12歳で人生が終わろうとしている少女と12年間苦しみ続けた女性を救います。
ヤイロの一人娘と長血の女の救い[ルカ8:40-56]
【ノート】
40節。イエス様はガリラヤ湖を渡ってゲラサ人の地に行ったが、帰ってくると、大群衆がイエス様を待ち受けていた。イエス様はいつ戻るとも何とも約束していない。おまけにガリラヤ湖では船が転覆しそうな大嵐が起こった。しかし、群衆たちはただ、イエス様がきっと戻ってくる、必ず戻ってくるとじっと、ずっと、待ち続けていた。大した信仰だ!私たちも、イエス様の再臨を今か今かと待ち続け、イエス様が来られるときには喜び迎えられる者となろう。
特にイエス様の到来を待ち望んでいたのは、ヤイロだろう。41-42節。ヤイロとは、「彼は輝かす」という意味。ヤイロはイエス様の栄光を輝かす上で用いられた。
会堂長とは、牧師というよりは、管理者であって、ユダヤ人コミュニティーの中では指導者にあたる人がなるものだ。つまり、彼はその近辺で望むことのできる最も高い地位についたということ。金持ちで、人望もあっただろう。そして、子供は多くなかったが、大切な一人娘は、12歳ぐらい。つまりイスラエルの女性としては、ちょうど成人を迎える時期だった。満ち足りていて、幸せの絶頂というときに、この家庭に悲劇が襲った。たった一人の娘が死にかけたのだ。ヤイロが唯一期待できたのは、いつも大勢の群衆に囲まれていたイエス様だ。
ヤイロは、人々の指導者であり、尊敬されていた人だ。そして、イエス様は、ファリサイ派から悪く思われていたので、ほとんどの会堂はイエス様に対して扉を閉ざすようになりつつあった。ヤイロ自身、イエス様のことを認めておらず、イエス様を会堂から締め出ていた人だったかもしれない。しかし、ヤイロは一人娘の危機的状況にあって、プライドを捨てた。大勢の人が見ている前で、イエス様の足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるように願った。イエス様からの救いをはばむ最たるものは、プライドだろう。自分の立場や自分が強い者、賢い者だというプライドが捨てられないと、どうなるか。「私のような者がひれ伏すことはできない」「神を信じるのは弱い人間のすること」「祈りが聞かれるとか神による癒しなんて信じるのは頭の悪い人間がすること」そうやってせっかくイエス様から救っていただける機会を自分で逃してしまう。プライドを守ろうとするあまり、自分や大切な人たちの命を失うことがありうる。いつまでも意地を張っていてはいけない。大切なものを失って取り返しのつかないことになる前に、ヤイロのように、イエス様の足もとにひれ伏して、祈ることが幸いだ。「今さらそうするのは虫が良すぎるのではないか?」と考える必要もない。イエス様はたとえ何十年も頑強に主を拒んできた人であっても、その悔い改めを歓迎してくださる。イエス様はヤイロの願いを聞き入れて、その家に一緒に向かった。過去のあなたがどうであれ、へりくだったあなたを見て、主はあなたの祈りに耳を傾けてくださる。
ヤイロはイエス様が来てくださるということで、「なんとかなるかもしれない」という希望を持った。娘は今にも死にそうだったので、先を急ぎたかったが、群衆が取り囲んでいるので、ゆっくりとしか進めない。家までの距離が今までになく長く感じたことだろう。しかもそこで、タイムロスをする別の事件が発生する。
43節。この女性は十二年間も婦人病に苦しめられていた。血を流すということは、律法で汚れたものとみなされてしまう。それで、この女性は人との交際がろくにできない、公衆の面前に出ることができない状況だった。「コロナ禍でもう2年も行動制限がされている!」それをつらく思う人もいるだろう。この女性は十二年だ。医者に全財産を使い果たしたのに、よくならなかった。マルコによる福音書では「ひどく苦しめられ、何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と書いてあるが、医者であるルカはその部分には同意しなかった。いずれにせよ、お金では解決できないことがある。医学には限界がある。ただの医者には、完治できない病気の方がずっと多い。医者にかかるなとはいわない。
