恐れる群衆、二重性のあるユダ、暴力をふるうペトロと混乱する現場の中で、逮捕されるイエス様当人は堂々としておられました。外観は敗北者のようでも、すでに祈りの中で勝利を得ておられたからです。
裏切られて逮捕される[ルカ22:47-62]
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【ノート】
47-48節。裏切りの場面だ。ここでいう群衆たちというのは、祭司長や律法学者たちの手下たちで、武装してイエス様をとらえるためにやってきたのだった。ユダがイエス様にした接吻はキスのこと。頬にキスをするのは親愛の情をこめた当時の挨拶だった。イスカリオテのユダは裏切る段になって、イエス様に接吻した。何のためか?その時は真夜中であり、人の顔を見分けられないくらい暗かった。そこで、暗くてよく見えなくても、誰がイエス様か正確に判別できるユダが、この人こそがイエス様だという合図とするために接吻をしたのだ。しかし、単なる合図であれば、別に接吻である必要はないのではないか?「この人だ」と叫べば済むではないか。それなのに、よりによって親愛の情を最もよく表す挨拶によって、最悪の裏切り行為をした。それでイエス様もユダに対して、「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
ここにユダが抱えていた問題を見ることができる。それは二重性だ。二重性のある者が背教者となる。ユダは裏切る瞬間にすら、最後の最後まで自分の本心をイエス様に見せなかった。心の中では金銭欲や悪意などが満ちていたのに、裏切る時にすらそれを表に出さなかった。最後までイエス様に対して良い顔を見せ続けたのだ。表に出している良い顔と悪意に満ちた心、この二重性が人を背教者にさせてしまう。では、ユダはどうしなければならなかったのか?イエス様に対して、自分の内面の腐った部分をさらけ出さなければならなかった。抱えている葛藤や疑念などを、腹を割って話さなければならなかった。そうすれば、ユダはイエス様によって清めていただくことができただろう。また、こんな汚い心を持っている自分をもイエス様は愛してくださっているのだと知ることができただろう。ユダは確かに暗い場所ですらイエス様を見分けることができたが、実は表面的にしかイエス様を知らなかったのだ。イエス様の内にある愛、清さ、力を知らなかった。
私たちはどうか?人前ではいつもにこにこして良い顔を作っていながら、自分の内にある腐った部分を隠し続けてはいないか?しかも、イエス様にすら隠してしまってはいないか?それをさらけだそう。かっこつけるのはやめて、腹を割ってイエス様と話そう。イエス様の愛の大きさを体験し、癒していただき、清めていだたき自由になろう。二重性を解消しよう。そうすれば、私たちはイエス様を裏切らなくて済む。
49-51節。ここでは、誰が大祭司の手下の耳を切り落としたのかが書いていない。なぜか?ルカによる福音書が書かれたときには、まだこの人が生きていたからだ。名前が書いてあったら、敵に訴える口実を与えてしまう。でも、ヨハネによる福音書にははっきりとペトロがしたということが書いてある。ヨハネによる福音書が書かれたときには、すでにペトロが天に召されていたからだ。福音書の著者には、こういう細やかな配慮が見られる。私たちも、人の名前を出すかどうかということに最新の注意を払おう。特にインターネットに公開される内容に書くときには慎重になろう。不用意に名前を出して、名誉を傷つけたり、ほかの人から中傷されたり、危険にさらしたりすることのないようにしよう。
これはいかにもペトロらしい行為だといえる。弟子たちはイエス様に「主よ、剣で切りつけましょうか」と聞いた。それに対するイエス様の返答を待たずに、ペトロはもう切りつけている。行動が早い。考える前に手が動く。これは長所でもあり短所でもあるが、ここでは短所として働いている。握っているものが剣なら、危ないものなら、本当に使って良いのかイエス様に確認しないといけない。剣をふるうことは実際、イエス様の御心ではなかった。
私たちがいつも握っていて、使うかどうか気をつけなければならない剣は何か?舌だ。言葉だ。言葉には大きな力がある。時に剣よりも鋭く人を傷つけてしまう。私たちはみな、そういうことをした経験も、された経験もあるのではないか。咄嗟に口を動かしてしまいそうなときでも、それが剣をふるうようなことであれば、いったん止まろう。イエス様に「主よ、これを言っていいですか?」と聞こう。主は答えてくださる。もちろん、相手を助けるために、あえて相手が嫌がることを時には言わなければならないこともある。主が「言いなさい」と言われるなら、最大限の注意を払って言うようにしよう。ペトロが剣で傷つけた人を、イエス様が癒してくださった。私たちの言葉で傷つけた人々が、癒されますように。
52-53節。イエス様は「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか」と言われた。剣や棒はイエス様の力に対する恐れを表している。イエス様の弟子たちが決死の覚悟で抵抗するかもしれない。また、イエス様には奇跡を行う力がある。だから、力づくで捕らえるためには武器が必要だというわけだ。でも、彼らの恐れは足りていなかったように思える。もしイエス様が本気で抵抗したら、剣や棒で武装するだけで勝てるだろうか?考えてみよう。仮に、もし本気のイエス様に対して、私たちが武力で勝とうとしたら、どんな装備が必要か?どんな装備でも絶対に勝ち目がない。私たちはイエス様を正しく恐れよう。イエス様に対しては、絶対に戦わない、降伏する、服従する者となろう。
