七十人の派遣[ルカ10:1-12]

ルカによる福音書
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イエス様は収穫の主に働き手を願い求めたところ、まず十二人、次に七十人が与えられました。
私たちの教会にもそのように働き手が与えられるように祈りましょう。まずは、私たち自身が、献身的に用いられる伝道者となりましょう。

七十人の派遣[ルカ10:1-12]

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【ノート】
イエス様は弟子に要求される覚悟を説いた。覚悟がない者はイエス様のもとから去ったことだろう。教会からも去る人々がいるが、それは致し方のないことだ。しかし、あくまでもイエス様について行きたい人々も大勢いた。1節。72人と書いてある。前回は十二使徒を遣わしたが、それよりも大規模な派遣だ。イエス様の働きはどんどん大きいものになっていってしかるべきなのだ。私たち教会はイエス様に倣って弟子を増やして、福音宣教に励もう。

ここで派遣された人数について、新共同訳では確かに七十二人となっている。しかし、新改訳や別の底本の訳では七十人となっていて、おそらくそちらの方が正しい。七十は意味のある数字だ。創世記10章に出てくる民族の数は七十だ。つまり、七十は全世界を表す数字だ。イエス様は全世界の弟子化のビジョンを持っておられた。私たちも大宣教命令をビジョンとしよう。
また、七十といえば、族長のヤコブがエジプトに移住したときの人数だ。この人たちが神が選ばれた民であるイスラエルの原型だ。イエス様の弟子は神に選ばれし人々なのだ。

さらには、七十はモーセに与えられた聖霊様をイスラエルの長老たちに分け与えたときの長老たちの人数でもある。また、イエス様の時代にユダヤの最高権力機関だったサンヘドリンの議員の数も七十だった。七十は特別な使命を帯びた指導者を表すということ。イエス様の弟子は社会的な身分が何であれ、神の国という点において、人々の間で指導者なのである。

イエス様は、彼らを御自分が行くつもりのすべての町や村に遣わされた。つまり、最低35の町や村ということになる。イエス様はもうエルサレムに向かうことを決めているこの時期に35もの町や村に宣教に行ったのだろうか。ある町には行っただろうし、ほかの場所には行けないこともあったかもしれない。しかし、それはどちらでも良いことだ。イエス様が私たちを遣わされるとき、私たちはイエス様の代理人として、イエス様の手足となってイエス様が行きたい場所に行くだ。私が福音を携えていくところにはどこでもイエス様が共に行かれる。
イエス様は二人ずつ組みにして遣わされた。人は一人だと弱い。一人では、祈り合い、助け合うことができない。二人では小さな教会であり、聖霊様がより強力に働かれ、怖いものなしにイエス様から命じられたことを行うことができる。伝道をするならば、二人いれば十分だ。

2節。すばらしいことに、収穫は多いと約束されている。私たちがイエス様から命じられた通りに、信仰を持って伝道に励むなら、主は大勢の人を救いに導いてくださるということだ。私たちの信仰と従順次第なのだ。問題は働き手が不在なことだ。これはどう解決すれば良いのか?祈ればよい。「収穫の主に願いなさい」と書いてある。収穫の主に願えば与えられるということだ。イエス様は願い求めて祈っただろう。その祈りは答えられて、12人が70人になった。今、私の教会に、主が遣わされるならどこへでも行く、献身的に伝道に励む働き手を与えてくださいと祈ろう。

3節からは宣教の方法の伝授だ。ここでイエス様が語っている内容は、十二人に語った内容と一致する。イエス様の戦略はいつ、何人を遣わすとしても変わらないということ。これらの宣教の指針は今でも、私たちに対して有効であるということだ。

3節。狼の群れに小羊を送り込むというのは、何とも無謀なことだ。狼の群れとは何のことか?世の人々のことだ。福音を聞いたことがなく、神を知らずに生きている人々は、神に仕える人々に牙をむくものだ。それに対する小羊はイエス様の弟子たちのことだ。小羊は、自分の力では狼の群れに対抗することができない。つまり、私たちは自分の知恵や才能によって人々をイエス様のもとに勝ち取ることは決してできない。小羊は羊飼いに頼らなければならない。私たちの主こそが、私たちの羊飼いであり、主は鞭で狼を打ち、杖で導いて私たちを守ってくださる。主に頼って、福音を伝えよう。

4節。普通、ビジネスをしようと思えば、元手のお金が必要だし、いろいろな物資の準備が必要だ。しかし、福音宣教には財布も袋も履物も持っていかなく良い。福音宣教はビジネスではないということだ。何も持っていかないのはなぜなのか?羊飼いである主なる神だけに頼るためだ。財布があれば財布に頼る。袋や履物があってもそれらに頼る。何もなければ、神だけを頼ることができる。そして、神だけを頼る方が、ずっとうまくいく。また、人は多くのものを持っていると逆に弱くなることがある。失うものが多い人は死を恐れる。神の国だけを持っている人は何も恐れずに果たすべき使命を全うすることができる。

