もうすぐ夏だ、もうすぐ世界の終わりだと悟らせるサインです。
いちじくの木のたとえ[ルカ21:29-38]
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【ノート】
イエス様は7節からずっと終わりの時のしるしについて教えて来られた。イエス様が再臨されて、世界が終わる前にどのような前兆があるのかを話された。その内容は、世界ではあらゆる場所で戦争、大地震、飢饉、疫病、異常気象、天体の異常、自然法則の乱れなどが同時多発的に起こる。人々はなす術もなく翻弄され、恐ろしさに気を失ってしまうほどの状態になる。クリスチャンに対しては迫害とそれに伴うめざましい聖霊様の力の働きが見られる。しかし、クリスチャンにはいつも希望がある。人々にとってはただただ最悪な出来事であったとしても、クリスチャンにとっては、イエス様が来られて完全な解放を経験する前兆だからだ。弱い肉体、罪、サタンの支配からの完全な解放だ。
29-33節ではこれらのしるしをどのようにとらえるべきかを教えている。いちじくに葉が出始めるのは夏の前兆だ。葉が出始めるのは4月から5月で、それを見ると「もうすぐ夏だ」とわかる。5月ならまだ夏真っ盛りではない。気温がそこまで高くない。しかし、確実に夏が目前に迫っているということを知ることができる。「いや、日本にいちじくの木なんかないからピンと来ない」という方もいるだろう。イエス様はそういう方のために29節で、「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」と言われた。他の木でも良い。日本でも4月から5月は新緑の季節で木々から葉が出始める。すると、もうすぐ夏だとわかる。夏という言葉はヘブライ語では終末、終わりの時と同じ語源を持つ。ユダヤ人にとって四季は秋から始まり、最後が夏だ。それは、ユダヤ人の政治暦では新年が秋に始まるからだ。いちじくの葉は「もうすぐ夏だ、もうすぐ一年の終わりだ」というサインなのだ。同じように、イエス様が終わりの時のしるしとして語られたことが次々と起こるのを見たら、「もうすぐ世の終わりだ」「もうすぐイエス様が来られて神の国が地上に実現する」と悟らなければならない。
私たちの人生の中でも、世界に戦争、地震、疫病、異常気象などが起こるのを経験している。阪神大震災や東日本大震災があったし、新型インフルエンザや新型コロナウイルスの蔓延を経験した。ロシアとウクライナの戦争が起きたかと思えば、イスラエルとガザの戦争が起きている。台湾有事も近いかもしれない。これらのこと見て、私たちは確実に世の終わりが近づいているということを悟らなければならない。人類の歴史は最終コーナーを回りつつあるかもしれない。もういつイエス様が来られてもおかしくないものとして備えていなければならない。
それと同時に、「もう今すぐにでも世界が終わるのだ!」と慌てふためくべきではない。イエス様は私たちの判断を慎重にさせるために、32節で「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われた。現時点で、イエス様が御言葉の全部が実現しているかというと、まだのものがある。少なくとも天体が揺り動かされると言えるほどのことはまだ起こっていない。また、戦争、地震、飢饉、疫病についても全部が全世界的に深刻な状況になっているとは言い難いかもしれない。今まで、社会が不安に陥るたびに「すぐにでも世界が終わる」と騒ぎ立てる人々が必ず出た。しかし、世界はしぶとく存続している。イエス様が言われた通り、「すべてのことが起こるまでは」世界は続くのだ。だから、私たちがとるべき態度は、イスラエルとガザの戦争などを見て、「神の国は確実に近づいている。いつイエス様が来られても良いように、罪を悔い改めて、日々敬虔な生き方をして備えよう」と悟ると同時に、「これが起こったからもう世界が終わる」というふうに大騒ぎしないことだ。
でも、いつかはイエス様が言われたことがすべてのことが起こって、世界が終わるときが来る。世界が終わるときに頼りになるものは何か?私がイスラエルとガザの戦争について調べたとき、Yahooニュースで世界が黙示録のような様相を呈しているという記事を見つけた。もっともな内容だった。誰が書いているのか最後らへんを読んでみたら、「戦争によってゴールドと原油価格が上昇している。激動を乗り越えるリテラシー・本質的な投資リテラシー」と書いてあった。投資助言会社社長が書いた記事だったのだ。世界が滅びようとするときに、財産が頼りになるか?ならない!今まで頼りにしていたすべてのものが頼りにならないということに気づくのが世の終わりだ。
では、世界が滅びるときにすら頼れるのは何か?33節をもう一度読もう。イエス様の御言葉だ。イエス様の御言葉は永遠に不滅だからだ。イエス様の御言葉の偉大さはここにある。まず、イエス様の御言葉は必ずすべてその通りになるという点で偉大だった。エルサレム陥落も実現したし、終わりの時のしるしも着実に実現している。イエス様の御言葉の実現と同時に、世界は終わる。では、世界が終わったらイエス様の御言葉も意味をなさなくなるのか?イエス様は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われる古い天地が滅びて、新天新地になった後も、イエス様の御言葉は滅びない。このイエス様の御言葉こそ、私たちが最も頼りにすることができる。流行は廃れる。時代は変わる。しかし、イエス様の御言葉は永遠に通用する。だから、私たちはいつもイエス様の御言葉に立とう。苦難の時にも御言葉から希望を得よう。山上の説教通りに生きることを目指そう。へりくだる者となろう。人を赦そう。敵を愛し自分を迫害する者のために祈ろう。右の頬を打たれたら左の頬を差し出そう。純粋な動機で、人知れず善を行おう。世の価値観は、新しい世界では全然通用しない。そもそも、世の価値観を持ったまま新しい世界には入れない。御言葉は永遠に通用する。
