終末のしるしと約束[ルカ21:5-19]

ルカによる福音書
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すべてが崩れ去るときにも、希望を保つことができます。
恐ろしいしるしはすばらしい約束によって私たちを堅く立たせます。

終末のしるしと約束[ルカ21:5-19]


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【ノート】
今回の箇所でイエス様は御自分の再臨と世の終わりの予兆について語られる。イエス様の再臨は迫っている。多くの聖書預言がすでに実現した。1948年にイスラエルが再建国された。パウロはⅡテサロニケで背教を予告した。そのように、自由主義神学や世に染まって道徳的教えを放棄するといった教会の「背教」が確かに起きている。世界のグローバル化の進行は反キリストが来る土台となっている。もういつイエス様が来られてもおかしくない。だから、イエス様の預言と警告を聞いて悟り、再臨に万全な備えをする者となろう。

5-6節。神殿がいかに立派だったか考えてみよう。当時の第二神殿は、捕囚から帰還した人々が建てたが、最初はそこまで立派なものではなかった。神殿の基礎を据えたとき、昔の神殿を知っている人々はどんな反応をしたか?エズラ3:12-13。泣いた。うれし泣きではない。「あのソロモンが建てた神殿に比べて、我々が建てようとしている神殿はなんてみすぼらしいんだ」そんな感じだった。しかし、後に神殿は改修工事がなされた。ヘロデというエドム人がローマの初代皇帝と親しかった。彼はアウグストゥスと共にアントニウスと戦って勝利したことで、イスラエルの地の王として認められた。彼のことをヘロデ大王という。あのイエス様が生まれたときに殺してしまおうとした人物だ。しかし、律法では異邦人を王に立ててはならなかった。一応当時エドム人はユダヤ人化し、ユダヤ教徒になってはいたが、血筋を重んじるユダヤ人からしてみれば、ヘロデは異邦人同然だった。それで、ヘロデ大王はユダヤ人の歓心を買うために、ユダヤ人が最も大事にしているエルサレムの神殿を改修することにした。その工事には莫大な費用と時間が注がれた。工事はBC20年頃に始まり、AD64年にやっと完成したと言われている。イエス様がご覧になっていたとき、まだ完成はしていなかったが、それは、それは壮麗な神殿が目の前にあった。回廊の柱は白い大理石の円柱で高さ12mにおよび、繋ぎ目のない1つの石でできていた。奉納物の一つには、純金でできたぶどうの木があり、その房は人間の背丈ほどもあった。神殿の本体は、すべて重厚な金の板でおおわれていた。朝日がのぼるとまばゆく輝き、雪山のように純白に見えるほどだった。それを見た人々はその口々に褒めたたえた。イエス様のすぐそばにも、「なんとすばらしい神殿、大理石、奉納物だ!ハレルヤ!」と感動している人がいた。イエス様はその感動を打ち砕く。6節。神殿は粉微塵になる。そのことは紀元70年のエルサレム陥落の時に実現した。神殿に使われていた黄金を略奪するためにローマ兵は神殿を破壊しつくした。それは歴史的事実としてイエス様の預言通りに起こった。そして、この神殿崩壊のことはこの後、イエス様の再臨と世の終わりと関連して語られている。ここから悟らなければならないのは、世の終わりには、目に映るものはそれがどんなにすばらしく見えても、すべて滅びるということだ。見えるものは例外なく滅び去る。栄光に輝く神殿すら完全に崩壊した。それがたとえ世の富、技術、時間を結集して築かれたものであったとしても、イエス様の再臨の時には跡形もなく消え去る。立派な建物、高級車、ブランドの衣服も、みんな消え去る。特に、神殿という建物が崩れ去った。建物は人生を表すもの。私たちは何によって人生を築いているか?私たちは、人生という建物を決して目に見えるものによって建てようとしてはならないということがわかる。見えるものは全部崩れ去り何も残らない。見えないものこそが残る。Ⅱコリント4:18。霊的な人になろう。信仰と希望と愛。御言葉。御霊の実と御霊の賜物。天の報いをもたらす善い行い。福音伝道。見えないものによって、崩れることのない人生を築こう。

