その火が既に燃えていたらとどんなに願っていることか[ルカ12:49-59]

ルカによる福音書
スポンサーリンク

その火は罪を焼き尽くして私たちを清め、救霊の力を与える救いの火です。

その火が既に燃えていたらとどんなに願っていることか[ルカ12:49-59]

その火が既に燃えていたらとどんなに願っていることか[ルカ12:49-59]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
イエス様は御自分の再臨にいつも霊的に目覚めて備えるように言われた。再臨のときには、総決算が行われる。忠実で賢い僕には天の報いが豊かに与えられ、愚かで不忠実な僕には罰が与えられる。だから、いつイエス・キリストが来られても良いように備えていなければならない。再臨の時、イエス様は古い世界を終わらせ、すべての約束を成就し、すべての罪を裁かれる。信仰者にとっては生き生きとした希望であり、肉体が変えられて完全な救いを体験する時となる。信じない者にとっては絶望的な審判の時となる。それが再臨だ。

では、最初に来られたとき、つまりキリストの初臨の目的は何だったのか?ルカ12:49。イエス様は火を投ずるために来た。しかも、イエス様はその火がすでに燃えていたらと切望しているけれども、この時点では燃えていなかった。これはいったいどういう意味なのか?キリストの初臨の目的の中でこれが最も難しい箇所だろう。火というと、一見すると裁きのように思える。しかし、イエス様が人々を裁くことを切望しているとは考えられない。それはナンセンスだ。それではイエス様がほかの箇所で説明している初臨の目的と全く合わない。イエス様はこの箇所のほかにも、御自分が最初に来られた目的について様々な説明をされた。ザアカイの家に泊まったときは、「人の子は、失われた者を探して救うために来た」と言われた。また、山上の説教では「律法を完成するために来た」と言われた。ヨハネ10:10では「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来たと言われた。共通するのは、イエス様の初臨は私たちの救いのためだということ。となると、ルカ12:49の火を投ずるというのも、救いに関する事柄であることがわかる。

実はこの内容はバプテスマのヨハネがイエス様の使命の一つとして語られた内容だ。マタイ3:11-12。聖霊と火のバプテスマだ。聖霊と火のバプテスマこそが、イエス様が初臨のときになさった十字架の死と復活の救いの御業を全世界に広める鍵となる。聖霊のバプテスマを受けた者は、人々にイエス・キリストを伝えるための力を受けることができる。ペンテコステのとき、祈っていた120人の弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた。イエス様が天から聖霊のバプテスマを授けたのだ。それは、炎のような舌と書いてある。聖霊様の臨在は、炎のように見えるものなのだ。120人の弟子たちは異言によって他の国々の言葉で話し出した。全世界からエルサレムに巡礼に来ていたユダヤ人たちは驚いた。明らかにガリラヤの人々のはずなのに、彼らが自分たちの故郷の言葉で神を賛美しているのを聞いたからだ。当時の世界では、遠い国の言語を覚えるというのは簡単なことではなかった。にもかかわらず、聖霊のバプテスマを受けた弟子たちはすらすらと、ネイティブスピーカーのように外国語を操った。そのことに衝撃を受けたのだ。すかさず、ペトロが大胆に福音を語った。すると、成人男性だけでも3千人が悔い改めて水のバプテスマを受けた。次にペトロが神殿で生まれつき足の不自由な人を癒した後、それに驚いた人々に対して説教すると成人男性だけで5千人が救われた。改宗するというのは誰にとっても簡単に決断できることではない。人生をかけた決断になる。特に、ユダヤ人にとっては何を信じるかは人生のすべてだった。だから、武力によるのでも権力によるのでもないのに、大勢のユダヤ人が一気に改宗するというのは、人間の作った宗教では有り得ないことだ。しかも、クリスチャニティーは今までいつもリバイバルによって、つまり爆発的な勢いで大勢の人々が一気に救われることによって広まっていった。たとえば、イギリスのウェールズのリバイバルのとき、1904年10月30日からの5か月間でウェールズの10万人が救われ、ヨーロッパ全土に飛び火し、2年間で約200万人がイエス・キリストを救い主として受け入れた。これはただ聖霊様だけがなせる御業だ。聖霊様の働きによってことを行うというのは、神様の変わらないポリシーだ。ゼカリヤ4:6-7。山を平にするように、大勢の人々を一挙に神様の御前にへりくだらせ、「イエス・キリストは主である」と告白するに至らせるのだ。
神様が大宣教命令を成就させるのに長い時間は必要ない。聖霊様の火が燃え上がれば、何百年かけて伝道できないような人数がほんの数年で救いに導かれる。数えきれない人々が地獄から天国に移る。人々はこの地で聖霊様の炎に燃やされて天国の住民となるか、地獄の炎で苦しむことになるのかどちらかなのだ。聖霊様の炎は地獄の火を消し、燃え広がり続けて、地域を変え、国を変え、世界を変えるものとなりうる。

