父よ、わたしの霊を御手にゆだねます[ルカ23:44-56]

ルカによる福音書
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イエス様は幼子が父親の御腕にすべてをゆだねて、ぐっすり眠りにつくように、息を引き取られました。

父よ、わたしの霊を御手にゆだねます[ルカ23:44-56]


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【ノート】
44-45節。12時とある。イエス様は午前9時ごろに十字架にかけられ、午後3時過ぎに亡くなったので、これは十字架の真ん中から始まったことだ。3時間におよび、全地が暗くなった。この暗闇についてはタロスという歴史家がAD52年に記している。タロスはこの暗闇を日食と説明しているが、日食は過越祭の満月の時期にはありえない。このことから、実際にイエス様が死なれたころに全地が暗くなる現象が地球規模で目撃されており、異邦人の歴史家はそれを無理やり自然現象として説明しようとしたがうまく説明できていないということだ。この暗闇はいったい何か?
聖書では、暗闇は堕落した世と人間の深刻な状態、さらには来るべき裁きを表している。主がエジプトに下した十の災いでは暗闇の災いがあったし、主は罪を犯した天使を暗闇という鎖で縛り、閉じ込められたと書いてある。暗闇を内側に持つ者は、裁きとしての暗闇を体験する、永遠の暗闇に落ちることになるのだ。だから、この全地を覆う暗闇は、人間の罪の暗闇の深さを表している。「太陽は光を失っていた」と書いてある。光の源は被造物の太陽ではなく、主なる神様だ。主なる神様に背を向け続けるならば、人はすべての光を失って暗闇になってしまうことになる。イエス様はそれをすべて背負われた。イエス様の十字架はこの世のすべての暗闇を背負うものだ。エフェソ5:8-12。暗闇の業の特徴は恥ずかしくて口できないこと。そういうことをすることはあるか?もう闇を抱えて生きている必要はない。イエス様が背負ってくださった。光の子として歩もう。

神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。聖所と至聖所を隔てる垂れ幕だ。この垂れ幕は厚さ10cmもあって、両側から馬でひっぱったとしても破れないくらいの丈夫さ。それが裂けたのは、自然や人間のなせる業ではなく、イエス様の十字架の贖いの御業を示す神業だ。至聖所には神の臨在に満ちた契約の箱があった。聖所には祭司たちが奉仕のたびに入るということがよくあったが、至聖所には年に一度、贖罪の日に大祭司が罪の贖いの儀式を行うために入念な準備をした上で入ることが赦される。もし不用意に至聖所に踏み込むなら、死人が出るほどだ。祭司という聖別された身分の人であっても、聖なる神の臨在に触れることができなかったのだ。聖なる神と罪人の間にはそれほどの大きな隔たりがあった。その神と人との隔たりをイエス様は無くしてくださった。私たちはイエス様の十字架の贖いの恵みにあずかるならば、誰でも至聖所に大胆に踏み込むことができる。神の臨在の中に入ることができる。むしろ、神の臨在をまとって生きることができる。神は私たち自身を至聖所として、私たちの内に住んでくださり、豊かな交わりを持ってくださる。

46節。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というのがイエス様の十字架での最後の御言葉。詩編31:6の引用だ。これは、眠るときの祈りの言葉だ。ユダヤ人の母親が子供に教える最初の祈りだった。夜、子供が暗闇に怖がらずに、ぐっすり眠ることができるように、「わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と祈らせたのだ。イエス様は「父よ」とよびかけて、十字架上の苦しみの極致にありながら、父親の腕の中で眠りに落ちる子供のように、安らかに息を引き取ることができた。これは私たちが夜眠るときにも祈るべき祈りだろう。私たちは父なる神様の愛の御腕の中にいる。イエス様がすべての暗闇を背負ってくださった。何も恐れる必要はないし、何も心配する必要はない。睡眠薬は必要ない。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」として眠ろう。そのひとことだけでは眠れないこともあるかもしれない。そうしたら、父なる神様と楽しい会話をしながら眠ろう。
47-49節では、イエス様の死を目撃した三種類の人々が登場する。
第一に、ローマの百人隊長が信じた。彼はそこでイエス様を処刑していた。処刑をしなければならないのは正しい人か、それとも犯罪人か。そう、犯罪人だ。ところが、百人隊長は、イエス様を処刑してしまった後、「本当に、この人は正しい人だった」と告白している。そんな人を処刑してしまったのだから、自分が取り返しのつかない間違いを犯したということでも同時にある。私たちがイエス様を信じ、聖書を100%信じ、イエス様は正しい、聖書は正しいと告白するとき、私たちは同時に聖書に反する自分の間違いを認めるということでもある。古い考えに縛られたまま、信仰を成長させることはできない。御言葉を読むとき、自分の考えを御言葉に投影することはやめよう。「ああ、やはり私の考えはこの御言葉にあるように正しい。」それだと悟りがない。そうではなく、いつでも自分の考えを手放せるオープンな心を持って、御言葉を読む者となろう。