7-19節。7節で弟子たちは直接的には神殿崩壊の時期を聞いている。しかし、イエス様は時期を答えていない。その代わりにそのときに見られるしるしを語っておられる。そして、イエス様は、神殿崩壊が起こるしるしだけでなく、世の終わりのしるしも同時に語っておられる。つまり、私たちの人生で経験したことやこれから経験しうることについても語っておられる。私たちにあてはまる。神殿崩壊がイエス様の預言通り起こった。世の終わりのしるしも必ずすべてこの通りに起こる。イエス様には時代のしるしが見える。イエス様についていけば間違いない。
ここでは恐ろしいしるしとすばらしい約束が同時に語られている。すばらしい約束に対する信仰が、恐ろしいしるしを乗り越えることを可能にする。終末のしるしについて、大きく3つお伝えする。

第一に、大勢の偽物が現れる。偽メシア、偽預言者だ。イエス様が言われた通り、世界中に無数の偽物が現れ、異端が現れた。異端には惑わされてはならないし、ついて行ってはならない。そもそも異端にだまされるなんて、本来絶対にあってはならないことだ。イエス様は私たちの主であり神様だ。その方と偽者の区別がつかないなんてことはありえない。もしだまされるなら、自分の主がどのような方かよくわかっていないということだ。これは非常に情けないことだ。それは、自分の家族や配偶者がだれかわからなくなるよりももっとひどいことだ。多くの日本の現代人は、家族と疎遠になっているので、振り込め詐欺にだまされる。もし家族と頻繁にやりとりしていれば、家族のことを知り尽くしていれば、一言声を聞くだけですぐに本物か偽物かわかるだろう。クリスチャンはキリストのことを知り尽くしていて当然だ。「わたしの羊は、わたしの声を聴き分ける」とイエス様は言われた。その方の御言葉をいつも読み、その方の御声をいつも聞き、その方と親しく交わりをし、「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と言うのだ。そういうクリスチャンはキリストに会えば、すぐにキリストだってわかるし、偽物はすぐ偽物だってわかる。いつも交わりを持っているから。だから、本物のキリストも「わたしがそれだ」なんて絶対に言わない。いう必要がないはずだ。キリストを知り尽くし、一目見るだけで、御声を一言聞くだけで、本物か偽物かわかる者になろう。
そして、本物のキリストは、時が近づいたなどとは言わない。再臨のキリストがおられるのに、時が近づいてしかいないというのはありえない。そのとき、キリストは「時が満ちた!」と言われる。

第二に、大規模な異変が次々起こる。戦争、大きな地震、飢饉、疫病、天変地異について書いてある。大規模なのでクリスチャンであろうがなかろうがこれらに遭遇することになる。戦争単発で終わるなら、あわてなくてよい。戦争が起こりそうだからといって、毎回「ハルマゲドンだ!世界が終わる!」と大騒ぎしなくてよい。実際、ウクライナの戦争が始まるときにも終末について説く論者が現れたが、それはイエス様の教えに反する。イエス様は「こういうことは起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と言われた。イエス様はいつも現実を語る。確かに戦争は歴史上ずっと起こってきた。今の世が続く限りなくならない。イエス様が来られて新しい世界が始まるまでは、戦争は「起こるに決まっている」。世の終わりでなくても起こる。
世の終わりには、これらが同時多発的に次々と起こる。戦争が起こったと思ったら、震度7の大地震が起こり、害虫や異常気象により食糧問題がいよいよ深刻化し、新しいウイルスのパンデミックが宣言され、空からは隕石が降ってくる。
一つだけでも大打撃なのに、全部がふりかかってくる。エルサレム神殿のような人生を築いていた人はみんな陥落してしまう。しかし、私たちには希望がある。すべて主が言われた通りだ。救いは近い!携挙は近い!まもなく主が来られる!世界がひっくりかえっても、私たちにはいつも希望がある!決して倒れないものを持っている!

