ルカにしか書けないことがありました。
すべてのことを初めから詳しく調べています[ルカ1:1-25]
【ノート】
ルカによる福音書はルカが書いた福音書。誰もこのことを疑う人はいない。当時は有名人の名前を文書のタイトルにつけることで権威づけることはよく行われていたが、ルカは無名の人だった。十二弟子の一人ではなく、使徒や預言者でもなく、ユダヤ人ですらない。ルカ本人が書いたのでなければ、あえてルカの名前をタイトルにつけようとする人はいない。
1-2節。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、イエス様の救い主キリストとしての公生涯に関することだ。「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」とは、イエス様に直接つき従った十二人の使徒をはじめとする弟子たちのことだ。使徒たちを通して語られた言葉はすでに文書化されて、教会で用いられていた。まとまった文書としては、おそらくペトロから教えられたことをマルコが書いたマルコによる福音書はすでに存在しただろう。ルカとしてもイエス様についての文書を書く最初の人物となるのは気が重いだろう。すでに多くの先人たちの働きがあったということは、そのうちの一人に仲間入りしやすかっただろう。しかし、多くの文書がもうあったなら、あえてルカが何かを書く必要があったのか?多くの文書が存在してはいたが、ルカはそれに満足してはいなかった。ルカにしか書けないことがあった。
ルカは聖書の著者の中で唯一の異邦人だ。ルカはギリシア人の医者だ。パウロの宣教旅行に途中からずっと同行している。おそらく医療面でパウロをサポートしていたのだろう。パウロ書簡ではルカの名前が3回登場している。ルカは多くの情報を得る機会に恵まれていた。パウロの宣教を通して働く神の力を目の当たりにすることができたし、パウロの人脈を頼りに初代教会のイエス様と会ったことがある人々から直接話を聞くこともできた。そうやって得た経験や情報をもとに、ルカによる福音書を第一巻として書き上げ、使徒言行録を第二巻として書き上げた。ルカは高い教養の持ち主で古典ギリシア語を使いこなしている。ルカによる福音書の冒頭の1:1-4でわかる。ここでは格式の高いギリシア語が使われていて、信頼度の高い歴史書や伝記と似た形式だ。また、3-4節でルカはこの部分で詳しく調べた確実な内容を伝えようとしていることを書いている。3-4節。ルカは十分な調査を実施したので、ほかの文書とは別の観点で、最高の文書を書くことに自信を持っていた。ルカのこの調査は信頼できる。ルカの歴史家としての緻密さは考古学が証明している。ルカが書いた二巻には32カ国、54都市、9つの島が出てくるが、全部正確に記載されており、一つの間違いも見つけられない。聖書には確実な歴史的事実が書いてあるのだ。
ルカによる福音書はいつごろ書かれたのか。第二巻の使徒言行録にはローマ大火のことが書いていないため、使徒言行録が書かれたのはローマ大火より前の紀元63年ごろ、ルカによる福音書はそれより前に書かれたことになる。パウロがカイサリアで投獄されていた二年間の間に書いたのかもしれない。
4つの福音書はそれぞれ別の観点でのイエス・キリストを書いている。それは黙示録4:7に出てくる4つのケルビムに対応している。マタイは百獣の王の獅子で、主に王であるイエス・キリストを書いている。マルコは畑を耕す牛で、僕として人々に仕えるイエス・キリストを書いている。ヨハネは天の支配者である鷲で、神としてのイエス・キリストを書いている。ルカによる福音書の特徴は、主に人間であるイエス・キリストを書いていることだ。それで、ルカによる福音書が最もイエス・キリストが祈ることや、祈りについての教えが出てくる。神に祈りをささげるというのは、人間としての性質が最もよく表れる行動だ。
ルカによる福音書は3節に出てくるテオフィロに献呈したもの。もちろんテオフィロ個人のためだけというよりほかの文書がみなそうであるように教会で広く読まれることを意図して書かれている。
