罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる[ルカ24:36-49]

ルカによる福音書
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イエス様の手足に触れ、イエス様と食事をし、イエス様が生きておられることを確認しましょう。

罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる[ルカ24:36-49]


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【ノート】
36節。弟子たちはここでまたイエス様の話をしていた。イエス様について話をするときとほかの人の話をすることは全く違う。イエス様について話は、そこにイエス様の臨在を伴う。イエス様が真ん中にいて、平和を与えてくださる。イエス様についての話をしよう。イエス様についての話をどんどんしよう。同じ理由から聖書を朗読することは有益だ。精神を患った人が家庭礼拝で聖書を朗読するようになったら元気になったという証を聞いた。イエス様がその家庭礼拝の真ん中にいて、平和を与えてくださったのだ。イエス様がおられるなら、そこに平和がある。もし私たちが心を騒がせていて、将来への不安を感じているなら、イエス様が共におられることを忘れているのだ。あなたの将来の中にイエス様をお迎えしよう。イエス様はいつも人生の真ん中におられなければならない。あなたの家庭にも、職場にも、人間関係にも、その真ん中にイエス様を真ん中にお迎えしよう。そうすれば、平和が与えられる。

もう一つ必要なことがある。37-43節。イエス様が「あなたがたに平和があるように」と言われたのに、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った。平和とは逆の思いにとらわれてしまった。どうしてか。実際にその目で見ても、イエス様が復活されたことを疑ったからだ。目の前に見ていても、イエス様がまだ死んでいると思ってしまっていた。不信仰が、平和を取り去ってしまう。イエス様は弟子たちに平和を与えたいので、御自分が生きていることを弟子たちが信じることができるように努力する。このように、イエス様は私たちに平和を与えたいので、御自分が生きていることを私たちが信じることができるように努力してくださる。もし信仰が私たち自身の努力によって造り上げられるものであれば、なんとも心もとないものになるだろう。救いは行いではなく信仰によるものだといったところで、信仰を持つこと自体が難関になる。しかし、すばらしいときに、私たちが信仰を持とうとするとき、イエス様が協力してくださる。イエス様の協力があればどんなことも信じられる。イエス様は、まず御自分が生きていることを信じさせるために、二つのことをされた。

第一に、御自分の手足をお見せになり、触らせた。イエス様の手には釘の跡もあっただろう。その手に触った弟子たちもいたかもしれない。あなたはイエス様の手足を見たり、触ったりしてみたいか。それは今でも可能である。それをやって、イエス様が生きていることを再確認しよう。Ⅰヨハネ1:1を見れば、イエス様を見たり触れたりすることが何と同じことであるのかがわかる。イエス様は命の御言葉であられるお方だ。私たちは、御言葉に親しむことで、イエス様を見たり触れたりするのと同じように、イエス様が生きておられることを体験できるということだ。よく見て、手で触れたものと書いてあるので、御言葉の中に入っていく、御言葉をじっくり黙想する、口ずさむ、思い巡らすのだ。そうすると、御言葉は生きているので、私たちの内側で働くようになる。ヘブライ4:12。これがまさに起こる。イエス様が生きておられることは、結局のところ、御言葉が生きていることを確認することでわかる。

第二に、御自分が生きていることを信じさせるために、イエス様は焼いた魚を食べた。食べるということは、死人にはできないこと、生きている証拠なのだ。一緒に食事をした相手が、生きているかどうか疑うことはあるまい。イエス様と食事をすればよい。そうすれば、イエス様が生きていることがよくわかる。そしてすばらしいことに、イエス様と食事をできるという最高の栄誉は、私たちに約束されている。黙示録3:19-20。
罪を犯して、あるいは世的なものを追い求めてなまぬるくなって、イエス様を心の外に追い出してしまうということがありうる。そういうときは、悔い改めて、イエス様を再度心の中心にお迎えしなければならない。そうすれば、親しい食事の交わりがイエス様とできるようになる。イエス様が生きておられるのがよくわからなくなるのは、悔い改めていない罪によって、あるいはイエス様との交わりの時間を持とうとしないことによって、イエス様との交わりが疎遠になっているからだろう。まず罪を悔い改めよう。悔い改めには少なくとも、罪を告白するということ、赦しを受け取って感謝するということ、方向転換してその罪から離れるということが含まれる。それをしよう。そして、イエス様との交わりを大事にしよう。祈ること、ディボーションをすることを大事にしよう。イエス様との交わりには何よりも優先して時間をとるだけの価値がある。優れた人物と食事をすることは、それだけで価値がある。大金持ちのウォーレン・バフェットと一緒にランチをする権利というのが、何度も競売にかけられることがあった。その度にとんでもない金額で落札された。最終回は2022年に行われたが、なんと1900万ドルで落札された。当時のレートで25億6千万円だ。イエス様と食事をすることは、それよりも価値がある。無限の価値がある。しかも、イエス様はお金をとらない。ただでできる。イエス様と一緒に食事を楽しみ、イエス様が生きていることを確認しよう。