「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった」と主は言われた。これは、ふだんはイエス様が何をしていても誰も止められないということ。敵はイエス様に実力行使できなかった。せいぜい20章であったように、あれこれと議論を吹きかける、言葉尻をとらえて貶めようとするくらいだった。これはクリスチャンにも、教会にもあてはまる。私たちが神の御心に基づいて何かをするとき、私たちが丸腰であっても、敵の目の前にいても、どれだけ大胆にふるまっていても、敵は何もすることができない。サタンはふだん私たちに実力行使できない。サタンは私たちが何をしても止めらない。だから仕方なく、必死に口で誘惑しようとする。これが聖霊充満なクリスチャンに対してサタンができること。恐れることはない。
しかし、例外的な状況もある。「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と最後にイエス様は言われた。「今はあなたたちの時」というのはイエス様の受難の時を指す。ふだんはサタンの闇がどれだけ深くても、イエス様には手出しできなかった。しかし、この受難の時だけは例外的にイエス様への攻撃が通るようになる。その時間にして1日程度だ。しかもそれは、イエス様が十字架にかけられることで、私たちの罪の贖いが成し遂げられるためだ。救いの御業のためだ。つまり、限定的に闇の力が教会に及ぶことはあるけれども、それすらも救いの御業につながる、良いことのために起こるということ。
クリスチャンにはいつも神様の御守りがある。例外的にその御守りを受けられない時、闇が力を振るう時すら、すばらしいことが起こる。ハレルヤ。
この場面の中で群衆は恐れ、ユダは二重性、ペトロは暴力といった罪で混乱しているが、ただ一人、イエス様は堂々とふるまっておられる。ゲッセマネの祈りの中で勝利を得ておられたからだ。この後も様々な人物が登場する。またイエス様は外面的に見れば敗北者のように見える。しかし、それでいて、イエス様がすべての状況を支配しておられるのを見ることができる。私たちも祈りの中で勝利を得て、最悪の状況ですら堂々と歩む者になろう。
54-60節。まずペトロを弁護したい。ユダは裏切ろうと意図して、計画的にイエス様を裏切った。それに対して、ペトロは確かにイエス様を三度否定したが、それは彼が最初からそうしようと望んでしたことではない。その意味でユダのしたことは裏切りであるが、ペトロの三度の否定については失敗であると言える。失敗であれば起き上がることができる。何度?箴言24:16。何度でも。
また、そもそもこの失敗はある意味、挑戦した者だけが可能な失敗だ。逮捕されたイエス様を追って、大祭司の庭まで行ったのはペトロとヨハネだけだった。おそらく、隙を見てイエス様を助けようと思っていたのだろう。しかも、ペトロがイエス様を直に見ることができる最も近いところまで接近した。ペトロの勇気と行動力があってこその失敗だった。何の挑戦もしない者が、挑戦をして敗れた者を嘲る資格はない。良いことに挑戦することはかっこいいこと。私たちは挑戦する者を笑うことなく、応援する者となろう。
しかし、どうせなら挑戦して失敗するよりも成功したいものだ。ペトロの失敗の要因はなんだったのか、それを知り、私たちはその失敗を避けようではないか。
第一に、ペトロは遠く離れてイエス様に従っていた。今まではイエス様の近くでイエス様に従っていたのにだ。イエス様との心の距離が離れれば離れるほど、私たちは危険な状態になる。
第二に、ペトロは一人になっていた。それまではいつもほかの弟子たちが共にいた。遣わされるときも二人一組だった。ヨハネとは大祭司の家の入口までは一緒だったが、その後別行動になった。私たちも仲間といるときは自分が強く感じられるけれども、一人でいるときにはとても弱くなるということがあるだろうか。このことから、仲間の大切さがよくわかる。しかし、時に私たちは、一人で過ごすということは避けられない。そういう時にも強くなるにはどうすればよいか?どんなときにも共にいてくださる神様を意識することだ。神様はいつも共にいてくださる。ヘブライ13:5。一人と思えるときにも、神様は今、私と共にいる。私と共に歩き、私と共に食べ、私と共に寝床にいる。その真実を意識することで、私たちは一人でいるときも強くなる。
第三に、ペトロは御言葉を覚えていなかった。ペトロがイエス様を否定する言葉を口にしてから、次に同じ言葉を口にするまで間があった。なんと最大1時間もあった。つまり矢継ぎ早に三度イエス様を否定したわけではないのだ。もし、ペトロがイエス様の御言葉をちゃんと覚えていたら、「ああ!私はさっきなんてことを言ってしまったのだ」と気づいて、少なくとも二回目に言うことは防げただろう。いや、一回目すら防げたかもしれない。御言葉を覚えていることが、失敗を避けさせる。
61-62節。ここでイエス様はどんなふうにペトロをご覧になったのか?イエス様は愛のまなざしでご覧になった。そこには非難の色やそれ見たことかと裁く思いは微塵もなかった。イエス様はペトロが三度御自分を否定することを知っていながらペトロのために信仰がなくならないように執り成しの祈りをしたくらいだから、間違いない。ペトロはイエス様の愛のまなざしに触れて涙を流した。このことがペトロの人生の新しい出発となった。私たちもイエス様と目を合わせてみよう。黙示録では、第三の天でのイエス様の目は燃え盛る炎だと書いてある。その方はいつも燃えるような愛のまなざしで私たちを見てくださる。私たちの失敗や罪の汚れを何もかも知っておられながらも、燃え盛る愛の目で私たちをご覧くださる。この愛が私たちの心を打ち砕き、涙と共に悔い改めさせるのだ。
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