しかし、私たちはありとあらゆる病気や患いを癒されたイエス様を知っているのだから、少なくとも医者のところまで足を運び、多額のお金を払うことと同じくらいの期待と労力を、イエス様の十字架でなされた癒しの御業を自分に適用することにかけなければつり合いがとれない。十字架は、イエス様と私たちの立場を交換するものだ。イエス様が十字架の上で私たちのためにすべての呪いを引き受けてくださった。十字架の上でイエス様が罪、汚れ、傷、恥、貧しさ、拒絶、渇きを経験されたのは、私たちの呪いを引き受けて、私たちは代わりにイエス様が持っておられた神の子としてのあらゆる祝福で満たされるためだ。イザヤ書には、その打たれた傷によって、私たちは癒されたと書いてある。癒しの御業はすでに成し遂げられている。私たちに求められているのは、その御言葉への信仰を自分に適用することで活性化させることだ。薬は一日三回飲む。同じように、御言葉への信仰を一日三回自分に適用する宣言をしよう。「主よ、御国の健康が与えられていることに感謝します。主が打たれた傷によって私は癒されました。」やってみよう。
さて、婦人病の女性は人に気づかれないように群衆の中で隠密行動をとっていた。忍者のようにひそかにイエス様に忍び寄った。しかし、自分が何者で、何を癒してほしいのかということを説明することはできない。大勢の前で汚れた者だと思われたくない。そこで、この女性は最大限できることをした。イエス様に触れることだ。44節。女性はこのように信じた。「私に最大限できるのことは、イエス様に触れるところまでだ。私が自分のできるところを最大限行うなら、神はその信仰に答えてくださるに違いない。この方の房に触れさえすれば、癒されるに違いない。」それで、イエス様の服の房に触れた。すると、直ちに出血がとまって癒された!私たちができることをするときに、主は働いてくださる。信仰を発揮して行動を起こすときに癒しは成される。特に服の房に触れるというのは迷信的な行動ではなく、御言葉による根拠のあることだ。
イエス様の服の房とは何のことだろうか?当時の敬虔なユダヤ人の男性は飾りの房が四隅についた四角い上着を着ていた。その房は神の御言葉とその権威を象徴する。民数記15:38-40。現代でも超正統派ユダヤ人はタリートと呼ばれる飾りの房がついた祈りのショールをつける習慣がある。この飾りふさにはモーセが神より受けた613の律法にちなんで、613という意味を持つ結び目がある。(飾りふさはツィツィート。その語が示すゲマトリアでの値は600。各房飾りが8つの糸(折り曲げた状態時)と5つの結び目を有し、合計で13。全数値の合計は613。)その結び目のひもの巻き方によって「ヤハウェ」という神様の御名を表現していた。ひもの青色は「神聖」を意味した。つまり、この飾りふさのついた衣を着るということは、律法をつけて歩いているようなもので、それを見るたびに、神の戒めを思い巡らし、神によって聖別された民であることを再確認することができた。そういうわけで、衣服の房は、神の御言葉と権威を象徴するものなのだ。そして、イエス様こそ生ける神の御言葉であり、天と地の一切の権威を授かっているお方だ。女性は、信仰をもって、イエス様の御言葉と権威に触れて癒されたわけだ。ハレルヤ!信仰によってイエス様の御言葉と権威にあずかる私たちになろう。そうすれば、癒しや解放を経験することになる。
45-46節。大勢の人々が押し合いへりあいしていて、意図せずイエス様に触れるということはあった。しかし、何も起こらず、イエス様も気にも留めなかった。ただ、その女性が信仰をもってイエス様に触れたときにだけ、イエス様から力が出ていった。イエス様もそれをはっきり感じ取られた。「イエス様は必ず癒してくださる」という信仰をもってイエス様に近づくときだけ、私たちはイエス様の内にある力を受けることができる。
イエス様はヤイロの娘を癒しに行く道中だったが、あえて足をとめた。12歳で死にかけている少女と12年間慢性的に苦しんでいる女性、どちらの方が大変だろうか?どちらと一概には言えない。死に比べれば、慢性的な病気が取るに足りないとは言えない。どちらもイエス様の深い憐れみの対象であり、イエス様はどちらも見捨てることができない。それで、足を止められた。
