それはもう決めておられて、変えてはならないことだったのです!
ザアカイ、今日はぜひあなたの家に泊まりたい[ルカ19:1-10]
YouTubeのチャンネル登録はこちらから!
【ノート】
1-2節。エリコは重要な町だ。エルサレムの入口であり、ヨルダン川の東部に抜ける拠点でもあった。エリコにはなつめやしの大きな森とバルサムの林があり、バルサムの香りが周囲にただよっていた。人々はエリコをなつめやしの町と呼んだ。なつめやし農場はあのクレオパトラが一時期所有し、オクタヴィアヌスが勝利した後にヘロデ大王のものとなった。ヘロデ大王はエリコに冬の宮殿を築いて一大都市とした。ユダヤ地方がローマ人の直轄地となった後も、エリコのなつめやしとバルサムは世界の市場に送り出された。そういうわけで、当時のエリコはイスラエルでも有数の課税地となっていた。
そのエリコにザアカイがいた。ザアカイという名前の意味は正しい者、清い人という意味だ。しかし、彼ほど名前と生き方が全然違った人物もいなかった。ザアカイは徴税人の頭だった。つまり、彼はイスラエルの徴税人の中でトップにまで上り詰めた人物だった。徴税人といえば、ローマの権力を笠に着て同胞のユダヤ人から税金を巻き上げていた人々だ。彼らは一定額だけローマに納めたら、後は全部自分のものにして良かった。それで、熱心に人々からお金を巻き上げ、規定以外のものまでもだまし取り、私腹を肥やしていた。ザアカイはその中のトップなのだから、大金持ちだった。徴税人は志願制だ。ザアカイは自ら選んで、名誉を捨ててでもお金を稼ぐ道を選び、熱心に働いた結果、この道の頂点に君臨するまでになった。
しかし、行き着くところまでいったけど、ザアカイには平安がなかった。満足がなかった。ザアカイはどこに行っても人から避けられ、軽蔑された。神もこんな自分を受け入れることはありえず、罪人として断罪するに違いないと思われた。お金がいくらあっても真実な愛を買うことはできない。そして、真実な愛しか人を満たすことはできない。私たちはどうか?もっとたくさんのお金、優れた能力、上等な物、高い役職を手に入れれば、それできっと満たされる、幸せになれると思っているところはないか?お金、力、物、役職、そういうものは麻薬のように私たちを魅了してしまうところがある。一度求めていたものを得られるとちょっとした快感を感じる。すると、もう一度快感を求めて、もっと多くのもの、上等なものを得たいという欲が刺激されて、熱心にさせられてしまう。はまってしまう。最近のゲームはみんなそうだ。より高いレベルにアップして、より強い装備やスキルを身に着けて、より難しいステージを攻略してというのを続ける。ずっとひたすら続ける。そこにはただ欲の刺激があるだけで、目的も意味も全くない。ただの繰り返しだ。だから、たいていは時間の無駄だと気づいて途中でやめる。しかし、人生全体がそんな時間の無駄の詰め合わせだとしたらなんとむなしいことか。それはもう欲に刺激されて動くだけの動物のようなものだ。それは自由に生きているようで、実は欲望の奴隷なっている。縛られてしまっている。だから、やめようとしてもやめられない。私たちはそこまで行く前に気づこう。もし欲に引き回されるだけの生き方をしていたら、その罪を告白して神にゆるしを求めよう。主に解放していただこう。私たちが真剣に解放されることを求めるなら、主は本当に解放してくださり、私たちを自由にしてくださる。私たちはどれだけのものを獲得できるかという空しいゲームに人生を費やすのではなく、神と人とを愛することに人生を燃やしていこう。愛のためならすべてを犠牲にしても空しくない。愛に燃えるためにはまず神の無限の愛を知らなければならない。
3-4節。ザアカイは前からイエス様のことを話に聞いていた。イエス様はすばらしい教えと説き、奇跡を行う神の人でありながら、自分のような徴税人と一緒に食事をする。しかも、主要な弟子の一人は元徴税人だという。イエス様ならあるいは自分のような者をも受け入れてくださるかもしれない。イエス様にどうしても会ってみたいと思った。
その証拠に、3節の「見ようとした」では、原語ではゼーテオーという言葉が使われている。これは、熱心に見出そうとするという意味のある言葉だ。ザアカイは興味本位の野次馬根性でイエス様を見ようとしたのではなく、どうしても見よう、絶対に見ようという熱心な求道心を持ってイエス様を求めていたのだ。
