子ろばに乗る王[ルカ19:28-44]

ルカによる福音書
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イエス様は謙遜な王です。へりくだり、血を流すことによって勝利を得られます。

子ろばに乗る王[ルカ19:28-44]

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【ノート】
28節。エルサレムに上ったと書いてある。エリコからエルサレムに上った。エリコは海抜マイナス400mくらいで、エルサレムは海抜700mの高地だ。この道は30km足らずで1100mも登らなければならない。かなり急勾配な山登りをイエス様一向はしなければならなかった。この険しい道のりでも、イエス様はやはり一向の先頭に立ってずんずん進んで行かれた。私たちの人生の最も険しい道のりにおいても、私たちは1人ではない。私たちは目を上げて、イエス様が先に進んでおられるのを見よう。

29-35節。ベタニアとベトファゲはどちらもエルサレムの東側のほんの数キロしか離れていない距離にある村。そこでイエス様はエルサレムに入城するにあたって準備をされた。御自分が何者であるのか、人々にはっきりと示すことにされたのだ。イエス様はまだ誰も乗ったことのない子ろばに乗ってエルサレムに入城することにされた。これは、ゼカリヤ書9:9の預言の成就のためだ。子ろばに乗ることにしたのは、御自分が旧約聖書に預言されている通りのメシアであることを示すためだ。エルサレムに入城するにあたって、公に、旧約聖書の預言に精通している人であれば誰にでもわかる方法で御自分がユダヤ人の王、メシアであることをはっきりと示された。
しかも、この預言を通して、御自分がどのようなメシアであるかも示している。まず、「神に従い、勝利を与えられた者。」と書いてある。しかし、その勝利を得る方法が独特だ。「高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」と書いてある。ろばに乗る王というのは確かに普通ではない。イスラエルでは、まだあまり馬が流通していなかったころは、王侯貴族も庶民もみんなろばに乗ることが一般的だった。しかし、ソロモンが馬をエジプトから輸入して以来、王族や貴族がろばに乗ることは全くなくなった。ろばは確かに力が強い。たくさんの荷物を運べる。しかし、人が乗るなら、明らかに馬の方がかっこよいし、足が速い。また、イスラエルの王は戦いで勝利を得るために立てられた。戦場でろばが使われることは絶対にないが、戦場では馬の機動力が勝敗をわけることも多い。そういうわけで、かっこよく馬に乗った王は、戦争で武力によって敵を屈服させ、勝利を得ることを象徴している。
それなのに、イエス様は子ろばに乗られた。しかもまだ誰も人を乗せたことのない借り物の子ろばだ。人を乗せるにはまだ小さくておぼつかない。人を乗せ慣れていない。十分に訓練されていない。乗り心地は期待できない。そんなろばに乗られた。これは今でいえばどういうことか?天皇皇后が乗る自動車は普通「トヨタ・センチュリー」と「トヨタ・センチュリーロイヤル」だ。黒塗りのかっこよい車だ。それなのに、なぜか天皇皇后がレンタカーの原付に乗るようなものだ。これではかっこがつかない!なぜ子ろばなのか?これは、イエス様が謙遜な王であること、血肉の戦いによらず勝利を得ることを象徴する。イエス様は謙遜な王だ。貧しい家庭で育ち、大工として働いた。そして、イエス様は王として御自身を表すときすら、御自分が王侯貴族のようにではなく、すべての平凡な人間と同じようになられたことを表すために、ろばに乗った。馬は背が高い。馬に乗れば、馬に乗っていないすべての人を見下ろすことができる。下に見る。見下すことができてしまう。しかし、子ろばは背が低い。人間が乗れる動物でこれよりも低いものはないだろう。だから乗ってもそれまでと同じ視線の高さになる。イエス様は私たちと同じ位置まで低くなってくださった。むしろ、私たちのすべてよりもずっと低くなってくださった。イエス様はザアカイ、急いで降りて来なさいとザアカイの下に立って呼ばれた。
低くなり、人の下になる。これは英語にするとUnser stand。理解するという意味だ。イエス様は私たちの誰よりも低くなることで、私たちのことをよく理解してくださるお方なのだ。そして、武力によらず、へりくだることはイエス様の勝利の方法でもある。イエス様のへりくだりは十字架によって頂点に達する。その十字架で御自分の血を流すことによって、悪魔の業を打ち砕き、私たちを解放してくださった。この世の王はみな馬に乗り、武力によって国々を征服し、人々の血を流すことによって栄誉を受ける。アレクサンドロス大王、ユリウス・カエサル、ナポレオン、みんなそうだ。ナポレオンのあの白馬に乗った姿は象徴的だ。しかし、我らの王、イエス・キリストだけは違う。ただイエス・キリストだけは御自分の血を流すことによって、その愛によって人々を征服し、最高の栄光を受ける方となられた。
実は、十字架はイエス様が乗られた子ろばの背中にも記されていた。不思議なことにろばは上から見ると十字に見える模様がある。神様がろばを創造されたとき、御子が乗る乗り物としてあらかじめしるしをつけておられたのだろう。イエス様はその十字の模様を見て、御自身の受難を受ける覚悟をあらたにされたに違いない。ハレルヤ。
この方を王として仰ぐ私たちは自己中心でいてはならない。イエス様を見れば、自己中心であることが馬鹿馬鹿しくなる。人々が自分をどう見ているかとか、自分についている「いいね」の数がいくつかとか、そんなことはどうでもよいこと。主が私を愛しておられる。それで十分。