44-45節。イエス様はやはり御自分と聖書を結び付けておられる。ここでいう聖書とは何のことか?第一義的には旧約聖書のことで、イエス様はモーセの律法と預言者の書と詩編と言われた。このことから、イエス様は現在の39巻の書物を旧約聖書とみなしておられたことが明らかだ。このように律法、預言書、詩歌というふうに3つに分類する方法は、旧約聖書を日本語聖書でいうところの創世記からマラキ書までの39巻ととらえるものなのだ。だから、外典や偽典と呼ばれるものをイエス様は旧約聖書とみなしておられない。そういうものは参考文献として読むのは良いとしても、神の御言葉としての力はないことを心得なければならない。
この旧約聖書の至るところに、イエス様について書いてある。でも、さらっと読むだけではそうとわからない。「イエス」という名前自体はほとんど出てこないからだ。秘められた形でイエス様が啓示されているのだ。これは頭が良ければわかるというものではない。旧約聖書に精通しているはずの律法学者たちはイエス様のことがわからなかった。それでは、どうすれば聖書の内容を理解することができるのか。幸い、この点もイエス様が助けてくださる。45節で「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と書いてある。ここでいう心というのは、原語のギリシャ語で「ヌース」という言葉が使われており、感情的な領域ではなく、理解、判断、分別などを意味する言葉だ。心の目を開くというのは、イエス様が聖書の啓示を正しく理解する力を私たちに与えてくださるということだ。同様に聖霊様も真理を悟らせてくださる。ヨハネ16:12-13。イエス様が目の前にいて教えても、聖霊様なしには弟子たちにはわからなかった。それであれば、私が教えても同じことだ。上手に教えればよいという問題ではない。聖書を読んだり、メッセージを聞いたりするときにはイエス様の御助け、聖霊様の御助けを求めよう。

46-48節。46節で「書いてある」とあるが、旧約聖書にイエス様が言われたまま書いてあるということではない。ここでは旧約聖書全体を通してわかることをイエス様が語っている。神様はあらかじめイエス様に関するこれらのことを、事が起こる前から計画しておられ、旧約聖書を通して語っておられたのだ。それでは、どこにメシアが苦しみを受けて、三日目に復活するという趣旨のことが書いてあるのか。
メシアの苦しみについてはイザヤ53章がわかりやすいだろう。その他に贖いを表す内容は多数ある。それでは復活は?大きく2つ挙げることができる。一つは大魚の腹の中で三日三晩過ごしたヨナが陸地にあげられることだ。イエス様御自身が十字架の死と復活のことをヨナのしるしと言われた。もう一つはアブラハムがイサクをささげることだ。アブラハムは三日の道のりをかけてモリヤの地について、そこでイサクをささげようとした。ヘブライ11:19。

47節で私たちが宣べ伝える福音の性質がわかる。それは赦しだ。赦しは原語のギリシャ語では、アフェシスという言葉が使われており、そこには赦し以外に、解放、自由という意味がある。イエス様はナザレの会堂でメッセージされたとき、イザヤ書61:1を引用して御自分のミニストリーの特徴を「捕らわれている人に解放を」告げることだと言われた。人は罪に捕らわれ、束縛されている。悔い改めてイエス様の福音を信じる者は、罪赦されて、罪から解放されて、自由になる。悔い改めは福音の恵みにあずかる手段なのだ。完全に解放されて、自由になっているか?もしそうでなければ、もっと福音の恵みにあずかろう。完全に解放されるまで、悔い改めよう。

48-49節。ここで、イエス様は証人となると言っておられる。マルコ16章では福音を宣べ伝えなさいとも言われたが、ここでは福音を宣べ伝えなさいとも、証人となりなさいとも命じられていない。ただ証人になると預言的に約束されているだけだ。私たちはイエス様の証人となる。

そして、証人となるためには高いところからの力に覆われなければならない。それまでは出て行かずに都で待たなければならない。この高いところからの力とは聖霊のバプテスマのことだ。このことから、私たちは聖霊のバプテスマを受けると、イエス様の証人となり、福音を宣べ伝えるようになるということだ。福音を宣べ伝えたから証人だとされるのではなく、聖霊様によって証人とされているので当然に福音を宣べ伝える。それはもはや命じられたかやるというものではなく、もう内側から福音を宣べ伝えたいという思いが湧き出て、聖霊様による思いに突き動かされてするものなのだ。これは抑えることができない。無理に抑えようとするとどうなるか。不幸になる。Ⅰコリント9:16。聖霊のバプテスマを受けよう。イエス様が天に昇られてからペンテコステまで、使徒たちは十日間全世界に出ていくことができず、それどころか屋上の間から出ていくことすらできず、とどまっていなければならなかった。その間使徒たちは祈っていた。待つということは時間を浪費しているように思われることもあるかもしれない。しかし、待ったことで、成人男性だけで一挙に3千人が救われるという爆発的な収穫ができた。聖霊のバプテスマなしでは100年かけてもなしえないようなことが一日でできた。聖霊のバプテスマを受けた人はもはや待たずに世界に出て行けば良いが、ある意味小さなペンテコステはいつも私たちに必要だろう。聖霊のバプテスマは一度で十分だが、聖霊様に満たされるということは毎日体験することだ。毎日高いところからの力をいただくようにするということだ。日々の生活に追われていると、時間がいくらあっても足りないとしてあたふたしてしまう。その結果生産性が著しく落ちてしまう。しかし、主にあって待つ、小休止する、祈りの中で時を過ごすと、ひたすらあたふたしているよりも何倍もの生産性を挙げることができることを体験するようになる。証人としての力を体験するようになる。毎日主の御前にとどまることを覚えて、聖霊様に満たされ続ける歩みをしよう。

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