しかし、そんなザアカイの視界をさえぎってしまうものがあった。群衆の壁が目の前に立ちはだかっていた。ザアカイは背が低かったので、イエス様の周りにいる群衆にすっぽり隠れて、イエス様が全く見えなかった。時に、求道者がイエス様を見ようとする上で、イエス様を取り囲んでいる人、つまりクリスチャンが妨げとなってしまうことがある。別にそのクリスチャンたちが故意に求道を妨害しようとしているわけではないだろう。しかし、人間を見てしまうと、イエス様が見えなくなってしまうことがある。多くの人がクリスチャンであっても、イエス様を現すには不完全だからだ。クリスチャンの不信仰な発言、愛のない冷酷な言動、怒ったり、人を見下したり、ひねくれたり、自己主張ばかりしたり、わがまま勝手にふるまったりするのを見て、求道者はつまずいてしまう。イエス様が全く見えなくなってしまう。では、どうすればよいのか?求道者に「私を見ないで、イエス様を見てください」というか?それは卑怯者だ。私たちはそうであってはならない。クリスチャンとは、本来、キリストと連合された者なのだから、その人を通してイエス様がありありと見えるようでなければならない。たとえ至らないところがあるとしても、私たちはキリストにある満ちあふれる豊かさ、喜びと平和、塩味の利いた言葉、確信に満ちた態度、深い憐れみの心などを通して、キリストを示すのだ。人々が私たちを見るとき、私たちが見えなくなり、キリストが見えるようになるようにしよう。
ザアカイは人を見てつまずくことはなかった。立ちはだかる人の壁があっても、人々を恨むことはなかった。背が低いというどうしようもできない特徴を持っていても、ぶつぶつつぶやくことがなかった。困難な状況や能力の足りなさを言い訳としてあきらめることがなかった。彼はいちじく桑の木に登ってイエス様を見た。あの徴税人の頭として威張り散らしていたザアカイが、いちじく桑の木に登った。彼はプライドを捨てて、とにかくイエス様を見ようとしたのだ。ここにザアカイの信仰を見出すことができる。イエス様に対する信仰があれば、その人は障害を乗り越え、能力の足りなさを乗り越え、プライドの問題を乗り越えることができる。私たちは、主への信仰に基づいて何かに取り組むのなら、それが伝道であれ、奉仕であれ、仕事であれ、ちょっとやそっとのことで投げ出してはならない。泥臭くていい。恥ずかしくていい。失敗したっていい。信仰を発揮して、貫くものとなろう。
ザアカイはいちじく桑の上からイエス様を見ることができた。それだけではない。イエス様とザアカイは目があった。イエス様はザアカイに注目された。5節。まずイエス様は「ザアカイ」と名指しで呼ばれた。どうして名前を知っているのか?初対面のはずではないのか?もちろん初対面だ。しかし、イエス様は私たち一人一人の名前を知っておられるし、私たち一人一人のすべてを知っておられる。しかも、天地創造の前から知っておられる。そして、私たちを各々の名前で呼んでくださる。個性ある一人の人間として人格的にイエス様は私たちを扱ってくださる。
ザアカイは、それまでほとんどの人が名前で呼んでくれなかっただろう。誰も彼のことを正しい者、清い人なんて呼びたくなかっただろうから。しかし、イエス様は、ザアカイが徴税人の頭であるということもよく知っていながら、名前で呼ばれた。この一言だけで、あのイエス様が全面的に自分を受け入れてくださったという深い感動が与えられただろう。
そして、イエス様はその後に不思議なことを言っておられる。「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われた。ここでの「ぜひ」という言葉は、原語のギリシャ語ではデイという言葉が使われているが、これは「何々する必要がある」「する義務がある」「することは避けられない」「することが適切である」といった意味のある言葉だ。それはもう決められていて、変えてはならないことなのだ。デイは、イエス様がヨハネによる福音書4:4でユダヤからガリラヤに行くとき、「サマリアを通らねばならなかった」という箇所でも使われている。なぜサマリアを通らねばならなかったのか?ヤコブの井戸に水を汲みに来るサマリアの女の救いのためだ。サマリアの女はイエス様を信じて、イエス様のことを町中に証ししたので、町中の人々が皆イエス様を信じるようになった。ザアカイの家に泊まらなければならなかったのも、ザアカイの救いのためだ。神は一人一人の救いをあらかじめ定めておられる。天地創造の前から定めておられる。神の完璧な計画によって歴史は導かれ、時が来て人々は伝道され、イエス様を信じるようになるのだ。神はそこまで私たちを愛して、私たちの救いにこだわっておられる。
6-7節。ザアカイはイエス様を即座に迎えた。しかし、イエス様にとっては自分の評判を損ねる結果となった。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」人間は、関わる人と同類になると考える。だから、多くの人は自分よりも身分の低い人と思われる人とは、まともに関わろうとしない。あごで使うことはあっても、一緒に歓談したり、食事をしたり、同じ場所で寝泊まりしたりは絶対にしない。同類になりたくないからだ。上流階級を自認する人は、下々の身分の人と仲良くすることはありえないということだ。しかし、イエス様は、この方以上に高貴な方はいないのに、汚れた人間と関わることを恥とはしなかった。考えてみれば、イエス様は御自分の評判を損ねることばかりなさる。神に等しい身分のお方が、人間になるというのは評判が地に落ちることだ。