復活の時にはめとることも嫁ぐこともない[ルカ20:27-40]

ルカによる福音書
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天国はこの世と全然違うからこそ、すばらしい場所です。

復活の時にはめとることも嫁ぐこともない[ルカ20:27-40]

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【ノート】
皇帝のものは皇帝に、神のものは神にというイエス様の御言葉によって、サンヘドリンのスパイたちは撃退された。続いて、サドカイ派の人々がイエス様に議論を吹きかけてきた。

27節。復活があることを否定するサドカイ派の人々と書いてある。ファリサイ派とサドカイ派はどちらもサンヘドリンの構成員であり、よく一緒くたに取り沙汰されるが、実際には両者は対極に位置する。ファリサイ派はあくまでもユダヤ教の律法の厳格な実践を重んじるグループだ。ファリサイ派は天使、霊、世の終わりの死者の復活、メシアの到来を信じ、旧約聖書全部、さらには律法学者が旧約の律法に対して付け加えた施行細則である口伝律法を信じた。聖書に付け加えているあたりは聖書に聖伝を加えているカトリックに近いと言えよう。
サドカイ派はというとごくごく世俗的な政治集団だ。彼らはローマに協力して実権を握っている富裕層だ。祭司や貴族たちだ。彼らは何よりも現在の体制が続いて、そこでおいしい思いをし続けることを願った。サドカイ派は天使、霊、死者の復活を否定した。メシアの到来も信じなかったし、現体制を揺るがしかねないので信じたくもなかった。旧約聖書については、モーセ五書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを信じて、預言書と詩編、箴言、歴史書などをふくめる諸書の権威を信じなかった。これはいうならば自由主義神学、リベラルの立場の人々だ。イエス様の立場はこのどちらでもない。イエス様は旧約聖書全部の権威を認めるが、口伝律法という後付けの施行細則は人間の作り事として否定する。イエス様は当然、サドカイ派が否定する死者の復活を認めているのは明らかだった。そこで、サドカイ派の人々は、質問という形式をとりながらも、復活信仰を攻撃しようとした。

28-33節。これは、サドカイ派の人々が復活信仰の愚かさをあげつらう上で利用していた常套手段だった。これさえ使えば、サドカイ派の人々はファリサイ派の人々をだまらせることができた。実際、ファリサイ派のラビも、だれ一人、これに対して対抗できなかった。
このある女性が、七人兄弟と次々と結婚するというのは、律法に記載されているレビラト婚の規定を根拠としている。申命記25:5-6。イスラエルでは、名前が絶えないようにするということが重要視されていた。人が死んでもその故人の名前がずっと残るようにするための制度だ。人が死んでも、せめてその人の名前が、その人が生きていたという証として残るようにするのだ。これは現代に至るまで、すべての人が思っていることだろう。今年、Twitterで「船橋駅でサリンをまきます」と騒いだ人が逮捕された事件があった。そういう世間を騒がせる悪事を行う人々は何のためにそんなことをしたのか?注目されたかったからではないか?悪いことでもとにかく有名になりたかったから、この世になかなか消えない爪痕を残したかったからではないか。政治家が選挙活動をがんばるのも、慈善事業家が利益にならないことに尽力することも、ビジネスマンが際限なくお金を稼ぐことも、軍人が命をかけて戦場で活躍することも、いろいろな崇高な理念があるだろうが、そこには一つの思いがあることを誰も否定できないだろう。名をあげることだ。良いことであれ、悪いことであれ、有名になりたい、名前を残したい、存在を忘れられたくないというのがある。しかし、どんなに良いことをしても、悪いことをしても、この世ではいつかは忘れられる。永遠に覚えられることはない。
イスラエルでは、名前が残ることが、だれと結婚するかということよりも重要だったのだ。今では考えられないことだろう。女性からしてみれば、自分の夫がなくなったらすぐに義理の弟と結婚しないといけない。しかも、そこまでしたところで、何百年も経てば昔だれだれが生きていたなんていうことは誰もわからなくなる。

では、今も私たちはこの規定に従って結婚しないといけないのか?これはもちろん旧約の律法の規定なので、新約の私たちが文字通りそのまま行う必要はない。実は、こんなことをしなくても、私たちの名前はいつまでも残る。旧約では結婚によって名前が失われないようにしたが、どのみちしかし、新約においては主なる神様ご自身が、私たちの名前を永遠に残してくださる。私たちの名前はどこに記されているか?黙示録3:5。勝利を得る者とは、信仰を貫く者のことだ。信仰を貫いた勝利者の名前は命の書に永遠に残る!不滅の名前を与えられる!永遠の世界で神様とすべての天使たちに知られるようになる。私たちはもう名前を忘れられることはない。だから、私たちは有名人になろうとしなくていい。信仰の勝利者は、すでにこの世のどんなインフルエンサーよりも有名人だ。ハレルヤ!

