メシアはダビデの子なのか?[ルカ20:41-47]

ルカによる福音書
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ダビデの子というだけでは50点です。
ダビデの子というだけの認識では救いには至りません。

メシアはダビデの子なのか?[ルカ20:41-47]


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【ノート】
敵対者からの悪質な質問にはすべて答えた。もうあえて誰も何もイエス様に聞こうとしなかった。そこで今度は、イエス様の方から人々に対して質問を投げかける。41節。エリコにいた盲人は、イエス様のことを「ダビデの子よ!」と叫んだ。ダビデの子というのは、メシアを表す主要な言い方だった。人々は当たり前のようにメシアをダビデの子と言っていた。イエス様はこのことに対して疑問を呈している。人間が当たり前と思っていることは往々にして間違っているのだ。何事につけて、本当にそうなのか、サタンの嘘ではないのか、真実はどこにあるのか、イエス様に知恵を求める者となろう。

ダビデの子という言い方の根拠は、ダビデの子孫からメシアが生まれるという預言にある。サムエル下7:11-16。ダビデの子孫によってとこしえに続く王国が建てられると書いてある。そして、主御自身が彼の父となり、彼は主なる神様の子となると書いてある。これはソロモンのことではない。ソロモンはとこしえに、つまり永遠にイスラエルを治めていない。40年間だけ治めて、子のレハブアムの代に王国は分裂してしまった。その後最終的にゼデキヤ王のときにダビデ王朝はなくなってしまった。これはメシアによって実現する預言だ。その証拠にエレミヤ23:5-6。エレミヤはダビデ王朝の末期の預言者。彼は王国の終焉を目撃した。しかし、ダビデの子孫からメシアが出ると預言している。そのメシアとしてダビデの子孫からお生まれになったのがイエス様だ。だから、メシアをダビデの子孫ととらえることは完全に間違いではない。問題は、ダビデの子ということによってメシア観が狭められてしまうことにある。

ダビデの子という言葉には二つのイメージがある。第一に、ダビデのように軍事力によって敵国を倒す王というイメージだ。多くの人はメシアに、そしてイエス様にそれを期待していた。これはイエス様がどうしても拭い去りたかったイメージだ。イエス様は子ろばに乗られる平和の王、十字架で血を流して死なれることによって人類の罪を贖うために来られたメシアだ。自覚していようがいまいが、すべての人に罪からの救い以上に必要なことはない。罪から救われ、永遠の地獄に行かなくて済むようになる。罪の呪縛から解放され、自由になる。まず、これが私たち一人一人に何よりも必要なことだ。メシアが倒してくださる敵は、第一義的にはサタンだ。私たちを誘惑し、罪に陥れ、神様から遠ざけ、自由を奪い、永遠に滅ぼそうと全力を尽くす敵、サタンをメシアは滅ぼす。霊的戦争に完全勝利をもたらす。血肉の戦争での勝利する王としてのメシアは、艱難期の最後にイエス様が地上再臨するときに期待すべし。

第二に、イエス様はダビデと同等か低レベルの存在だというイメージだ。人々は、イスラエルの黄金時代を築いたダビデの存在をあまりにも高く評価した。ダビデ以上に偉大な人間なんて想像もできなかった。それで、ダビデの子メシアが来てもダビデと同じようなことをするだけだろう、ダビデ以上のことはできないだろうというメシアに対する過小評価が発生した。ダビデを高く評価するのは良い。聖書ではダビデのことを神の御心に適う者と評価されている。黙示録の最後、つまり聖書の最後の最後で、イエス様以外に登場する個人名はダビデだ。そのように評価されているのは、単純に戦争が強い英雄だったからだというのではなく、主を愛していたから、主を喜んでいたからだ。ダビデの幕屋では24時間365日絶えず賛美と祈りがささげられた。こんなにも主を賛美した人はほかにいなかった。そのことを私たちは見習わなければならない。ダビデのように、神様を愛して、絶えず賛美する者となろう。しかし、メシアをダビデと同程度ととらえるなら、大きな間違いだ。メシアはダビデよりも偉大だ。

