この出来事にはどういう意味があるのだろうか。それまで、イエス様は、エマオに行く途中の弟子たちに現れ、ペトロ個人に現れ、さらに十一人に現れた。他の福音書を読むと、イエス様は合計11回現れている。エマオの弟子たちの前から突如姿が見えなくなったように、イエス様はずっと見える姿でおられたのではなく、突然現れたり、突然見えなくなったりされた。それが40日に渡って続いた。昇天は、イエス様が弟子たちの前に現れなくなるにあたってのはっきりとした区切りだ。これでもう見える形での出現は完全に終わった。このことから、昇天の性質が一つわかる。

第一に、昇天はイエス様の地上の働きの終わりを意味する。イエス様はこの地上で見える形での働きを終わられた。それはなぜか?それはもうこれ以上この世でイエス様が肉体をもってすべきことは何もなかったからだ。イエス様は地上で行うべき父なる神様の御心を完全に成し遂げられた。この世で果たすべきミッションを成し遂げられた。ここから、私たちはイエス様の働きの完全性を見ることができる。イエス様の十字架は、私たちをすべての罪から完全に救う。イエス様の復活は、私たちを義とし、新しい命に生きるようにするに完全に十分である。イエス様の教えも、模範も完全であり、私たちがイエス様の弟子として生きる上で十分な内容が聖書に書いてある。パーフェクト!イエス様は何も思い残すことなしに天に上げられた。
私たちも、イエス様のもとに行く日には、何も思い残すことのないようにしたい。「天のお父様、イエス様、あなたが私に対して抱いている御心を何もかも行いました。もう何もすることは残っていません!」そういう状態でこの世を去りたい。それを理想論だと思うだろうか。使徒パウロはそういう人生を歩んで、「あとは義の栄冠を受けるばかりです」とはっきり言うことができた。イエス様のように、すべてを全うして御国に凱旋できる者になろう。

昇天は終わりだ。しかし、この終わりには寂しさや悲しみがない。弟子たちは涙を流すのではなく、大喜びでエルサレムに帰った。そして、神殿で神をほめたたえていた。それは新しい始まりだったからだ。昇天は終わりと同時に新しい始まりでもある。

第二に、昇天は大祭司としてのイエス様の働きの始まりだ。イエス様は手を上げて、祝福された。祝福は祭司のすることだ。手を上げて祝福するのは、その手のひらの向いている方向にいるすべての人々を祝福するためだ。祝祷にはそういう意味がある。そして、祝福しながら、天に上げられた。昇天は祝福するためである。天に上げられたイエス様の手はどの方向を向いているだろうか。地上にいる私たちの方を向いているだろう。そして、イエス様の手のひらの向いている方向には地球がすっぽりと入るだろう。主は全世界を祝福しておられる。今も祝福しておられる。天のあらゆる霊的な祝福をもって祝福してくださっている。その祝福の中には私たちも常にいる。ヘブライ4:14-16。

第三に、昇天は栄光の王としてのイエス様の始まりだ。弟子たちはイエス様が天に昇られるとき、イエス様を伏し拝んだ。これは天地万物を創造された唯一の神にしかしてはなれないことだとユダヤ人はみんな知っていた。しかし、誰もがそうすることが自然と思われたし、それを咎める者は一人もいなかった。イエス様は神である。イエス様は天地万物を創造された唯一の神である。イエス様が天に昇られることは言わば戴式だ。イエス様は地上におられるとき、天の栄光を捨てて御自分を無にされた。ただ一度、山の上でイエス様の姿が変わられたとき、3人の弟子たちがイエス様の御子としての栄光を垣間見ることができただけだった。へりくだって人間として歩まれたイエス様が、いよいよ全面的に神としての権威を現すものであった。ちょっと待って。イエス様は死者を生き返らせたり、嵐を沈めたり、水をぶどう酒に変えたり、様々な奇跡を行っておられたのに、それでも、フルパワーではなかった、御自分の栄光を制限されていたのか?その通りだ。昇天された今はもはや栄光を隠すことはなくなった。イエス様は父なる神様によって高く上げられ、王座に着くことになる。エフェソ1:20-22。だから、弟子たちにとってイエス様を伏し拝むことは当然のことだった。一部の弟子たち、クリスチャンだけでなく、やがては全世界がそれを当たり前にするようになる。フィリピ2:9-11。
イエス様を伏し拝むことは被造物である私たちが造られた目的である。ごくごく自然なことである。イエス様を礼拝しよう。イエス様を伏し拝もう。イエス様を賛美しよう。イエス様に仕えよう。それは私たちができる行為の中で最も有意義で、理にかなったことだ。
そして、へりくだって自分を無にされたイエス様が高く上げられたという事実は、へりくだる者が高められるという主の御言葉が永遠に真実であることを示している。へりくだって仕えることは、無駄ではない、愚かではない。イエス様がそうだったように、必ずイエス様があなたを高々と上げる日が来る。

第四に、昇天はイエス様との新しい形での交わりの始まりだった。弟子たちは、イエス様が目に見えなくても、共におられるということをもう悟っていた。だから、寂しくなかった。そして、もはや時間や空間によって、その方との交わりが制限されることはなくなったのだ。昇天はイエス様との霊的な交わりを持つ時代の始まりだ。イエス様が肉体を持っておられたときにはできなかった、霊において一つとされるというレベルまでの深い交わりを体験できる。Ⅰコリント6:17。時間的にも、いつでも主は共にいてくださる。Ⅰテサロニケ5:10。布団の中、さらには夢の中すら、イエス様は一緒にいてくださる。イエス様と四六時中ともにいた弟子たちすら、このような交わりは体験したことなかった。
そして、弟子たちには新たな楽しみができた。天ではイエス様が自分たちを待っている。死はもはや恐れるどころか、天でイエス様との再会を果たすことのできる楽しみな時となった。死を、愛するイエス様と顔と顔とを合わせて会う楽しみな時として待ち望む者になろう。生きるときも、私たちを生かすために地上に来てくださったイエス様のために生きよう。

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