友よ、人を恐れるな[ルカ12:1-12]

ルカによる福音書
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雀をも忘れない神様が、あなたのことを忘れるなんてこそがあるでしょうか?

友よ、人を恐れるな[ルカ12:1-12]

友よ、人を恐れるな[ルカ12:1-12]

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【ノート】
イエス様はファリサイ派の人々と律法学者たちの罪を七つにもわたって指摘した。本人たちに直接指摘した。しかし、それだけでは十分ではない。ファリサイ派の人々は会堂で権威をふるう人々だ。土曜日の安息日ごとにユダヤ人は否応なしにファリサイ派の人々の教えを耳にする機会があった。その教えによってひそかに毒されていた弟子たちを助けなければならない。イエス様は弟子たちに向かっていわば解毒剤の教えを提供している。私たちも、世にあって様々な間違った教えに毒されているだろう。世に属していなくても、世で生きているので、間違った教えを耳にするのは仕方ない。聞きたくなくても耳に入ってしまう。それであれば、イエス様の教えによって解毒していただこう。

1節。イエス様はこのことをまず弟子たちに語られた。教会が特に気をつけなければならない内容だということだ。まず、パン種とは何か?パンを膨らませるための酵母、イーストのこと。昔はパンの生地をつくるとき、前に使った生地を発酵させておいたものをパン種としてまぜて作っていた。パン種はほんの少しまぜるだけで、生地全体を4倍近く膨らませることができる。聖書でパン種というと、基本的に罪をさす。パン種は発酵したもの、言い換えれば古くなって腐敗したものだ。旧約聖書の主の例祭の中には除酵祭、新改訳聖書では種を入れないパンの祭りがあるくらいだ。そのときには、パン種の入っていないパンを食べる。その除酵祭のときに、キリストは十字架にかけられた。イエス様こそが罪のパン種のないパンとして御自分の体を十字架の上で裂かれたのだ。私たちは聖餐のパンを食べるときに、キリストの清さにあずかることができる。パン種というと、それは罪であり、生地全体を爆発的な膨らませることから、爆発的な悪い影響力をさす。ファリサイ派の人々は6千人に満たなかった。少人数でも、数百万人のユダヤ人全体を汚してしまう悪影響を及ぼすことができる。教会でいえば、一人でもいれば、全体を汚してしまうのに十分だ。個人でいえば、一つの点でも偽善的な要素があれば、人生全体を汚してしまうのに十分だということ。

次に偽善とは何か?偽善にあたる原語のギリシャ語は、ヒポクリシスだ。ある役を演じるという意味だ。偽善者は、本物ではなく、役者だということ。ファリサイ派の人々は正しい者という仮面をかぶって人々をだまし、尊敬を得ていたが、それらは全部演技だった。それはもう名演技だったので、誰も見破ることができず、人々はだまされ続けた。しかし、いつまでも演技が通用するわけではない。2節。仮面をはぎとられるときが来るということ。覆われたものを現し、隠されている者を知られるようにするのは誰か?イエス様だ。イエス様が仮面をはぎとる。このことは、ファリサイ派の人々の罪を見破り、弟子たちに注意喚起するということでまさに実現している。彼らに対してだけでなく、同じ偽善のパン種を持つ人々に対して、イエス様は歴史上で何度も仮面をはぎとり、その悪事を白日の下にさらすということをしてきた。牧師や神父の性犯罪や金銭の横領が暴かれてきた。心が痛い内容だが、偽善の仮面がはがれたケースをお伝えする。

最近のプロテスタントでいえば、ヒルソングの創設者のブライアン・ヒューストンが2022年3月23日に二人の女性に関する性的なスキャンダルによって辞任した。メガチャーチの牧師としてのプレッシャーで睡眠薬漬けになっているときに起こしたスキャンダルだ。2021年2月11日、世界的なキリスト教弁証家として知られていた故ラビ・ザカリアス氏が、複数の女性に対して性的なメッセージや写真などを携帯電話でやり取りすることや不本意な身体的接触、霊的虐待、レイプなどを行っていたことが明らかになった。ラビ・ザカリアスはリー・ストロベルの本にも登場する弁証家だ。調査を行ったのは、「ラビ・ザカリアス国際宣教団」だ。当初は被害の訴えを聞いても、ラビ・ザカリアスの嘘の説明を信じてしまい、取り合わなかった。ザカリアスの死後、調査をし、悔い改めを表明し、被害者に謝罪している。大きな団体の指導者というプレッシャーやプライドがサタンに扉を開くきっかけになった。日本でも、牧師や神学校の教授が、神学生に対してセクハラをしたという被害の報告を被害者が告発している事案がある。告発しなかった事案はどれだけあるか。