イエス様は聖霊様の炎が燃え上がり、大勢の人々が救われることを望んでおられる。その火がすでに燃えていたらとどんなに願っていることかと言われる。あなたは聖霊の火が燃えていることを願っているか?自分の内に聖霊の火がメラメラと燃えていて、それが全世界に燃え上がることを望んでいるか?イエス様の御心を心としているか?もし、私たちがそのことを真剣に望み、祈り求めるならその通りになる。まだそうなっていないのは、全き心で神様に火を投じていただくことを求める人が誰もいないからだ。多くの人々がイエス様と違って他人の救いに無関心だ。自分の隣の人が救われなくても、地獄の苦しみに遭うことになっても、大したことはないと思っている。私もみなさんも例外ではないだろう。悔い改めて、イエス様のように、聖霊様の火が燃え上がることを熱望する者となろう。
それでこそ、イエス様の再臨に待ち望むにふさわしい備えをしたことになる。周りの人々がみんな地獄に落ちようとしているのに、「主よ、はやく来てください。この人たちはみんな滅びても良いので、私だけ携挙してください」と願うことは全く御心に適わない。聖霊様の火が燃え上がり、救われる人々の数が満ち、主が大宣教命令の成就したとお認めになるときに終わりが来るのだ。

50節。イエス様は天に昇られて教会に聖霊のバプテスマを授ける前に経験しなければならない別のバプテスマがあった。ここでいうバプテスマはイエス様の十字架の死のことだ。別の箇所でもイエス様は御自分の受難をバプテスマと呼んでいる。マルコ10:38。バプテスマとは浸すということだ。十字架は、イエス様が苦しみですっかり浸されるバプテスマだ。イエス様は十字架で死なれるまで、散々に苦しめられた。裏切られ、殴られ、唾を吐きかけられ、濡れ衣を着せられ、鞭打たれ、イバラの冠をかぶせられ、罵倒され、重い十字架を背負わされ、十字架にくぎ付けにされ、血を流され、罪に定められ、神から断絶された。そして、十字架で息を引き取られるときに、その苦しみは頂点に達した。このイエス様の苦しみのバプテスマは、私たちが受けるべきすべての呪い、すべての痛み、すべての罰を肩代わりするものだ。この貴いバプテスマによってイエス様は私たちを救ってくださった。

イエス様の十字架によって人々が罪から救われるようになり、聖霊様の火によって、救いの御業が急速に広まるようになる。そうすればどうなるのか?世界平和が実現するのか?そうではない。二つの世界の間での戦いが頻発するようになる。51-53節。イエス様は平和の君ではないのか?平和の君だ。ここで乱される平和とはかりそめの平和だ。すべての人々が悪魔の支配下にあるときは、全員が同じ所属なので、ある意味かりそめの平和を維持することができる。エレミヤ書に書いてあるように、人々は罪を犯して神に背き続け、平和がないのに「平和、平和」という。イエス様がもたらすまことの平和とは罪が取り除かれて、神様との関係を回復することによって人々の内に実現するものだ。イエス様を知らずして平和はありえないのだ。イエス様の到来は、かりそめの平和をおびやかす。悪魔の国の中に神の国の侵入をもたらすことになる。全員が悪魔サイドだったのが人々は神に属する者と悪魔に属する者に真っ二つにわかれる。信仰はごく個人的なものなので、同じ家族の中ですら神の国に属する者と悪魔の国に属する者にわかれることになる。クリスチャンになると、最も親しい関係の人々が自分に牙を向き、迫害してくることがある。ある兄弟は大学生の時にイエス様を信じたが、家を追い出され、学費の支払いも停止されたので、しばらくほかの兄弟の家で寝泊まりし、必死にアルバイトをして生活費と学費を払った。日本ではそのくらいのものだが、海外では命をとられるほどの迫害もありうる。
人々が迫害してくるのはクリスチャンが悪いことをするからではない。クリスチャンが良いことをしても、人々が悪魔に属していて神に属する者を憎むから、ある意味さしたる理由もなしに迫害してくるのだ。
そういうとき、クリスチャンはどうすれば良いのか?まず、私たちの主人はキリストなのだから、どんな人間関係よりもキリストへの愛と忠誠を最優先しなければならない。それと同時に、私たちの戦いの相手は血肉の相手ではなく、悪霊どもだ。人々に対しては、迫害されたとしても、忍耐強く愛を実践し、福音を伝えることで、信仰に導くことは可能だ。善によって悪に打ち勝つのだ。
分裂は、平和の君であるイエス様が再臨するまで続く。再臨後、イエス様は神に背く勢力を一掃し、全人類の王として君臨し、真の意味での世界平和を打ち立てられる。それが千年王国だ。

