喜びの油

福音&主題メッセージ
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イエス様ほど喜びに満ちた方はいらっしゃいません。
私たちにも、イエス様が受けた喜びの油を注いでいただきましょう。

喜びの油


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【ノート】
イエス様はメシア、油注がれた者。その油はどんな油か?「喜びの油」と書いてある箇所がある。ヘブライ1:8-9。イエス様というとどういうイメージがあるだろうか?悲しみ嘆いているイメージが強いかもしれない。イエス様は十字架にかかって死なれたから。それもそうだが、同時にイエス様ほど喜びに満ちた方はおられない。喜びというのはただの感情ではない。主にある喜びは私たちが主に従って生きる上で大きな力となる。主にある喜びにはどんな効力があるか、大きく3つお伝えする。

第一に、喜びがあると何をするにしても大きなインパクトを与える。全く同じ奉仕をしても喜びの有無によってインパクトが全然違う。仕方なく、不満たらたらで、奴隷のように奉仕をしたのでは、神も人も喜ばない。むしろ、プレッシャーに感じる。そんなに嫌ならしないでほしい!しかし、わかってはいても、喜びのない働きになってしまうこともある。マルタがそうだった。ルカ10:40。また、弟子たちもそうだった。マルコ6:31-41。イエス様が人里離れたところに行ってゆっくりしようと弟子たちに提案したとき、弟子たちはうれしかった。ところが、五千人の群衆たちが勝手についてきてしまったので、またいつものように忙しくなってしまった。なんということをしてくれたんだ。イエス様はというと、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えられた。日が暮れるまで!弟子たちは群衆の世話をしたくなかったので、「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ何か食べる物を買いに行くでしょう」といった。ところが、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた。そして、5つのパンと2匹の魚で群衆全体を満腹させた。一番誰よりも労苦して疲れているはずのイエス様が最も喜んで働きをしたのだ。イエス様は喜びに満ち溢れて、奉仕をしたので、世に大きなインパクトを与えた。

第二に、喜びがあると人々に慕われる。イエス様がいつも喜んでおられたので、人々はイエス様を慕った。イエス様はものすごく厳しいことを言われることも多い。山上の説教を聞けば誰もが自分は罪人だ、神の国にふさわしくないと思う。しかし、だれもイエス様を近寄りがたいとは思わなかった。それでも人々が、特に徴税人、娼婦、異邦人などがイエス様を慕って救われていったのは、イエス様の喜びに人々が惹かれていったからだ。イエス様は貧しかった。物質的なもので、人がうらやむものは何も持っておられなかった。特にメシアとして活動していたとき、「人の子は枕するところもない」とまで言われた。ホームレス状態だったのだ。にもかかわらず、イエス様はすべてをお持ちであるかのように人々に囲まれていた。人々はイエス様の内にある御国の喜びを慕ったのだ。持ち物や肩書ではなく中身で人々を魅了できる人になりたい。

第三に、喜びがあると罪を犯さなくなる。イエス様は一切罪を犯さなかった。ヘブライ4:15。イエス様が罪を犯さなかったのは、神の子だからだが、私たちがイエス様と同じ喜びを得ることができれば、私たちも罪を犯したくなくなるだろう。「私はいま幸せだ!満ち足りている!」という人が罪を犯したいと思うだろうか?思わない。罪を犯したいと思う人というのは、「私は幸せだ!」と本心から言えない人だ。不幸な人、何か不満のある人、束縛されている人が犯罪に走る。山上徹也さんがなぜ犯罪に走ったのか?不幸だったからだ。どうしても安部さんでなければならなかったわけではなく、元は統一協会の指導者を狙っていたところ、急遽標的を変更したという。とにかく怒りをぶつける先が欲しかった。幸せな人は、犯罪をしようとなんて思いもしない。私たちがイエス様と同じ喜びにあずかるなら、悪いことなんて一切したいと思わなくなる。ただただ喜びの源である神様を喜ばせる生き方をしたいと思うようになる。
私たちはただ「イエス様すごい!私たちは全然至らない」で終わってはいけない。Ⅰテサロニケ5:16。私たちもイエス様の喜びをなんとしても持ちたいものだ。喜びの油を注いでいただきたい!実は、それはイエス様の願いでもある。イエス様は私たちが御自分と同じ喜びを持つことを願っておられる。ヨハネ17:13。イエス様の喜びを自分の喜びとする秘訣は何か?大きく4つあげよう。

第一に、イエス様による救いをいつも覚えていること。ルカ10:20。何かがうまくいったから喜ぶのではない。人生、何もかもうまくいくわけではないから、うまくいったら喜ぶのでは、私たちの喜びは不安定なものになる。しかし、私たちには変わらない事実がある。天の命の書に名が記されている。すべての罪が赦されている。神の子とされている。天国で永遠の幸せが待っている。この喜びは誰にも奪われない。ヨハネ16:22。サタンも救いの喜びを奪えない!私たちにはいつも喜ぶべき理由がある。救われていることを喜ぼう!この救いの喜びがあれば、いつでも「私は幸せだ」と断言できる。