第三に、苛烈な迫害を受ける。大規模な異変は、全世界的なもので、あらゆる人々が巻き込まれるはずのものだった。迫害については、信仰者ばかりが集中攻撃を受ける。逮捕投獄され、裁判にかけられ、最も親しいはずの人々から裏切られ、すべての人々から憎まれ、最後は殺されて殉教の死を遂げる。考えうる最悪の経験といっていい。しかも、これは決して大げさなことではない。実際に使徒たちが経験したことだ。使徒パウロはこれらすべてを経験した。
私は艱難前携挙説を信じる。しかし、これらの内容が自分たちと無関係だとは決して言えない。使徒たちがすでに経験したということは、携挙のある前の教会時代にこれらのことがいつ自分たちの身にふりかかってもおかしくないということだ。2千年前にさかのぼるまでもなく、ほんの少し前の、戦時中の日本でも、お隣の韓国でも、信仰のゆえに命をとられた人々がいた。
キリストは私たちのために命を捨てた。だから、私たちもキリストのゆえに命を捨てることを覚悟しよう。信仰というものはそういうものだ。信仰をもって宣言しよう。たとえ今そういう信仰に至っていないと思ったとしても、宣言することによって効力を発揮する。宣言した言葉が肉となって私たちの内に宿り、殉教者の信仰になる。「私は、キリストのためなら、命を捨てる」と。しかも、信仰の目で見れば、迫害は私たちにとって良いことだ。

イエス様は迫害に伴う約束を3つ語っておられる。
第一に、迫害は証しをする機会になる。迫害者たちはクリスチャンを王や総督の前にひっぱっていくという。王や総督といえば、福音を伝えたい、証しをしたいと思ってもなかなか会うことすら難しい相手だ。しかし、使徒パウロは総督のフェリクスと後任のフェストゥスに証しし、されにはアグリッパ王に証しし、最後は皇帝ネロにまで証しした。迫害のおかげで普通だったら絶対に手の届かない相手に福音を伝えることができたのだ。ハレルヤ!そこまで偉い人々に伝えることができなかったとしても、迫害は常に証しの機会となる。迫害者は強く反対すればするほど、その人たちにしっかりと説明する機会が得られる。だから、迫害をチャンスととらえ、その機会を思いっきり利用しよう。とことん語ろう。でも、何を語ればよいかわからなくならないだろうか?心配いらない。

第二に、迫害の最中にもイエス様がともにおられて語るべき言葉を語ってくださる。私たちは逮捕投獄され、裁判にかけられたとしても、いつも一人ではない。そこに主が共におられる。主が弁明してくださる。だから、どんなことを語ろうかと取り越し苦労をしてはならない。ちょうど20章でイエス様は反対者たちが言葉尻をとらえて貶めようと議論をしかけたとき、どんな反対者でも、対抗も反論もできない言葉と知恵で語られた!それはイエス様があらかじめ反対者たちの質問傾向を予習していたからできたことではなく、神業だ。それと同じことを私たちも期待できる。伝道をしていると、時々考えてもみなかった質問を受け、考えてもみなかった答えを自分の口がするということがある。ただし、これは乱用してはならない教えだ。「いざとなればいつでもイエス様が語るべきことを教えてくださる」からといって、御言葉を学ばなくてよいとか、メッセージの準備を何もしなくてよいとかいうことではない。
これは日ごろから御言葉に親しんでいる人、いつも御言葉を語る備えをしている人、イエス様と共に歩んでいる人が迫害されて危機的状況に陥ったとき、ちょうどその場に適した御言葉を主が啓示してくださるということだ。そういう特殊な状況で何を話すかまでは考えなくてよい。そういうときは恐れることなく、主が知恵と言葉を与えてくださることを信頼しよう。

第三に、迫害され殉教したとしても、髪の毛一本すら失われることがない。イエス様は殺されると言いながらも、髪の毛の一本も決してなくならないと言われる。これは矛盾していないか?矛盾していない!迫害者が殺すことのできるのは、私たちの今の肉体だけだ。しかし、迫害者たちは、私たちの復活の体については髪の毛一本すら傷つけることができない!何もすることができない!私たちは永遠の命を持っている!肉体の死は、私たちが天国に行くタイミングの問題だ!肉体の死は、私たちの永遠のものを何も奪うことはできない!私たちは究極的にはいつも完全に安全だ!アーメン。
楽しみな旅行に行くとなると、その日が待ち遠しくて仕方なくなる。その日を迎えるために、大変な仕事もがんばれるし、苦痛も耐え忍べる。天国はもっと良い場所だ。天国に行くためなら、終末のしるしがすべて実現し、すべてのものが倒れてしまい、この世で想像しうる最悪の状況に陥ったとしても、私たちは耐え忍ぶことができる。

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