やもめの献金[ルカ21:1-4]

ルカによる福音書
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やもめのように献げていますか?

やもめの献金[ルカ21:1-4]


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【ノート】
律法学者の偽善について、イエス様が5つもの例をあげてこのようになってはならないと言われた。律法学者は反面教師なのだ。それでは、私たちが模範とすべき良いお方は誰か?もちろんイエス・キリストだ。イエス様のことは当時も今もだれもが注目していた。そこで、イエス様は模範とすべき例として、当時最も注目されないであろう人物の最も注目されないであろう行為をあげられた。やもめの献金だ。

1-4節。やもめの献金。これはあまりにも有名な内容だ。しかし、ここで語られている真理を私たちは本当に理解していて、実践しているかはまた別の話だ。この献金のことをイエス様が「だれよりもたくさん入れた」つまり、だれよりも優れた献げ物だった。最も神様に貴いものと言われたからには、献金に限らず、私たちのあらゆる献げ物、それが奉仕であれ、伝道であれ何であれ、このやもめの献げ方に習わなければならないということだ。私たちはやもめのように献げているだろうか?

まず、背景について考えてみよう。ここはどこかというなら、神殿だ。神殿で賽銭箱があったのは、婦人の庭だ。異邦人の庭よりも内側で、イスラエルの庭の外側に位置した真ん中らへんの区画だ。そこには「らっぱ」という名前のたくさんの賽銭箱が13箱あった。らっぱは上部が細く、下に行くにつれて広いらっぱの形をしていた。13の賽銭箱にはそれぞれの献納するものの用途が決まっていた。祭壇で燃やす香料用とか、金の器用の維持費といった用途だった。

どのくらいの金額を入れたかはだいたい音でわかる。群衆たちは金持ちがたくさんのお金をらっぱに投げ入れる音を聞いて、「おお!」と歓声を上げたり、「今の人が一番入れたに違いない」と予想したりしたことだろう。お金持ちがお金を惜しげなく使うというのは、お金持ちではない人には真似できないすごいことなので、それだけでちょっとした見ものだったに違いない。今でいえば有名YouTuberが惜しげなくお金を使うのをたくさんの人が見るのと同じ感覚かもしれない。金持ちはというと、多くの人から自分の献金が注目されることを楽しんだに違いない。献金という宗教的に良いことをしながら、人々からの注目や賞賛も受けることができるというわけだ。

イエス様も賽銭箱のそばで人々が献金するのを見ておられた。しかし、イエス様はほかの人が見るようには見ていなかった。今でも、私たちが献げ物をするときに、イエス様が見ておられることを覚えよう。最もイエス様が注目したのは、人々から最も注目されなかった人物だった。貧しいやもめだ。彼女はレプトン銅貨二枚を入れた。レプトン銅貨とは、1デナリオンの128分の1だ。1デナリオンは1日の労働賃金。1万円だとするなら2レプトンは200円くらいだ。200円!1食分にも満たない!その音を聞いた人々は、そのわずか音、つまり少ない金額に何の興味も覚えなかった。しかし、イエス様は「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われた。生活費を全部入れたからだ。この内容からイエス様が喜ばれる高価な献げ物の特徴を3つお伝えする。

第一に、イエス様は真心からの献げ物を喜んでくださる。やもめの献金は、本来は誰にも知られないはずだった!イエス様以外の誰もそのやもめが生活費を全部入れたなんて知らなかった。むしろ群衆の中には、「あの人だけ少ししか入れてないな」くらいに思った人がいたかもしれない。
ただイエス様がここで取り上げられたので、初めてスポットライトがあたった。実際、人知れず献げられたやもめの献金がいっぱいあるだろう。YouTubeの視聴者から献金をいただくことがある。私はその人たちの顔も知らなければ、経済状況も知らない。その中にはきっとやもめの献金もあるだろう。それはイエス様に喜ばれる真心からの献げ物だ。
注目されないということは、やもめの献金の性質はファリサイ派の人々と律法学者たちやここに出てくる金持ちたちとは全然違う。彼らは、良いことをしているということについて、意図的に人々の注目を浴びることを狙っていた。実際、それはうまくいっただろう。やもめの献金は人から注目を狙いとしない。このやもめはただ神様への感謝と賛美の気持ちを少しでも表したい思いに駆り立てられて、純粋にただ神様に献げた。すべての献げ物がそうであるべきだ。
私たちが献げる献金についても、奉仕についても、伝道についても、誰にも知られないかもしれない。誰も注目してくれないかもしれない。誰もほめてくれないかもしれない。しかし、それでいい。人に知られるためにやるのではないのだから。むしろ、知られない方がよい。知られたらすでに報いを受けていることになり、天の報いをいただけなくなる。多くの場合、自分で言いさえしなければ知られないようにすることができる。イエス様は「右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」と言われた。善い事をしたら徹底的に隠せということだ。人間はその逆で、善いことをしたら大声で宣伝するけど、悪いことをしたら徹底的に隠そうとするのではないか。それではいけない。善いことをしたら、時に、あえて、完全にだまっているようにしよう。証しは積極的にしよう。主が何をしてくださったかは語ろう。でも、自分の献身度とか熱心さをひたすらアピールすることは悪いことだ。だまっていよう。
だまっていれば、私たちの献げ物の動機が、より純粋で、より自発的なものとなる。誰も知らない善いことをするということは、自然と誰かに言われたから本当は嫌だけど、仕方なくやるというのではなく、自発的に献げようとして献げるものとなる。また、誰も知らないならその動機は、ただただ神様を喜ばせるものとなる。
それでも知られずに済むことはない。そう、誰も知らなくても知っておられる方がいる。誰も知らなくてもイエス様が今も知っておられる。誰も見てくれなくてもイエス様が今も見ておられる。誰もほめてくれなくても、イエス様がほめてくださる。「だれよりもたくさん入れた」と。イエス様からほめていただくことだけに満足する者となろう。