テオフィロにはローマの高官にあたる敬称が使われている。異邦人だ。異邦人が異邦人に献呈したものなので、当然ルカによる福音書は異邦人向けだ。つまり、私たち向けだということ。旧約聖書の予備知識がなくても内容をつかむことができる。そして、ルカによる福音書は異邦人の救いという点に重点を置いていて、福音はすべての人のためのものだということを強調している。
ルカによる福音書は4つの福音書の中で最も長い。ルカが調査したほかの文書や福音書に欠けている情報を盛り込むためには、多くの分量を割かなければならなかった。マタイ、マルコと並んで多くの類似した内容を含む共観福音書と呼ばれている。それでいてルカによる福音書はマルコのコピー&ペーストではなく、ルカにしか書けなかった内容がたくさんあるのだ。
特に始めの2章は全部ルカにしか見出すことができない内容だ。ルカはマリアに直接インタビューして書いたのかもしれない。5-25節はバプテスマのヨハネの誕生の予告。神殿での出来事。ルカによる福音書は神殿から始まり、神殿で終わっている。神が人類と交わりを持たれる主要な場所としての神殿の重要性を示している。神殿は、イエス様が予告された通り紀元70年のエルサレム陥落で崩壊したので、それ以降は聖霊が宿る神殿である信徒の体がエルサレム神殿に取って代わる。私たちはこの体で神と交わりを持つことができる。
バプテスマのヨハネの両親がどういう人たちだったのかが5-7節でわかる。ザカリアはアビヤ組の祭司とある。祭司はダビデによって24組にわけられて、分担して奉仕にあたった。バビロン捕囚からの帰還後、祭司の組は4組に減っていたが、その後再び24組に戻った。アビヤ組は歴代誌上24:10によると第8組にあたる。祭司は、結婚相手を純粋なイスラエル人の血をひいたおとめに限定されていた。特に同じアロン家の娘と結婚することが推奨されていた。ザカリアはその通りに、アロン家の娘のエリザベトと結婚した。夫婦は2人とも旧約聖書の律法を徹底的に守る人たちだった。しかし、常に2人の心を曇らせることとしては、二人とももう年をとっているのに、エリザベトは不妊の女性で、子供ができなかったということだ。ユダヤ人のラビたちは神から見捨てられた例として、子供ができないことをあげていた。子供がいないことは離婚の正当な理由にもなった。それでも、ザカリアとエリザベトは長い間一緒に寄り添い、神に従って生きていたのだ。私たちは神が良くしてくれたら従うというふうに、神に従うことに条件をつけてはならない。神はすでによくしてくださっている。独り子イエス・キリストを与えてくださるほど私たちを愛しておられる。それ以上の条件をつけるのは欲張りだ。
8-9節。当時祭司は2万人以上もいた。三大祭りの過越祭、ペンテコステ、仮庵祭では全員で奉仕にあたったが、そのほかには年に2度、各組に一週間のつとめが割り当てられていた。そして、その1週間の奉仕の分担は香をたくことも含めて、すべてについてくじによって割り当てられた。一度くじにあたった人は除外されるので、一生に一度しか奉仕の機会はない。1組あたり千人近くいたので、一生に一度でも香をたく奉仕にあずかるということは望み薄だった。しかし、その日のくじはザカリアに落ちた。その日はザカリアにとって生涯最高の日だった。この奉仕ができるということはクリスチャンとして最高に誉れあることだ!私たちもそういう心で奉仕にあたることができればすばらしい。
10-12節は天使の出現。香壇は神殿の器具の中で最も高い位置にあり、神への祈りを象徴する。香をたくとき大勢の民衆が祈っていた。別に大きな祭りの日ではない。ごく普通の平日の光景だ。つまり、大勢の民衆の祈りは毎日毎日エルサレム神殿でささげられていたのだ。そこには救い主メシアの到来を求める祈りが含まれていただろう。主はその祈りを聞いてくださってその神殿で香をたいているときに天使を遣わした。そして、まずはメシアの先駆者の到来を告げた。もし日本のクリスチャンたちが毎日日本のリバイバル、大勢の日本人が救われることを求めて祈るなら、同じように主はその祈りを聞いてくださるだろう。天使が現れたとき、ザカリアは「ハレルヤ!」と主を賛美して喜びはしなかった。後でそうしたが、ここでは恐怖の念に襲われている。