ところで、イエス様が子ろばを手に入れた方法はユニークだ。イエス様はどうして向こうの村に行けば誰も乗ったのことない子ろばがいて、「主がお入り用なのです」と言えば渡してくれると知っていたのか。あらかじめそういうふうに仕込んでいたのか?そうではない。これはイエス様の何でもご存知の預言者としての能力によるものだ。弟子たちはイエス様に従ったので子ろばを手に入れることができた。私たちは、イエス様に仕えようとするとき、あれがないこれがないと取り越し苦労をしてはならない。私たちが真心から主に仕えようとするなら、イエス様の指示に従えば、イエス様の栄光を現す上で必要なものはすべて手に入る。

私たちにはただ、献身だけが必要だ。この子ろばの持ち主のようにだ。この子ろばの持ち主の献身はすばらしい。自分の所有するろばをただ、「主がお入り用なのです」という一言のもとに、あれこれと議論をせずにすぐに提供した。確かに主がお入り用だった。しかも、エルサレムに入城するタイミングはこの時以外になかった。主は絶対にこの時にすぐに子ろばを手に入れる必要があった。もし、よく考えてから決めるとか、明日また来てくれとか、言ったらこの人はろばを提供する上で用いられることは決してなかった。「主がお入り用なのです」それで十分だ。私の時間、私の能力、私の財産は、いずれも大事なものだ。しかし、主が、他ならぬ主が、私たちの主がお入り用なのであれば、これほど名誉なことはない。喜んで差し出そう。主がお入り用なときに、今は時間がないとか、また来年とか、もっと出世したらと言ってはならない。「主がお入り用なのです」この一言が確かに語られたら、喜んで主がお入り用なものを提供する私たちになろう。アーメン。

36-40節。人々の反応が書いてある。このイエス様を熱烈に歓迎している人々は、実のところ子ろばに乗られたイエス様の御心をわかっておらず、いまだにローマを倒す軍事的メシアとして期待している。間違った動機でイエス様を賛美している。
イエス様が軍事力をもって征服者として来られるのは再臨のときだ。そのときは白馬に乗って来られる。この人たちは間違った動機を持っていた。イエス様もそれをよく知っておられた。その上で人々からの賛美を受けられた。私たちは純粋に正しい動機でイエス様を賛美することができる。子ろばに乗った罪からの救い主として、やがて白馬に乗って再臨されるお方として賛美できる。それであれば、私たちのイエス様に対する賛美は絶対にこの人たちに負けてはならない。
36節は行動による賛美だ。人々は自分の服を道に敷いた。これは、イエス様が王として即位するならば進んで従うという忠誠心の表れだ。私たちも自分の醜いプライド、肩書き、役職など、何か誇りとするあらゆるものをイエス様の御前に進んで差し出して踏みつけていただこう。そうする分だけ、私たちも少しはイエス様のように謙遜になるおとができるだろう。
37-38節は口による賛美だ。この賛美は詩編118:26だ。ルカには書いていないが、マタイ、マルコ、ヨハネでは25節の「どうか主よ、わたしたちに救いを」にあたるホサナという言葉が書いてある。これはメシア詩編であって、人々はイエス様をはっきりとメシアとして告白していた。ファリサイ派の人々はそれをやめさせようとして、イエス様に「先生、お弟子たちを叱ってください」と言っている。しかし、イエス様は「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と言われた。人々がイエス様をメシアと公に告白することをよしとされ、当然のこととされた。イエス様はそれまで、奇跡を行ったり、御自分がメシアだということを弟子たちに明かしたりするとき、「このことは誰にも話してはならない」と口止めされた。このときからは解禁された。もう大っぴらにイエス様をメシアと告白して賛美してよい!そうでなければ石が叫び出す。私たちは、この人たち以上にイエス様を罪からの救い主メシアとして告白し神を賛美しよう。そうでなければ、主を賛美する役割を石に奪われてしまう!主を口をもって賛美する特権は人間ならではの特権、特にクリスチャンならでは特権だ。私たちはこの特権を石に奪われてはならない。行動と口の両方をもって、主を賛美しよう。

41-44節。イエス様が涙を流された。イエス様は何もかもご存知だ。イエス様は群衆から熱烈な賛美を受けても、エルサレムが御自分を拒むことになることをご存知だった。不純な動機での賛美は後から怒りに変わる。今一度確認しよう。私たちの動機はどうか?イエス様を賛美する動機は純粋か?もし群衆たちのように、イエス様を奇跡を行う者、自分の願いをかなえてくれる者としてばかり賛美するなら、その賛美は不純だ。うまくいかないことがあると後でイエス様を捨ててしまうことになるだろう。イエス様はもちろん奇跡を行い、私たちを祝福してくださる。しかし、イエス様が求めておられるのは、「平和への道」をわきまえること、「神の訪れの時」をわきまえことだ。それは、イエス様の恵みにより、すべての罪が赦され、神様との間に平和を得ることができる機会が与えられているということだ。私たちは、いつも、第一に、イエス様を私の罪からの救い主として、地獄から救ってくださった方として賛美しよう。それが純粋な賛美だ。
イエス様はエルサレムの人々から拒絶されるようになる。しかし、イエス様は自己憐憫に陥って、御自分が人々から捨てられることを泣いておられるのではない。イエス様は御自分を捨てるエルサレムのために嘆いている。ここでイエス様が預言しておられるのは、紀元70年にローマの将軍ティトゥスがエルサレムを陥落させることだ。イエス様は御自分を拒んで滅びる者を憐れまれる。私たちも主の御心を心として、罪によって滅びようとしている人々に対して憐れみの心を持とう。彼らにイエス様を通して平和への道が与えられていることを伝えよう。子ろばに乗られた我らの王を宣べ伝えよう。

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