第二に、群衆たちが感動した。彼らは「見物に集まっていた」と書いてある。当事者ではなく、見物人だ。イエス様のことを深く知らないが、興味本位で見に行ってみようとした人たちだ。十字架刑を興味本位で見物したいということだから、彼らの多くが、神に触れられることや自分の人生の変化を求めていたわけではない。しかし、イエス様の死は彼らの心に予想外の感動を与えた。別にそこまでの関心があるわけではなく、人生の目的や神を探し求めているわけでもないが、友人に誘われてなんとなく、興味本位で行ってみようかというきっかけで「見物人」として教会に来る人々がいる。そういう人々でも、イエス様の死に触れるならば、期待もしていなかった感動が与えられ、人生を変える大きなきっかけとなることがある。ローマ1:16。福音は神の力だから、本人にそのつまりがなくても、変えられてしまう。伝道をしよう。教会に人を連れてこよう。最初から深い関心がある人でなくていい。誘われたから何となく来たという人がイエス様と出会うことになる。

第三に、婦人たちは遠くから見守った。男の弟子はヨハネ以外そこにはいなかった。十二弟子たちは皆男なのに、イエス様の死という救いの御業が成し遂げられる瞬間を目撃していたのは、ほとんどが婦人の弟子たちだった。婦人の弟子たちの強さは、イエス様に対する愛だ。男の弟子たちがイエス様を愛しつつも「誰が一番偉いか」ということに関心をよせたのと違い、婦人の弟子たちはイエス様をもっと純粋に愛した。イエス様の惨たらしい死を最後まで見届けて、さらに55-56節では香料と香油を準備して、イエス様の遺体を保護することまでもしようとしていた。イエス様を純粋に愛するならば、どこまでも主に慕ってついていき、すばらしい主の御業を目撃する栄誉にあずかることができる。

50-56節。イエス様は死なれた。イエス様は金曜日に十字架にかけられた。ユダヤ人の一日の終わりと始まりは午後6時からだ。まもなく土曜日、つまり安息日が始まろうとしていた。十字架にかけられて呪われた者によって地が汚れないように、安息日の前に死人を十字架から降ろすことになっていた。習慣だと罪人の死体は埋葬されず、野犬や禿鷹のなすがままに放置された。そこに突如アリマタヤのヨセフという人物が現れて、イエス様を墓に葬った。このアリマタヤのヨセフのお陰で、イエス様が墓に埋葬されたことが明確になり、復活の事実をはっきりと証しすることができるようになりました。アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を葬った人物として四福音書すべてに記されている。彼の行動について大きく3つのポイントを学ぼう。
第一に、勇気ある行動だった。アリマタヤのヨセフは議員だった。社会的な立場のある人だった。そういう人が指名手配された上で、十字架にかけられて死なれたイエス様のために墓を提供するということは大きなリスクのある行動だった。これは「私はイエス様の弟子だ」と公表することであり、同僚の議員から弾劾されるおそれがある。確かにこれまではアリマタヤのヨセフはそのことを恐れていて、イエス様の弟子であることを隠していた。しかし、この時には、人からどう思われるかよりも、イエス様のために正しいことを行いたいという心がまさった。それで、信仰による勇気で、正しい行動をとった。人を恐れて、クリスチャンであることを隠してしまっていることはないか。ヨセフもかつてはそうだったが、いざというときに行動を起こした。ヨセフのように、信仰による勇気を持って行動を起こせる者になろう。

第二に、迅速な行動だった。イエス様が3時頃に亡くなったので、安息日の始まりまで3時間しかなかった。その3時間の中で、ヨセフはピラトへの嘆願、遺体を降ろす、亜麻布にくるむ、墓にまで運んで納めるということを全部やった。時間はすべての人にとって平等だ。人によっては、十分な時間がないという理由で、取り組む前から大事なことをあきらめてしまう。ディボーションをする時間がない。伝道をする時間がない。プレゼントを買う時間がない。勉強する時間がない。たいていは工夫さえすれば全部できるのだ。時間がないという前に、ヨセフがしたようにイエス様のために迅速な行動をとる者となろう。限られた時間の中でできることをしよう。

第三に、死んだ後の行動だった。アリマタヤのヨセフは確かに同僚の決議や行動には同意しなかったとあるが、反対としたという記述はどこにもない。ヨセフは同僚たちを止めることができないと悟ると、積極的に反対はせずに事態を静観していた。明らかにヨセフはイエス様が死ぬのを待っていた。イエス様が死んで初めて、イエス様に対して良いことをした。本来は逆であるべきだ。死んだ後の賛辞と感謝と献花よりも、生きているうちに良いことをしてあげることがまさっている。イエス様はベタニアのマリアから香油を注がれたとき、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われた。イエス様は地上で一緒にいるうちに御自分に良いことをすることを喜ばれた。これは人々に対する私たちの態度でもあるべきだ。その人が死んだ後、葬式の後から尽くすようになるのではなく、生きているうちに福音を伝え、生きているうちに愛と感謝の言葉をかけてあげ、生きているうちにできるだけのことをしてあげよう。

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