カトリックについていえば、2000年以降、聖職者による多数の性犯罪が明るみに出つつある。2018年8月、米国ペンシルベニア州だけで、ペンシルベニア州最高裁判所が1940年代以来、州内のカトリック教会で起きた千件以上の性的虐待を調査し、その結果を300名以上の司祭の実名とともに公表した。同様の捜査は他の州にも波及しており、氷山の一角に過ぎない。告発された人の中には、元ワシントン大司教セオドア・マカリックの名前もあった。2021年10月5日、フランスでの調査報告では、1950年以降、推計21万人以上の未成年者がカトリック教会の聖職者など3000人以上から性被害を受けたことが明らかになった。ドイツ聖職者会議は「1946年から2014年までの間に、3677人の未成年の少年少女が聖職者による性的虐待の被害に遭った」と発表されたが、実態解明に積極的でなかったことが多くの人々を失望させ近年カトリックの脱会者が後をたたない。これらの性犯罪はカトリックの画一的な独身主義が招いたことだ。それが長年明るみに出なかったのは、カトリックの隠蔽体質が招いたことだ。いずれにせよ、宗教的な権威を笠に着て行った悪事であり、宗教的権威によって隠ぺいしようともした。仮面をはぎとるイエス様を恐れなかった。

悪事はどれだけ隠しても暴かれる。たとえ、この地上で暴露されなかったとしても、イエス様が再臨された後、神の御前に立つときに、どの道隠れた罪は全部明るみに出る。そのときの裁きはより苛烈なものとなる。そうなる前に明るみに出さなければならない。もし教会の中で重大な罪、性犯罪や暴力、金銭の横領などがなされたのなら、それを行ったのが牧師であれ信徒であれ、それは隠ぺいされてはならない。ほんの少しのパン種が教会全体を汚す。隠れた場所で罪が行われている事実を知った人は、そのことについて黙っていてはならない。恐れることなく、イエス様がなさったように告発し、調査し、実態を解明し、明るみに出そう。それは神の御心に適うことだ。そうすることで、偽善のパン種を除き去り、パン種の入っていないパンになろう。

3節。この節を読んで何を思うだろうか?これは偽善者にとっては不都合な話だ。私たちは一人でいるとき、他の人の聞いていないところで、いったいどんなことを口にしているか?陰でぶつぶつと文句を並べることがあるだろうか?その人のいる前では聞こえの良いことばかり話し、その人がいなくなった途端に悪口を言い始める、ということはあってはならない。Zoom会議のときにマイクがミュートになっていないことに気づかず、焦ったことはないだろうか?私たちは焦らなくてもよいように、常にあらゆるときにマイクがオンになっていると認識して発言をしよう。どんなことでも全世界に聞こえるものとして、オープンに語る者となろう。しかし、ここでいうところの私たちが暗闇でいうっことや奥の間でささやくこととは、実はもっと良いことを指している。これは福音のことだ。弟子たちの伝道は世界的に見れば、ほんの小さな、日の当たらない、隠れた目立たない場所での草の根運動のようだが、その福音宣教についても、爆発力があって、たちまち全世界に宣べ伝えられるようになるということ。私たちは偽善ではなく、福音の真理を広める者となろう!