それでは、挨拶をしないのはなぜか?これは無作法であることが奨励されているわけではない。愛は礼を失せずと書いてある。これは、道中で挨拶すらもしないくらい、イエス様から与えられた使命に没頭するということが求められている。わき目もふらず、ただ人々に福音を伝え、一人でも多くの人が滅びの淵から救われるようにということだけを追求するのだ。私たちが主から与えられている使命は、それだけ没頭してほかのすべてのものを差し置いて取り組む価値のあることだ。それによって、多くの人の永遠の未来が変わり、神の栄光が現わされる。天で大宴会が開かれる。

5-6節。「この家に平和があるように」というのは、ヘブライ語では「シャローム」という挨拶だ。シャロームはいろいろな意味に訳すことができる。そこには、友情、健康である、安全、救いなどおよそ人に必要な神からのあらゆる祝福が含まれている。旧約の預言者たちは、シャロームがメシアを通して実現されると語っていた。シャロームはイエス様の十字架によって神との間に平和を得ることによって、私たちの人生に豊かに体験することができるのだ。家に入れてくれる人、いわば、伝道で話を聞いてくれる人には、相手がどんな人であったとしても関係ない。相手を呪うのではなく、この平和の祝福をすれば良い。まず、平和を受ける資格のある平和の子がいれば、イエス様を通しての平和がその人に与えられる。平和の子というのは、世界平和を愛する人のことではなく、友好的な人、協調性のある善良な人のことを意味する。平和の子は、イエス様の弟子たちに対して友好的な人ということだ。クリスチャンに対して友好的な人は祝福されるのだ。
それでは、友好的な人がいなかったらどうするのか?何の心配もない。平和は戻ってくると書いてある。平和を宣言した私たち自身に平和が与えられるのだ。このように、人々に平和の祝福をするなら良いことづくめで、悪いことは何もない。

7-9節。働く者と書いてある。イエス様は、弟子たちに勤勉に神の国を宣べ伝え、その対価として提供される食事を食べるように命じておられる。それというのも、中には身分を偽って「自分は神に仕える者である」と言ってうまく言いくるめて、人々から援助を取り付けて生活しているけれども、その人の生活の実体はただ安逸をむさぼるだけで少しも御言葉を語らず、宣教をしないという人がいたからだ。彼らは人々をだまして自分が良い生活をすること、寝心地の良い部屋とおいしい食事が提供されることだけに関心がある。それでもっと良い場所はないかと家から家へと渡り歩くわけだ。今でもそういう人はいる。その人は教会やクリスチャンから大切なお金をくすねるための文才に長けていて、メールや手紙、SNSを使って援助を求める。あるいは話術を用いて、電話や多くの教会の合同でなされる聖会で人々に近づき、言葉巧みに献金を募る。そういう偽預言者、詐欺師がいるということを心に留めておかなければならない。私たちはそういうことにだまされず、自分もそういう者にならないようにしよう。お金について、いつも清廉潔白で、何のやましいところのない者になろう。

イエス様の弟子が宣教で取り組むことは何か?病人の癒しと福音を伝えることだ。宣教には、癒しのために祈るということが必要だ。難しく考える必要はない。主を信じて、病人に手を置いて、御名によって癒しを宣言して祈れば良いのだ。今まで癒しが起きたことがなかったとしても続けて取り組もう。信仰とは自分の体験と無関係にただ御言葉を信じることだ。
信じて実践し続けるなら、聖霊様が働いてくださって偉大な癒しの奇跡が起こると信じる。癒されたらどうなるか?人々の心が大きく開かれ、私たちが語る言葉に耳を傾けてくれるようになる。それで、すかさず、福音を語るのだ。

10-12節。弟子たちの宣教を拒んだ人々はどうなるのか?それはイエス様を拒んだも同然だ。その罪は非常に重い。まず、弟子たちは大勢の人の耳に届くように、広場に出る。そこで宣言することは二つ。第一は、「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。」私たちはあなたがたとは何の関わりもないという関係の断絶を意味する。第二は、「神の国が近づいたことを知れ。」弟子たちが神の国について語ったという事実は消えない。その神の国について聞いたのに応答しなかったという事実が、やがて裁きの日にその町の人々を不利に陥れるのだ。そのときに降る審判は、邪悪な人々だったために神が天から火と硫黄を降らせて滅ぼしたソドムよりも厳しいものになる。私たちは御言葉を聞いたら、それに応答しないなら、責任を追求されることになると自覚しよう。御言葉を聞いたらいつも「アーメン!」と信仰によって応答する者となろう。そうすれば、神の国は私たちのものとなる。

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