十字架にかかって死ぬことは地の底まで、陰府にまで評判が落ちることだ。それを覚悟なさったイエス様だから、私たちの友達になることでどんなに評判が落ちようとも少しも気にされない。イエス様は神でありながら、王の王でありながら、私やあなたの友人であることを全然恥と思わない。それどころか、主は御自分を受け入れる者の心の中に入ってくださる。さらに、心の内に住んでくださり、ずっと一緒にいてくださる。主がザアカイの家に泊まるというのは、イエス様の内住を象徴しているだろう。ローマ12:16。今の時代、感謝なことに身分の差などというものは法律上はないが、人はそれでもお金があるかないか、知識があるかないか、能力があるかないか、きらびやかな経歴があるかないかを指標とした階級分けをしたがる。私たちは、主が分け隔てなく人と接したように、あらゆる人々と友情を築ける者となろう。
8節。イエス様がザアカイに悔い改めを求めたという記述は全くない。山上の説教を語られたとも書いていない。ザアカイには、イエス様を自分の家にお迎えすることができただけで十分だった。イエス様が共にいる!変わらずにはいられない!悔い改めずにはいられない。イエス様と親密な交わりがあるのに、それまでと全く同じ歩みなんてできない。それで、主から何か言われる前に、ザアカイの方から進んで悔い改めを表明した。
しかも、それまでせっせとかき集めた財産の半分を貧しい人にほどこす。しかも、だまし取っていたものを4倍にして返す。律法で要求されているのは、盗みには2倍の償いをするということだ。ザアカイは律法が要求するさらに倍も返すと宣言している。義務をはるかに超えた償いだ。ここにザアカイの真実な悔い改めを見ることができる。今までお金を目的とし、お金に縛られてきたのに、お金から自由になった。イエス様が共におられるから、もうお金を握っている必要がないのだ!
あなたはまだ解放されていない領域はあるか?それであればザアカイのように、イエス様から自由にしていただこう。自由を体験するまで、主に解放を祈り求めよう。
9-10節。イエス様はザアカイの救いを宣言した。この人もアブラハムの子なのだからと。ザアカイはユダヤ人だからもともとアブラハムの子孫だ。それでは、救われるのはアブラハムの子孫だけで、アブラハムの子孫であればみんな救われるということか?いや、そうではない。これは、ザアカイがその悔い改めによって信仰を表したので、それを見て、霊的にアブラハムの子孫だとイエス様がお認めなったということだ。ローマの信徒への手紙4章では、アブラハムの信仰に従う者はアブラハムの霊的な子孫だということが書いてある。つまり、そこにはアブラハムと同じ信仰を持つすべての人、すべてのクリスチャンも含まれるのだ。
最後に、イエス様は御自分が来られた目的の一つを明らかにされる。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」人の子はイエス様のこと。失われた者とは、原語では、破壊された者、死んだ者、地獄での永遠に苦しみに遭う者といった意味の言葉が使われている。ザアカイも、生まれながらのすべての人も、そのようなものだ。破壊された者、死んだ者なんておよそ手の施しようがないように聞こえる。しかし、イエス様はそんなものでも完全に救ってくださる。そして、イエス様は失われた者の救いを熱心に求めておられる。「捜して」という言葉も、原語のギリシャ語ではゼテーオーだ。ザアカイがイエス様を見ようとしたのと同じ言葉が使われている。ザアカイの回心の背後には、神と人、双方の熱心さがあった。つまりイエス様が失われた者を熱心に探し求め、失われた者がイエス様を熱心に探し求める。二つの熱心な探究が衝突する結果、失われた者の完全な救いが起こるのだ。
イエス様はいつも失われた者を熱心に捜しておられる。二千年前は直接、今は私たちを通して捜される。私たちも熱心に捜そう。私たちもイエス様の御心を心として失われた者を捜して救うべくアクションを起こそう。私たちが伝道していない人はまだ無数にいる。職場の人、家族、友人、彼らの救いには私たちにも責任のいったんがある。私たちができるアクションも無数にある。トラクトを配るのでもいいし、ポスティングするのでもいいし、SNSで発信するのでもいいし、教会に誘うのでもいい。一緒に路傍伝道することもできる。伝道しよう!
【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。
Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。
Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita
Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ
Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita
コメント