イエス様の時代、このレビラト婚がそのまま行われていたかはあやしいところだ。しかし、一応旧約聖書のモーセの律法に根拠があることだから無視できない。すると、七人もの男性を夫に持ったことのある女性というのは具体的に実在するかは別として、理屈としてはありうることだ。考慮に入れなければならない。あえてレビラト婚を引き合いに出さなくても、配偶者と死別して別の人と結婚するというのはよくあることだ。それはクリスチャンでも問題ない。それでは、複数の人と結婚したことのある人は、死者の復活の時に誰を配偶者とするのか、疑問の余地がある。もちろんサドカイ派の人々は純粋に知りたい心で質問したのではなく、イエス様を議論で倒してしまおうとしてのことだが。

さて、だれ一人対抗できなかったサドカイ派の必勝の論法にも、イエス様は難なく答えてみせる。34-40節。イエス様はここで二つの事柄によって説明している。一つは、神の御子としての、復活についての人知を超えた知識。もう一つは、旧約聖書の律法書の御言葉だ。このことから、二つのことを学ぼう。

第一に、天国のことをこの世の理屈で考えようとするな。復活を経験するとき、私たちは全く違う存在となる。全く新しい体で復活する。そのときには、もはや結婚ということはしなくなる。イエス様は神ご自身であり、私たちを復活させる張本人だ。だから、当然、復活を誰よりも詳しくご存じであり、これは確実な情報だ。
そもそも、天国は、この世と違っているからこそすばらしい場所だ。この世と違って、天国では死なない、天国では苦しみがない、天国では最高の幸せを常に満喫できる。だからこそ天国は天国であって、すばらしいのだ。この世と全く同じ場所であれば、そこは天国ではない。それなのに、どうして結婚や性別について、天国でも同じだと考えようとするのか。それは無理がある。結婚の目的の一つは子孫を増やすことだが、人間が完全な状態になったとき、子孫を増やす必要があるだろうか?寿命が尽きない、霊、魂、肉体も完全な者となっている。子供を作る必要は全くないだろう。天国はこの世と違う!違っているからこそすばらしい!

サドカイ派の人々が結婚を天国に無理やりあてはめようとした動機としては、結婚をそれだけ人間に絶対必要なものととらえているからというのが考えられるだろう。結婚こそが人間の幸せだという発想だ。異性との恋愛を成就することや性的に満たされることなしに、人間に幸せはありえないから、天国があるなら結婚もなければならない。これは現代人も大いに同意するかもしれない。しかし、それは間違いである。結婚に幸せはあるが、結婚は私たちを完全に満たすことはできない。究極的な幸せは、ただ神様の愛によってのみ与えられる。サマリアの女のようにだまされてはならない。サマリアの女は異性にこそ完全な満足があると思って、いろいろな男性とつきあったが全然満たされなかった。塩水のようなものだ。ますます渇いてしまう。そこにイエス様が現れて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」イエス様こそが私たちに完全な満足を与える。でも、結婚は神様が創造されたのではないか?それはそうだ。結婚はひとつの予型だ。男性と女性の結婚は、キリストと教会の結婚の型なのだ。結婚による幸せは、最終的にキリストと教会の愛の交わりによって完全なものになる。クリスチャンが復活し、天にあげられた後、この結婚式が行われる。黙示録19:7。私たちの告白はダビデと同じであるべきだ。詩編16:2。告白しよう。私の幸せはキリストにある。キリストを中心におけば家庭も祝福されうまくいく。

第二に、未信者を相手の土俵に立って説得せよ。人に伝道したらああだこうだ言われて言い返せなくて悔しい思いしたことはあるだろうか?そういう経験がないのは大問題、まだ救いの恵みがよくわかっていない。悔しい思いをした、それは伝道にチャレンジしたからこその経験であり、失敗ではない。そうしたら、次にその人と会話するときにちゃんと答えられるように、イエス様から学ぼう。Ⅰペトロ3:15。
イエス様はそれまでどんなラビも論破できなかったサドカイ派の論法を初めて打ち破った。しかもすごいのが、サドカイ派の人々の土俵に立って打ち破ったことだ。サドカイ派の人々は律法書だけを信じていたので、イエス様はあえて律法書の中の出エジプト記の柴の箇所を引用された。そこで主は御自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と紹介された。神は死んだ者の神ではないのだから、アブラハム、イサク、ヤコブは死んだのではなく、眠りについたのであり、やがて復活することになる。これにはイエス様に懐疑的なはずの律法学者も思わず「先生、立派なお答えです」と叫んだ。サドカイ派の人々もそれ以上何も言えなかった。
私たちも、人々の心に響くことを語るためには、ただの神学的な言葉の羅列では不十分である。それらは全部正しくても、聞いている人にとっては全然ピンと来ないからだ。相手の土俵に立つことが必要だろう。引き出しがたくさん必要だ。相手が無神論者なら無神論者が信じる理屈を通して、神の存在とイエス様を説明しよう。相手が芸術家なら芸術作品を通して御言葉を語ろう。相手が問題を抱えているなら、その問題が病気であれ、罪であれ人間関係の悩みであれ、解決のカギがキリストにあることを語ろう。その人の関心、ニーズ、それらは全部究極的にはキリストにつながり、キリストに答えがあるのだが、多くの人はそのことに気づかない。それに気づかせてあげよう。
また、ただいろいろな知識を身に着けるだけでは決定打にはならない。イエス様がいつも完全な答えができたのは、聖霊様の無限の油注ぎを受けていたからだ。聖霊様は知恵と啓示の霊だ。聖霊様から知恵の言葉をいただいて、未信者に語ろう。

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