47-48節。その女性は怒られると思った。なぜ汚れているのに触れたのか!なぜ何のことわりもなく勝手に私の力をとったのか!震えながら事の次第を正直に告白した。イエス様は怒るつもりなんて全くない!どんな汚れもイエス様を汚すことはできないし、イエス様の内にある無限の力はどれだけ使ってもなくならない。イエス様は喜んで私たちの癒しのためにその力を提供してくださる。イエス様がどうしても癒された人を特定したのは、怒るためではなく、アフターフォローのためだ。救われたことを知らせ、安心させるためだ。イエス様は第一声で「娘よ!」と言われた。もう血によって汚れた女性ではなく、イエス様によって変えられ、清められ、神に受け入れられる者となったということを示している。「あなたの信仰があなたを救った」という。本当はイエス様が救ったのにそう言ってくださる。それは信仰を認め、褒めて、励ますためだ。どんな医者も治せなかったのに、自分の信仰で治した!その勝利の経験は、12年間でずたずたになったアイデンティティを回復した。引き続きその信仰をもって、しっかりと御国にまで行くことをイエス様は望んでおられる。そして、それは、大勢の人々の前でこの女性の立場を回復することにもなった。イエス様が救いを宣言したのだから、もう誰もこの女性を社会から締め出すことはできない。最後に、イエス様は「安心していきなさい」と言われたことで、何のお咎めもないことを明らかにした。それによって、「人に触れてしまった」という罪悪感から解放した。
49-50節。思わぬタイムロスをしたせいで、ヤイロの娘は死んでしまった!遣わされてきた人は、さすがに死んでしまったら、さしものイエス様であっても、もう何もしてあげられることはないと確信していた。もうイエス様を家まで来てもらう必要もないと。ところが、イエス様は足を止めず、そのまま家に向かわれた。イエス様にとって、死は、人を救う上で障害にならない。ただ、風前の灯火のヤイロの信仰を強めるために、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われた。その信仰が救いの鍵となるからだ。もし誰かが、自分の家族や親しい友人が救われることについて、あきらめかけることがあれば、このイエス様の御言葉に耳を傾けよう。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、救われる。」これはイエス様が死んでしまった人の救いについて言われたことだ。生きている人であればなおさら、その人をあきらめてはならない。人は言うかもしれない。「もう無理だ」と。イエス様は言われる。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。
51節。イエス様はなぜほかの人々を入れないようにしたのか。死人を生き返らせるには、信仰が必要となる。そういう状況では、不信仰が邪魔になる。信仰の弱い人を一時的に除外して、十二
弟子の中でも中心の三人弟子の少数精鋭とイエス様を信じて家に迎え入れたヤイロ夫妻だけにしたのだ。
52-53節。もう泣き女が家にいた。故人の死を悼む上では泣き男や泣き女は必要だった。ところが、イエス様は泣き女に「泣くな」という。イエス様にあって悲しむということが的外れになることがある。悲しみは失ったもののことをあきらめることによって生じる感情だが、イエス様は不可能を可能にして失った者を回復してくださるからだ。私たちはイエス様が共におられるのに、あきらめが早すぎることはないか。主にあって解決する糸口があるのに、あきらめが早すぎて無駄な涙を流すことがあるのではないか。
54-55節。娘が生き返ったとき、霊が戻った。このことから肉体的な死とは霊が体から分離することだとわかる。霊的な死は神と分離すること、永遠の死は天国と分離することだ。このときの戻るというギリシア語にあたる言葉は、エピストレフォーで立ち帰るという意味を含む言葉。霊がイエス様にあって神に立ち帰ることが、復活なのだ。イエス様は娘に食事を与えるように指示した。驚きのあまり両親は何をして良いかわからなかっただろう。必要なのは、普通に、娘に普段から必要なものを与えることだ。
56節。イエス様は娘が生き返った奇跡を誰にも話さないように命じられた。罪からの救い主ではなく、ただ奇跡を行う便利なメシアという間違ったメシア観が伝わらないようにするためだ。こんなすごい奇跡が起こってもイエス様は落ち着いていて平常運転。細やかな配慮を失わない。神御自身であるイエス様の感覚では死者を生き返らせることはごく当然で常識的なことだった。大したことないことを大袈裟に話す人もいれば、イエス様のように偉大な奇跡をあえて人々に知られないようにする人もいる。死者をも何の問題もないかのように救ってしまうイエス様の御名を賛美しよう。
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