第二に、イエス様のように喜びの油を受けるには、義を愛し、不法を憎むこと。ヘブライ1:9。罪が聖霊様を悲しませ、人を不幸にし、喜びを奪い去る。これは誰かに喜びを奪われるのではなく、自分で喜びを捨ててしまっているのだ。ダビデは主にある喜びを誰よりも豊かに味わった人だ。彼はその喜びで詩編を歌った。ダビデは、詩編51編で罪によって喜びを一度失ったと告白している。詩編51:12-14。罪を悔い改めて、正しさを追求して生きることは私たちを霊的に健康にする。喜びがないときには、環境や周りの人々ではなく、必ず自分自身に問題がある。あからさまに聖書に罪だと書いてあることでなくても、それをすることに葛藤を覚えることはあるだろうか?そういうものも断ち切ろう。グレーなものがあればそれもなくすに越したことはない。罪を告白して悔い改めよう。義を愛し、不法を憎み、聖霊様の油注ぎを取り戻し、喜びを回復しよう。

第三に、イエス様のように喜びの油を受けるには、愛の交わりを持つこと。聖霊様の九つの実は、愛の次が喜び。愛の交わりによって大きな喜びが生まれる。ルカ10:21-22。イエス様が聖霊様に満たされて、父なる神様に祈っている。ここに三位一体の交わりがあり、その交わりが喜びの油をもたらす。新約でいう油注ぎは、基本的に聖霊様による交わりによって注がれるのだ。そして、兄弟姉妹との交わりも同じように大きな喜びがある。詩編133。ここでは、兄弟がともにいる喜びと油注ぎがセットになっている。主なる神様を中心とした交わりを兄弟姉妹で持つときに、喜びの油が豊かに注がれるのだ。簡単に言えば神様との交わりと兄弟姉妹との交わりによって喜びの油が注がれる。これらは別々のものではなく、一体だ。深いつながりがある。Ⅰヨハネ1:1-4。
神様との交わりとクリスチャン同士の交わりを大事にしよう。神様との交わりを充実するにはどうすればいいか?個人の祈りと賛美の時間を充実させることだ。イエス様は早朝、みんなが眠っている時間に祈った。あるいは夜中、ゲッセマネの園で祈った。その交わりが、どんなことがあっても奪い去ることができない喜びの源となった。聖霊派の人々の中には、聖霊様に満たされることによって、聖なる笑いを経験する人もいる。聖霊様によって腹の底からこみあげてくる笑いが止まらなくなるのだ。天国はよく宴会にたとえられている。私たちは聖霊様に満たされるとき、天国に触れることになる。天国は堅苦しい場所ではなく、笑いが絶えない大宴会だ。
クリスチャン同士の交わりを充実させるにはどうすればいいか?集会に出席することだ。イエス様は四六時中弟子たちと共におられた。私たちも、四六時中とはいかないまでも、定期的に集まることができる。マナ教会ではすばらしいことに週2回集まるし、時々リトリートも行う。そして、ただ集まるだけでなく、主を中心とした交わりを持つのだ。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさいと書いてある。教会では喜びは分かち合って10倍になり、悲しみは分かち合って10分の1になる。もし交わりに何等かの障害があるなら、恨み、憎しみ、分派分裂があるなら、愛し合い、許しあい、イエス様の御名で一つになろう。

第四に、イエス様の御名で祈って祈りを答えていただくこと。ヨハネ16:24。イエス様の御名で祈り、その祈りを聞いていただくことは、大きな喜びをもたらす。それは祈りの内容のものが与えられるというより、答えられること自体がもっと大きな喜びだ。天地万物を創造された神様が、あえてこの私の祈りを聞いて、答えてくださった。これは、自分が神様とつながっているのだ、神様から愛されているのだということを深く実感することになる。聖書のあらゆる御言葉は、その時から今まで以上に一層真実な約束として受け止められるようになる。私たちはすでにこのことを体験しているはずだ。祈り会で祈ったことのいくつかは、すでに答えられている。もしまだ、「この祈りが答えられた」という明確な証しが欠けていると感じるならば、もっと熱心に祈ってみてほしい。自分の夢や野望についてではなく、明らかに神様の御心に適うことについて祈ってみてほしい。この世での夢や野望については、かなえられなくても天国でもっと良いものが与えられる。特に誰かの救いについて、集中的に祈ってみてほしい。その祈りは答えられ、あなたは手ごたえを感じるだろう。一人の罪人が神に立ち帰るときには大きな喜びが天にあると書いてある。その喜びをあなたもともにすることができる。

喜びは表していこう。喜びを押し殺そうとしてはいけない。声や体をもって喜びを表現しよう。詩編に書いてある通りにしよう。詩編5:12。喜び歌う。詩編21:2。喜び踊る。詩編47:2。手を打ち鳴らして、つまり手拍子だ。また、喜び歌い、叫ぶ。大声を出す。こういうことがほかにも山ほど書いてある。声をあげ、歌い、叫び、手を打ち鳴らし、踊る。教会ではもちろん、常日頃から声や体をもって主にある喜びを表していこう。

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