イエス様はメシアがダビデよりも偉大だという根拠を、ダビデ自身が書いた詩編から引用する。42-44節。これは詩編の引用だが、本当に詩編にこう書いてあるのか確認しよう。詩編110:1。詩編の著者は何人かいるがこれは確かにダビデの詩編として知られているもので、ちゃんとイエス様が言われた通りに書いてある。これはすごいことだ。イエス様は聖書を知っている。これまで云十万人というユダヤ人が、詩編110編を読んだり聞いたりしてきた。それでいながら、平気でメシアのことをダビデの子と呼んでいた。しかし、イエス様はこの箇所のことをよく知っていて、完璧に理解しておられた。私たちも御言葉を右から左に流すのではなく、イエス様のように聖書を完璧に理解する者となろう。
この箇所は不思議だ。ダビデは、「わが主に賜った主の御言葉」と書いている。まるで主が二人おられるかのように、主が主に御言葉を与えているというのだ。これはいったいどういうことなのか。最初の「わが主」にあたるヘブライ語ではアドンという言葉が使われている。これはアドナイという神の称号の単数形だ。ご主人様という意味で、単数形のアドンの場合は、神様に使われることもあれば、人間に使われることもある。いずれにせよ、目上の存在に違いない。二番目の「主の御言葉」の主はヤハウェという神の個人名にあたるヘブライ語が使われている。ヤハウェがアドンに御言葉を与えているのだ。その御言葉の内容は、右の座に就け、わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。王座について敵に勝利するというところからメシアだとわかる。メシアは、イスラエルの歴史上最も偉大だと考えられているダビデが、ご主人様と呼ぶ人物!それであれば、メシアがダビデの子、ダビデよりも同レベルか下の存在ではありえない。しかも、全知全能の主なる神様の右に座すことが許されているという。王の右の座が与えられるというのは、王と同等の権力が与えられることを意味する。なぜ右なのか?右は祝福と力を象徴する方向だ。メシアは主なる神様と同等の権力を持つ!こんなことがただの人間でありうるか?メシアはダビデの子でなければいったい何者なのか?実は、イエス様が完璧に満足することを言った人がいる。ペトロだ。マタイ16:16-17。メシアは神の子だ。そして、この答えは人間から出たことでなく天の父から出たといった。ダビデの子は間違いではないが不十分だ。ローマ1:3-4。肉によればダビデの子孫。肉によればというのは誰でもわかること、この世的な観点、血筋に基づいていえばということ。聖なる霊によればというのは啓示によってしかわからないこと。ダビデにも啓示が与えられたのだ。詩編110編は、三位一体の父なる神様が御子に対して語った御言葉だったのだ。ダビデはその意味を100%理解できなかったかもしれない。なぜまるで唯一の神様が二人おられるかのように見えるのか。しかし、ダビデはとにかく啓示されたことをそのまま書き残した。
私たちもペトロやダビデのように、聖霊様によって啓示していただき、イエス様をダビデの子孫としてだけでなく、神の子としても知ろう。イエス様に匹敵するものが一つでもあってはならない。イエス様をご主人様とあおごう。富も、権力も、異性も、自分自身も、何ものもこの方のライバルであってはならない。イエス様をいつも心の王座に君臨していただき、その方に治めていただく人生となろう。
結局、メシアはイエス様御自身なのだから、なんだか、イエス様が御自分のことを持ち上げることを望んでいるようにも見える内容だ。しかし、実際にはイエス様は神ご自身なのだから、この方を軽んじることはあっても持ち上げすぎるということはない。イエス様をダビデよりも偉大な神の子と認識することは事実なのだから、それは単に事実に基づいて評価するだけのこと。
イエス様が御自分を神の子ととらえさせることにこだわっていた。私たちも、自分が神の子であるということにこだわりを持とう。信仰を貫くなら、やがてイエス様と同じ王座に座ることができる。それは事実であって、神の子ではないかのように自分を見ることは間違いだ。しかし、中には不当に地位を主張する人々もいた。律法学者だ。

45-47節。敵対者たちはイエス様を罠にかけようとした。それは、イエス様のスキャンダルを何一つあげることができなかったからだ。イエス様に対して敵がした悪口といえばせいぜい、悪霊の力で悪霊を追い出しているという奇跡の力についての中傷か、大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間だくらいだ。食事をするという普通のことすらあげないと悪口が言えないほどイエス様は完全無欠だった。イエス様は罪のない完全なお方だ。しかし、イエス様の敵である律法学者にはたくさんのスキャンダルがあった。イエス様はそれを一気に5つもあげている。罪人にはイエス様に対してああだこうだと疑いの声をあげる資格なんてないのだ。イエス様は人々に聞こえる声で言ったが、特に弟子たちに「律法学者に気をつけなさい」と警告された。あんなふうになってはならないという警告だ。特に弟子たち
に言われたのは熱心なクリスチャン、よく奉仕をし伝道する人ほど陥りやすい罠だということだ。だから、私たちもこうならないように気をつけよう。

第一に、長い衣をまとって歩き回る。「これは、私は律法学者なんですよ、偉いんですよ、さあ私を敬いなさい」というアピールだ。長い衣は律法学者のトレードマーク。それを見ればだれでも一目で律法学者とわかる。そのかっこうで用があろうがなかろうが、市場や広場をうろうろ歩く。すると多くの人から敬意を得られて気分をよくすることができる。

第二に、広場であいさつされることを好む。これも敬意を表明されて気分をよくしたいということ。その挨拶が大げさであればあるほど、そのお辞儀の角度が鋭ければ鋭いほど、律法学者の心は満たされて、「ああ、私はなんて偉大なんだ」と悦にひたる。逆に、挨拶の言葉がちょっとでも丁寧ではなかったら、気分を害してしまう。「今日、広場を通るとき、挨拶で『わが主よ』と言わない人が何人かいた。なんてことだ。私の威信が地に落ちてしまった」

第三に、会堂では上席、宴会では上座を好む。上席は会堂のVIP席だった。そこに座る人はみんなから尊敬のまなざしが受けられた。上座はもちろん一番偉い人が座る席。私はいつも一番偉い人として扱われたいということだ。これら三つは全部、敬われたいということだ。私たちは自分が敬われたり注目されたりすることではなく、主の栄光を現すことを目指さなければならない。自分を証しするのではなく、キリストを証ししなければならない。

第四に、やもめの家を食い物にする。建前としては、ラビは無料で教えることになっていた。しかし、ラビの生活を支えることは、最も敬虔な行為であると教えられていた。それで、ラビの中にはあちこちの家を出入りしてホテルのように利用する人もいた。中には好色なラビによって妾にされてしまう女性もいたくらいだ。

第五に、見せかけの長い祈りをする。これは「あの人はなんて敬虔な人なんだ」と思われたいがためにわざと長々と祈っているだけで中身がない祈りのことだ。見せかけの祈りと本物の祈りの違いは何か?本物の祈りとは、ふだんからささげている祈りだ。人前で祈る祈りと個人で祈る祈り、そこに一致があるなら、その祈りは見せかけの祈りではない。しかし、個人では全然祈らないのに、教会で祈るときだけ流暢に祈る人は、すでに律法学者と同じ道を歩み始めていると言える。
イエス様はこのような者たちは人一倍厳しい裁きを受けると言われた。

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