それでは、偽善ではなく、福音伝道において貴く用いられるためにはどんな心得が必要か。それが4-12節だ。4-5節。神以外の何ものも恐れない態度だ。偽善は人の目ばかりを意識し、恐れることによって生じるものだ。そして、世の中の権力者や宗教家、インフルエンサーを含めて、大多数の人々がそういう生き方をしている。偽善を良しとする。もし、イエス様のように、光の中を歩む者となり、偽善をよしとせず、真理の御言葉を語るなら、あらゆる人々から憎まれ、迫害されることになる。しかし、イエス様は迫害を恐れるに足りないと言われた。イエス様が幅を利かせていたファリサイ派の人々に対して真っ向から罪の指摘ができたのは、彼らを全然恐れていなかったからだ。相手がどんなに権威ある者であったとしても、他人が私に行使できる事柄はこの地上での人生までだ。人間は私の肉体の命を奪うことまではできても、魂は殺せない。
魂を地獄に投げ込むか、天国に入らせるか、それを左右できるのは、神だけだ。従って、信仰者は限定的な実力行使しかできない人間を恐れるのではなく、私たちをあらゆる面で滅ぼせる神を恐れなければならない。人を恐れて、神に背教してしまうことだけを全力で避けなければならない。そう聞くと、なんだか神様が脅しをかけているように聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。この御言葉は救いの確信に基づくものだ。イエス様は「友人であるあなたがたに言っておく」という。イエス様の友人は当然救われている。

そして、そもそも救われていない人は、人間をも恐れなければならない。なぜなら、救われていない人が他者によって肉体の命を奪われたら、その人には罪があるのでそのままに地獄にも行ってしまうことになるからだ。人間を恐れなくてもよい理由は、イエス様の友人であるクリスチャンは、たとえ迫害されて殺されても確実に天国に行くことができるからだ。私たちに与えられている永遠の命は誰にも奪うことができない!他人から奪われ得るものは、この世のいつかなくなってしまうものだけ!それは他人から奪われなくても、どの道遅かれ早かれいつかなくなってしまう空しいものに過ぎない。それは大した問題ではない。だから、私たちは恐れずに大胆に伝道できる。

そして、神はイエス様の友人に対して、恐ろしいほど深い愛の配慮をしてくださるお方だ。6-7節。雀というのは、最も取るに足らないもの、価値のないものとみられていた。ここでは五羽の雀が二アサリオンと書いてある。1アサリオンは500円くらいなもの。ワンコインランチにも満たない。しかし、マタイによる福音書では、ちょっと違うことが書いてある。マタイ5:29。マタイだと二羽で一アサリオン。それだと二アサリオン出せば四羽ということになりそうだが、普通お店ではたくさん買えばその分安くなる。二アサリオン出した場合、もともと雀は大した価値がないので、一羽がおまけでついてきたということ。そのおまけの一羽の雀のことすら、神は絶対にお忘れにならない。昔食べた鶏肉のことをいつまでも覚えているということがあるだろうか?私たちは自分で食べても忘れてしまう。神は一羽残らず全部覚えておられる。そして、あなたはたくさんの雀よりもはるかに価値のあるものだ。あなたはいつどこにいても神様から覚えられている。神様はあなたのことを片時も忘れることがない。あなたはどんな瞬間も一人ではないのだ。神様はあなたのことをいつもどれだけ注目しているのかというと、髪の毛を一本残らず数えるほどだ。人間は自分自身のことであればどんなつまらないことにも関心を持つものだが、髪の毛を数えるほど関心を持つ人はいない。日本の成人の髪の毛の本数は平均するとおよそ10万本。そして、毎日抜けては生え変わるので、数えようとしても、無理だろう。自分ですら関心を持たないつまらないことについてまで、神様はあなたに対して関心を持ってくださるほど、あなたを愛しておられる。その神様の愛の御手の中にあるのだから、何が起きようとも恐れることはない。あなたの最もつらいときにも、それこそ迫害者の手にかかるときにも、あなたは覚えられていて、あなたの魂は愛の御手によって守られている。