ザカリアは神に従っている人だったが、それでも主の臨在に触れると罪人の反応として恐れを抱くことになるのだ。そんなザカリアに対して、天使は安心させようとしていう。
13-14節。天使は「あなたの願いは聞き入れられた」と言っている。ザカリアは子供を求めて主に祈ったのだ。ザカリアは18節で「わたしはもう老人ですし」と言ってとまどっているところからすると、最近祈ったのではなく、もっと若いころに祈ったに違いない。しかし、祈りの答えはなく、年齢を重ねるうちにいつしかザカリアは子供を得ることをあきらめ、それでも腐ることなく、神に従って生きていくことにした。自分が祈ったことすら忘れていた。しかし、神はザカリアの若いときにささげた祈りを覚えておられた。ザカリアは「主は覚えておられる」という意味。私たち自身が忘れてしまった自分の願いすら主は覚えておられる。生まれてくる子供をヨハネと名付けなさいと指定されている。ヨハネは「主は恵み」という意味。ヨハネの誕生はザカリア夫妻だけでなくイスラエル全体にとって恵みとなるからだ。
15-17節。ヨハネの使命について多くのことがわかる。彼は生まれる前から主の御前に偉大な人となることが決まっていた。神の主権的な選びを見ることができる。ぶどう酒や強い酒を飲まないというのは、ナジル人の誓願に含まれるもの。つまり、生まれる前から献身者として神に人生を献げる者だったのだ。ヨハネは母の胎にいるときから聖霊に満たされていた。母の胎にいたら、まだ何も良いことを行うことはできない。このことから聖霊の満たしというのは、私たちの行いに依存するものではなく、恵みによるものなのだということがわかる。私たちに多くの足りない点があったとしても、求めるなら、神は聖霊様で満たしてくださる。その必要があれば、聖霊様で満たしてくださる。では、聖霊の満たしは何のために与えられるのか?多くの人を主のもとに立ち帰らせるためだ。人々の救いのためだ。そのために聖霊の満たしを求める者となろう。17節はマラキ書の預言の成就の予告。マラキ3:23-24。このことから、ヨハネがメシアの先駆者として遣わされるエリアであることがはっきりとわかる。預言者エリヤは奇跡を行って、バアルの預言者たちを倒した。ヨハネは奇跡を行わなかったが、人々を悔い改めさせる力によってエリヤ以上の働きをした。「準備ができた民を主のために用意する」と書いてあるが、メシアを迎えるにあたって最も必要な準備は悔い改めなのだ。
18-20節。ザカリアは神に従う人だったが、思わず不信仰な言葉が出てきた。今までの自分の人生経験や常識では考えられないことをすんなりと受け入れられないというのが人間の弱さだ。ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と言っている。しるしを求めている。何によって知ることができるか?御言葉だ。ガブリエルが語った御言葉によって知ることができる。ガブリエルはザカリアがしるしを求めたことについて、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」ことを問題としている。それで十分だ。神は御言葉だけで信じることを望んでおられる。御言葉で満足する私たちになろう。しかし、こういう信仰が不完全で、弱さを持つ人間をも神は用いるというところに慰めを見出すことができる。ガブリエルはザカリアにしばらく口が利けなくなるというちょっとしたペナルティーを与えたが、地獄で滅ぼすというような厳罰ではない。それでザカリアはそれ以上不信仰な言葉を語ることができなくなった。口が利けないことは、ザカリア自身と民たちに対してはザカリアが求めた通りにしるしとなった。21-22節。そして、次に口を開くときには神への賛美がほとばしるようになる。神は人間の弱さをご存知で憐れんでくださる。
23-25節。妊娠5か月で安定期に入る。そこでエリザベトは神が子供を与えてくださるのだという確信が与えられた。そこで神に感謝をささげた。主はいつも御自分の民に目をとめていてくださる。特に御自分に忠実に従う者が恥にまみれたままにはなさらず、名誉を回復してくださる。
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