第二に、イエス様はお金ではなく犠牲の大きさで測られる。まず、神殿の祭司としては、たくさん献げる金持ちの存在がありがたかっただろう。そして、やもめの献金は、少しも顧みられることがなかっただろう。これっぽっちか。悪いことに、初期のころの教会にも、そういう態度をとる人がいた。ヤコブ2:2-7。ヤコブがこういうことを書いているのはなぜか?教会の中にこういう人たちがいたからだ。もちろん教会は奴隷が主人と一緒に座って、同じパンと杯をもって聖餐にあずかる唯一の場、神の御前ですべての人が平等の場、特別な場だった。しかし、中にはお金持ちをひいきして、貧しい人をないがしろにする人がいた。現代の教会でも、お金持ちがたくさん献金してくれるということで、お金持ちをありがたく思い、お金持ちだからということで長老や執事に立てて、お金持ちの世俗的な思いに左右されてしまい堕落してしまうということがある。私たちはそんなことがあってはならない。イエス様は献金額については、全然注目されなかった。神様にはお金が必要ない。
神様はすべてのものを所有しておられ、何でもおできになる。教会の経済は確かに献金で支えられているが、教会を運営するのは牧師ではない。神であり、大牧者なるイエス様が教会の主だ。必要なことはイエス様が何とかしてくださる。だから、私たちもイエス様にならって、献金額に注目しなくていいし、注目すべきではない。金持ちと貧しい人ということで差別することなく、イエス様のように見よう。
イエス様は犠牲の大きさで測られた。金持ちは献金の金額こそ大きかったが、有り余る中から献げた。金持ちにとって、それらを献げることは痛くもかゆくもなかった。それでは献げ物とは言えない。しかし、やもめの献げ物は、金額こそ少なかったが、彼女の全財産だった。それで神殿のためにどれだけ足しになるかは関係ない。教会の会計のどれだけの足しになるかも関係ない。献げ物の価値は、犠牲の大きさによって決まる。献げ物はそれを献げるために何か買おうとしていたものをあきらめなければならないとか、節制をしなければならないとか、余計に働かなければならないといった時に、初めて神様への愛のあかしとなる。ある兄弟は、休職中で献金をささげられなくて心苦しいのであえて日雇いの仕事をして得た収入をささげた。ある高校生の姉妹は、学校に通い、教会のすべての集会に参加した上で、いつもアルバイトをして得たお金を惜しみなくささげていた。

第三に、イエス様は信仰によってすべてを献げることを喜ぶ。すべてをささげるには、信仰が必要だ。やもめは生活費のすべてを献げた。そうすると、次の食事をどうするつもりだったのだろうか?やもめにはあてがあった。神様が養ってくださるというあてだ。荒れ野にマナをふらせて40年間イスラエルを養った神様が私に必要なものを与えてくださるに違いない。私が信じるのは、このやもめはこの後も問題なく普通に生活できたに違いないということだ。家に帰ったらみたら誰かがお金や食事を届けてくれただろう。財布を開いたらないはずのお金が出てきただろう。そういうことはある。今でもある。誰にでもあるわけではなく、全面的に神様を信頼しきっている人に、差し迫る必要があるときにそういうことが起こる。私もそういう経験をしたことがある。私たちは池袋マナ教会という教会だ。マナだ。マナは日々の糧を必ず与えてくださる神様に対する全面的な信頼を象徴する。日用の糧を今日も与えたまえは、絶対に裏切られることがない。さあ、私たちはこれをどう適用しようか?文字通りすべてを献金するか?神様からはっきりとそう示されたらそうすればよい。神様はマナをふらせてあなたを養ってくださるだろう。そういう例はある。しかし、そうでないなら、神様が与えてくださったものを少しも無駄にならないように有効利用すればよい。全部を神様に喜ばれるように使うのだ。
新旧約聖書を通して、十分の一を献げるということが一つの指標となる。しかし、新約聖書が特に強調する献金は十分の十だ。やもめは生活費のすべてをささげた。イエス様はそのことを特に取り上げた。また、イエス様は金持ちの議員に対して、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われた。共通するのは、全財産を献げるということだ。その適用としては、財産のすべてを神様からの賜物として、全面的に神様に喜ばれるように使うということだ。自分の必要のため、家族の必要のため、信仰の家族の必要のためにすべての財産を使う。必要なことには惜しみなくお金を使おう。もし、これはよいのかどうか迷うところがあれば神様に逐一聞くといい。神様は御言葉と聖霊様によるインスピレーションによって答えてくださるだろう。それが十分の十をささげるということだ。
すべてをささげて、イエス様がご覧になって「だれよりもたくさん入れた」と言われる生き方をする私たちになろう。

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