そんなに覚えられているのだから、私たちもイエス様を覚え、人を恐れずに誰に対しても自分の旗印が何であるかを明らかにしよう。8-9節。人を恐れない者の態度の第一歩は自分が何者であるかを告白することだ。信仰告白だ。これは福音伝道の第一歩でもある。誰に対しても自分がクリスチャンであること、イエス様を信じる者であること、教会に通う者であることを表明するのだ。それをしたところで、今の時代、すぐに命を取られるということはありえない。堂々としていれば、ほとんどの場合、悪く思われることはない。せいぜい笑われたり、距離を置かれたりすることがあるくらいだ。そのくらいのことは良しとしよう。自分の周りの親しい人の中で自分がクリスチャンだと知らない人がいないようにしよう。そうすれば、イエス様が天国中にあなたのことを仲間であると紹介して、あなたのことを知らない人は誰もいなくなる。しかし、こんなに覚えられているのに、今笑われることを良しとせず、世の人々に迎合して誰もあなたがクリスチャンだと知らないなら、あなたはイエス様に知らないと言われ、あなたは天国中で知られていない人になってしまう。

信仰告白をするのを難しく感じる人もいる。人を恐れず、イエス様の仲間であると信仰告白する上で鍵となるのは、聖霊様を大切にすることだ。聖霊様こそが私たちに力を与え、大胆に確信を持って福音を伝える者としてくださる。逆にこの聖霊様を冒涜することは最悪の罪だ。10節。イエス様は御自分の悪口を言っても赦されるとした。イエス様は器の大きいお方であって、クリスチャンになる前にイエス様に対してとったあらゆる間違った態度を許してくださるのだ。それでは、例外的に赦されない聖霊を冒涜する罪とは何か。聖霊を冒涜するというのは、ファリサイ派の人々がイエス様に対して「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者がいたことを指してのことだ。なぜ、これが赦されない罪なのか。

人は罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じれば救われる。しかし、神の聖霊様のすばらしい力の表れを悪魔呼ばわりするほど心が頑なになってしまったら、悔い改めることが不可能だ。その人にとっては、神の善が悪であり、人間の悪が善になってしまっているので、罪を罪として認めることも神を神として信じることもできない。このような倒錯はある日突然起きるのではなく、聖霊様が心に語り掛ける声に逆らい続けた結果起こるものだ。ステファノが説教の結論でそう言っている。使徒7:51。ノンクリスチャンであっても、聖霊様はその人を正しい道に導こうと働きかけてくださる。その人が、偽善的な人間の宗教にとらわれて、聖霊様に対して霊的な耳と目をとざし続けたら、しまいには、神を感知する能力を完全に失ってしまう。その人の目の前に神御自身であるイエス・キリストが現れて、人々を救い始めても、悪魔だなんだとののしるようになってしまうのだ。時々、「私は聖霊を冒涜する罪を犯したかもしれない」と悩む人がいる。その人はそう悩めるだけの罪の認識があるので、それはある意味救われている証拠だ。そういう人は御言葉に基づいて、悔い改めて聖霊様を求めてみると良いだろう。聖霊様が心に喜びと平和を回復させてくださるなら、聖霊を冒涜する罪は犯していないことがわかる。とはいえ、聖霊様の働きかもしれないのに、自分の神学的な立場やらなんやらにとらわれて、よく吟味しようともせずに軽率に「悪魔の業だ」と悪口を言うということは絶対にあってはならない。

聖霊様はクリスチャンを様々な方法で助けてくださる。11-12節。偽善者として法廷で裁かれる者となるのではなく、迫害者たちから告発させることはすばらしいことだ。そのときには、心配しなくても、聖霊様が弁護者として語るべき言葉を教えてくださる。大勢の迫害者に囲まれていても、神様はあなたの側に立っておられるのだ。それは霊的な目と耳を開き、聖霊様の語り掛けを受け取る良い機会となるだろう。私は毎日メッセージを語っているが、いつも聖霊様が語るべき内容を授けてくださる。また、あらかじめ与えられたものを語るときも、語っているうちに聖霊様がもっと深いことを教えてくださり、予定していなかったことまで語ることもある。ふだんから聖霊様による交わりを持とう。聖霊様の力と満たしを求めよう。それによって大胆に歩む者となろう。

父なる神様はあなたを忘れてはおられない。イエス様はあなたを友と呼んでくださる。聖霊様はあなたと共にいて助けてくださる。だから、恐れることなく、神と人の前で偽りのない歩みをする者となろう。大胆に福音を宣べ伝えていく者となろう。アーメン。

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