今度は、イエス様は群衆全体に語られる。54-57節。ユダヤ人は天気を当てるのが上手だった。西に、つまり地中海の上空に積雲があれば、雨になることを知っていた。また、砂漠から南風が吹くと熱風が来ることを知っていた。科学的な知識があり、かなり正確に天気予報をすることができたのだ。天候の変化についての兆しをとらえて未来を予測する能力を持っていたのだ。しかし、彼らはそういう能力を持っていながら、天候の兆しを見分けるというつまらないことに終始していて、神様が与えておられたしるしという、もっと重大なことを見分けようとしなかった。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様を神から遣わされた人と認めていなかったので、群衆たちは彼ら指導者の言いなりになり、自分ではイエス様が何者なのか考えようとしなかった。イエス様が目の前で神の国の教えを説き、奇跡を行っても、それらのしるしを全部見逃して、神が何をなさろうとしておられるのかが全くわからなかったのだ。現代人はもっと鈍感だろう。現代人も知識はある。現代人は歴史においても、あらゆる学問においても、今までの歴史上で最も多くの知識を持っている。しかし、それらは与えられた知識に過ぎず、重要なことについて自分の頭で考えようとする人々は少ない。知識は多くても知恵がないのだ。学校で教えられたことやテレビやインターネットで見聞きしたことを頭に詰めているに過ぎない。私がフィリピンに行ったとき、フィリピン人の友人から「フィリピン人は天気予報を見ない。予報を見なくても天気がどうなるかくらいは何となく予想できる」と言った。昔のユダヤ人のような能力があるということだ。与えられた知識で流されてしまっていないか?天気くらいならつまらないことなので良いだろう。しかし、イエス様はどなたなのか、何が真理であるのかということについて、本気で知ろうとしているか?本気であれば、自分で聖書を開いて読むだろう。その意味を悟ろうとするだろう。読まないということは自分で真剣に考えようとしていないということだ。真剣に真理を求めた人だけが悟り、救われることができる。さらには、聖霊様による交わりを深め、神が自分や自分の周りでなさろうとしていることについて、しるしを見分けられるように努めよう。そうすれば、神の救いの計画の中心で用いられるようになる。

58-59節。イエス様を正しく信じていない群衆たちに語られたことだ。だから、ここから、イエス様を信じていない人がどういう状態にあるのかがわかる。救われていない人は被告人だ。被告人は非常に不利な状態にある。訴状にある内容はすべて事実であり、裁判官は一つも見逃すことなく正しく裁き、ふさわしい刑罰を与えるに違いないからだ。レプトンとは、貨幣の中で最も価値の低いものだ。1デナリオンの128分の1にあたる。1デナリオンは一日の労働の賃金だ。仮に1万円だとすれば約78円だ。つまり、救われていない人というのは、神の御前で、最も小さな罪に至るまで罰を受けることになるということだ。神の御前では誰であれ、圧倒的に不利な裁判となる。裁きの時が来る前に、時のあるうちに、神と和解しなければならない。イエス様はそのために来られた。神と和解しようとすれば、イエス様が仲介者として執り成してくださる。あなたはすでに神と和解したか?あなたに対する訴状はもう撤回されているか?もしまだそうでないなら、イエス様を罪からの救い主として心から信じよう。そうすれば、あなたは神と和解することができる。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました