成功は感謝すれど、喜びの対象ではありません。
あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい[ルカ10:13-24]
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【ノート】
イエス様は70人の弟子たちを遣わすにあたって、弟子たちを受け入れなかった町に対しては裁きがあるということを言われた。弟子たちを迎え入れない町はソドムよりも裁きの日に厳罰が待っていると。
それに続いて13-16節では、裁きを受ける町の例を出している。3つの町について言及されている。13-14節。不幸だ!不幸だ!と言っておられる。これは災いの宣言だ。コラジンという町について、聖書ではこの記事にしか出てこない。イエス様はこの町でも力ある御業をいろいろとなさったらしい。ところが、それらの出来事は聖書に全く書いていないのだ。このことから、私たちが福音書を通して知っているイエス様の活動はイエス様の活動全体のうちのごく一部であるということを知ることができる。使徒ヨハネはイエス様の活動のすべてを書くなら、どのくらいの分量になると言っているか?ヨハネ21:25。聖書には私たちが真理を知るために必要なことが十分書いてあるが、聖書からは知りえないイエス様のすばらしい活動も山ほどあるのだと覚えておこう。
ベトサイダといえば、少なくとも、ペトロ、アンデレ、フィリポの三人の使徒の出身の町だ。コラジンとベトサイダは、多くの奇跡を体験したにもかかわらず、悔い改めなかった点が責められている。イエス様の宣教の目的は悔い改めさせることだ。イエス様が語られる教えも、イエス様の行う奇跡も悔い改めを目的としている。イエス様の御言葉をたくさん聞くこと、イエス様の奇跡をたくさん体験すること、イエス様の弟子たちを輩出することは、神が認めておられるとか、神が良しとしておられるということを意味しない。そうではなく、それらのことは、悔い改めてイエス様を信じて従う責任が増し加わるということを意味している。
ベトサイダとコラジンは、ティルスやシドンよりも重い罰を受ける。神が人に与える罰はみんな同じというわけではない。地獄の苦しみも、その罪の程度によって違うのだ。それは単純にどんな罪を犯したかによって決まるものではない。罪であればすべての人が犯す。神は憐れみ深い方であって、それがどんな罪であったとしてもイエス様にあって赦す用意が常にある。もっと大事な指標は、悔い改めるためにどれだけ好条件が神から与えられていたかということ。悔い改めための好条件を与えられていればいるほど、奇跡をたくさん体験し、御言葉をたくさん聞いていればいるほど、悔い改めなかったときの罰が大きくなるのだ。ティルスとシドンがどんな裁きにあったかということは、聖書に直接は書いていないが、裁きについての預言はイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、アモス書と多くの預言書に書いてある。ティルスとシドンは地中海の貿易で栄えたフェニキア人の国だ。特にティルスは栄華は預言書で楽園に比べられるほどで、緑に囲まれた美しくて何でも必要なものが豊かにある国だった。そのティルスに指摘されている罪は高ぶりだ。自分のことを神だと錯覚するほどおごりたかぶっていた。その国に襲った裁きの内容は歴史を調べるとわかる。アレクサンドロス大王という人物がいた。マケドニアの王だ。アレクサンドロス大王のこともダニエル書では預言されている。彼は東方遠征を行った。その際、ティルスは地中海のフェニキア人の国の中で唯一アレクサンドロス大王に反抗して従おうとしなかった。島国だから、アレクサンドロス大王といえども攻め込めまいと高を括っていた。ところが、アレクサンドロス大王は港を海軍によって封鎖した上で、七か月かけて陸地からティルスの島に至るまでを埋め立てて道を作り、ティルスに攻め込んだ。そのとき、1万人は戦死し、3万人の市民は全員奴隷となって、ティルスは滅亡した。そのティルスよりも、ベトサイダとコラジンは重い罰を受けるというのだ。
15節。3つ目の町はカファルナウムだ。カファルナウムといえば、イエス様が頻繁に立ち寄り、宣教された場所で、権威ある教え、悪霊の追い出し、癒しについて、聖書に多くのことが書いてある。
イエス様が最も多くの活動をなされた地域かもしれない。カファルナウムはイエス様のように神から遣わされた偉大な預言者が自分たちのもとで多くの活動をされたからには、自分たちは神に認められているに違いない。神の国にふさわしい者に違いない。そのように、天にまで上げられると根拠なく思い込んでいた。しかし、イエス様はカファルナウムですら陰府にまで落とされると言われる。なぜか?悔い改めていなかったからだ。イエス様が彼らのところで長く活動されたのは、彼らが奇跡は信じるけれども、なかなかイエス様の御言葉に耳を傾けず、悔い改めようとしなかったので、繰り返し働きかけたからかもしれない。イエス様と長く関わりを持っているからといって、自動的に天に上げられる人だというわけではない。イエス様はずっとその人の頑なな心を嘆いておられるかもしれないのだ。悔い改めなしには、誰も神の国を見ることはない。悔い改めなしにはすべての人は滅んでしまう。
あなたは悔い改めたか?悔い改めとは何か?それは自分の罪の重さを痛感して、胸を打ち叩いて涙を流すことなのか?それも悔い改めに含まれる。粗布をまとって灰の中に座ってと書いてあるのはそのことだ。しかし、悔い改めはそういうふうに後悔して、自分を責めるだけのものではない。ただ後悔するだけなら、すべての人が毎日のようにしているが、それだけでは不健全なことであり、心をこじらせる原因にもなる。悔い改めは、ヘブライ語ではシューブー、ギリシャ語ではメタノイア。シューブーは、正しい方向に向きなおれ、方向転換せよという意味。メタノイアには思いを変えるという意味がある。悔い改めはイエス様にあって思いを変えて、自分勝手な道を歩んでいたのを神に方向転換する。そのときに、私たちは、イエス様の十字架の愛と恵みを通ることになる。癒され、罪責感から解放され、罪からの清めを体験することができる。そして、悔い改めた人は、以前のような生き方をすることはできない。もうその人の思いは変えられているので、それまで何とも思わずに行っていた罪の言動から離れるようになる。すぐに完璧にできなくても戦いを挑むようになる。その戦いは、イエス様を見つめ、イエス様の十字架の恵みにあずかっているので、勝つことができる。こうして、悔い改めにふさわしい実を結ぶようになる。
16節。イエス様に従い、イエス様を拒絶するというのは、結局誰に対する態度なのかということがわかる。イエス様は天に昇られて、私たちの目には見えなくなっているが、今も、イエス様が目に見える形で私たちに語ってくださっている。イエス様の弟子たちがそうだ。弟子たちに対してとる態度がすべて、イエス様に直結し、父なる神様に直結する。私もイエス様の弟子の一人として、主の権威によって立てられている者だ。イエス様にはほど遠い者で大変恐縮だが、それでも、私がイエス様に代わって語る御言葉に耳を傾けることをおすすめする。
17節。弟子たちは悪霊が屈服したことを喜んだ。何を喜ぶかということは何に価値を置くかということでもある。あなたは何を喜ぶか?弟子たちは言ってみれば、成功を喜んだ。このときの弟子たちと同じように、世の中の多くの人が成功を喜ぶだろう。悪霊が屈服することでなくても、ある人はお金をたくさん設けることを喜び、ある人は人気者になることを喜び、ある人は出世することを喜ぶ。世で成功することに価値を置いているからだ。
イエス様はまず、悪霊が屈服した事実について解説してくださる。18-19節。サタンが稲妻のように天から落ちるというのは、イエス様の出現によってサタンの敗北が確定し、世の支配者の座から転落しつつあるということを指している。まだサタンは完全敗北しておらず、戦いは続くが、最終的な結末はもう決定している。イエス様とイエス様に従う弟子たちは必ず勝つ。蛇とさそりはどちらも悪霊の象徴だ。蛇は頭に害する部分がある。さそりは尾に害する部分がある。そのように悪霊どもはいろいろな手段で人に危害を加えようとする。しかし、主に従うクリスチャンは彼らを踏みつぶし何の害む受けることはない。