言葉というものは宙に消えてしまうはかないものだが、イエス様の御言葉は滅びない。つまり、イエス様は今も、あなたに語り続けているということ。ヘブライ4:12。心静まり、聖書を開き、今もあなたに語り続けておられるイエス様の生ける御言葉に耳を傾けよう。
34-36節。霊的に目覚めなさいという警告。34節では世的な生き方をすれば、心がにぶくなり、主の日の裁きに巻き込まれる。心を鈍くさせるのは放縦と深酒と生活の煩いの3つだ。放縦は原語のギリシャ語では「ワインを飲みすぎると起こるめまいと頭痛」のことであり、暗に放蕩とか暴飲暴食を意味する。世的な快楽にどっぷりと浸かって、それによる副作用までも被っている状態だ。ある人にとってそれはお酒、タバコ、風俗、ポルノ、ゲーム、漫画だ。イエス様はこれらのものから私たちを解放してくださる。これらに浸かることが罪であることを御前で告白し、解放を祈ろう。
深酒は特にお酒にしぼった言葉で、原語では酩酊を意味するギリシャ語が使われている。ギリシャ人にとって酩酊はとりわけ不名誉なこととされていた。ギリシャ人は水が危険だったのでぶどう酒をよく飲んだが、ぶどう酒は酔わないように薄められており、酩酊は恥ずべきことだった。酩酊は神の民のみならず尊敬すべき異教徒も非難する悪徳だ。
生活の煩いは、ここでいう煩いにあたる言葉は、種を蒔く人のたとえの茨の土地にあたる人に言われていた思い煩いにあたるもの。思い煩いはイエス様の御言葉を覆いふさいで実らないようにする。34節では生活の煩いだ。この世で生きていく上での、お金、仕事、進路、結婚などについて煩うと、心がにぶくなる。主にあってある程度考え、計画し、努力することは必要だが、後は神に信頼してゆだねることが必要だ。これら3つが心を鈍くし、その結果、主の日の災いを招く。主はこれらから解放してくださる。
34節では、「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかる」とある。日本には平和憲法があるから大丈夫とか、家に地下シェルターを築いて食糧を備蓄したから大丈夫とか、そういう次元の問題ではない。どこに住んでいようが、物理的な手段によっては誰も絶対に逃れられないということ。
それでは目覚めさせるものは何か?祈りだ。35節では、いつも目を覚まして祈り、敬虔に生きるなら、終わりの時の災いのすべてから逃れて、イエス様の前に立てると約束されている。祈りは私たちを霊的に目覚めさせ、世の退廃や罪から離れて、神と人とに仕える力を得られるようにする。でも、世界全体が大変な状況に陥るのに、どうやってそのすべてから逃れられるのだろうか?携挙によってだ。Ⅰテサロニケ4:16-17。あなたはいつも目を覚まして祈っているか?祈る者になろう。祈りを生活の一部にし、祈りを当然のものにしよう。祈りによって鈍った心を目覚めさせ、祈りによって清められ、祈りによって力を得て仕える者になろう。
37-38節。イエス様のメリハリある信仰生活を見ることができる。ここに霊的に目覚めた人の生活の仕方を見ることができる。イエス様の生活は日中と夜で二分されていた。
日中は神殿の境内で人々に教えた。日中というのはいつからなのか?38節では「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来たと書いてある。ということは、イエス様は朝早くから神殿の境内にいて、民衆に対して教え続けていたことがわかる。朝早い時間といえば何時くらいか?仮に遅く見積もって午前7時くらいだとして、イエス様は午前7時から日が沈む17時まで、10時間くらい教え続けたことになる。民衆が朝早く聞きたいと思うくらいだから、よほどおもしろい話、興味深い話、有益な話、思わず時間を忘れて聞き入ってしまう話だったに違いない。あなたは、大勢の人々の前で長時間話し続けたことはあるか?やってみると、一生懸命話したとしても長時間人々の注意を引き付けることは難しい。そもそも人間の集中力は大人でも平均50分と言われている。1時間を超えると、どれだけ人間的に上手に話したとしても、聞いている人はだんだん注意散漫になったり、飽きてしまったりする。ところが、イエス様は休憩時間もあっただろうが、民衆がわざわざ朝早くに来て、こぞってずっと聞いていたいと思う教えを10時間近く語った。どうしてそんなことができたのか?いったいどこからそんなアイデアが出てきたのか?実はこっそりこの一週間のために渾身のネタを溜めていたのか?そうではない。語るべき内容はすべて、夜の祈りの時間に与えられていたのだ。
イエス様は37節でオリーブ畑と呼ばれる山で過ごされたと書いてある。これはイエス様が逮捕される直前に3時間祈った場所だ。イエス様は毎晩この場所で祈り込んでいたのだ。祈りの中で父なる神様から語られる御言葉をイエス様は人々に語った。祈りの中で聖霊様の油注ぎを受けて、長時間奉仕をするための力が与えられた。この夜の祈りの時間がなかったら、さしものイエス様も、日中に実のなる奉仕はできなかっただろう。これはすべてのクリスチャンの生活サイクルに取り入れるべきことだ。夜の神への祈りが、日中の生活で人々に仕えるための力となる。夜の祈りが、日中の職場では成果をあげさせる。夜の祈りが、会う一人一人を励まし、力づける上で必要となる。夜の祈りが創造的なアイデアを生み出す。イエス様のように、祈りによって、日中、実のなる奉仕をする者となろう。
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