続いて、イエス様は意外にも弟子たちの勝利に水を差すようなことを言われた。20節。イエス様は悪霊が服従することよりも、天に名が書き記されていることを喜びなさいと言われたのではない。まず悪霊が服従することを喜んではならないと言われた。成功は喜んではならないのだ。私たちが主にあって成功すること、勝利することは感謝なことだ。しかし、それを喜びとし、そこに価値を置くのであれば、私たちの喜びは不安定で短命なものになる。私たちはいつも成功し続けることができるか?そんなことはない。黙示録によると悪魔の軍勢が聖徒たちに打ち勝つことが許されることもある。時に敗北や失敗を味わうこともある。もし成功に価値を置くなら、その喜びは成功できないときに失われてしまう。また、何かこの世でうまくいったときの喜びはどのくらい長続きするだろうか?欲しかった車を手に入れたとか、人気者になったとか、トロフィーを手に入れたとか、そういった喜びは長続きしないものだ。短い場合はほんの数日、長くても数か月しか続かないということが多い。友達や恋人ができたという関係性による喜びはもう少し長続きするが、人間にはいつか別れが来るもので、そこに喜びを置いていたらやはりそれも失われてしまうことになる。しかし、天に名が記されていることは決して失われることはない喜びをもたらす。天に名が記されているとはどういうことか。あなたの学校や職場のロッカーにあなたの名前があるということは、何を意味するか?あなたがそこに所属しているということ。そこにいけばあなたの席があり、あなたの居場所があり、あなたは迎え入れられる。しかし、名前がないところに入ろうとすれば、部外者であり、居座ろうとしても追い出されてしまう。天に名が記されているということは天国に所属しているということ、天国に迎え入れられるということだ。名前が記されていることについて、あまり実感がわかず、喜びといってもよくわからないという人もいるかもしれない。実感はこの世にいるときからわいてくる。
21-22節。イエス様は喜びについて語られた。この箇所でイエス様は喜びに満たされておられる。イエス様の喜びは何によるもので、イエス様は何に価値を置いておられるのか。ここでイエス様は聖霊様によって喜んでいる。また、父なる神様に対して祈っている。つまり、三位一体の交わりがここに実現している。イエス様は三位一体の交わりを喜んでおられる。そして、イエス様はその弟子たちをもこの交わりに招待しておられる。弟子たちが御父と御子を知り、この交わりに加わり、共に喜ぶことができるようにしておられる。三位一体の神を知り、神と交わることこそが天に名が記されている者がこの世で実感する尽きない喜びだ。神はどういう人が知ることができるのか。この世の知恵ある者や賢い者ではない。この世の学問、科学や哲学によって神を知ることには限界がある。宗教改革のマルティン・ルターはスコラ哲学を研究する中でその限界にぶつかった。キリスト教弁証家のC・S・ルイスも哲学によっては神がどのような方かまではわからなかった。人格を持った神がおられるに違いない。そこまでしかわからない。神を知るには神から教えてもらうしかない。神は御子イエス・キリストによって御自身を啓示された。しかも、人間が自分の能力を誇ることがないように、あえて無知な者に対して。能力によらないということは公平なことでもある。クリスチャンでないものは偉大な学者でも神がどのような方かわからないが、クリスチャンであれば子供でも神がどのような方かよく知っている。その方との交わりを持っている。
イエス様はその交わりに入ることがどれだけすばらしいことか説明する。23-24節。イエス様の出現は人生の歴史の頂点だ。預言者や王たちが待ち望んでいたことだった。預言者イザヤやダニエルもイエス様についてはおぼろげな幻でしか知らなかった。イスラエルの黄金期を築いたダビデ王やソロモン王も、イエス様については断片的な啓示が与えられていただけだ。しかし、私たちは聖書を通してその方を非常に正確に知ることができるという最高の特権に与っている。この特権を捨てておいてはならない。イエス様を通して神を知り、三位一体の交わりに加わり、天に名が記されている者としての尽きない喜びを持つ者となろう。
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