偽善者に対する7つの告発[ルカ11:37-54]

ルカによる福音書
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閲覧注意!イエス様は完膚なきまで徹底的に告発しました。

偽善者に対する7つの告発[ルカ11:37-54]

偽善者に対する7つの告発[ルカ11:37-54]

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【ノート】
37節。イエス様はファリサイ派の人から食事に招待された。食事の招待とは、本来は友好的な意図で行うもののはずだ。お互いを知り、親密になるためのもの。一つとなるためのもの。私たちがあずかる聖餐や愛餐会はそのためのものだ。イエス様が中心におられ、愛の交わりによって一つとなる。しかし、どうやらファリサイ派の人は違う意図でイエス様を招待をしたようだ。実は腹黒い意図を隠して、敬意や友好的な意図を装って、招待したのだ。おそらくはイエス様の弱みをにぎろうとしていたのだろう。イエス様は針の筵に招待されていた。欺きの食卓というものがある。箴言23:1-3,6-8。しかし、イエス様は人の心の内を何もかもご存知のお方だ。イエス様には茶番は通じない。イエス様は先手を打つようにこの食卓で、ファリサイ派の人の罪を暴いている。イエス様は合計7つの非難をしておられる。7は完全数。完膚なきまで非難し尽くしているということ。

38節。さっそくファリサイ派の人はイエス様の弱みをにぎったと思った。しかもそれは彼にとって衝撃的なことだった。これは衛生的な問題ではない。コロナ禍なのに手を洗わない、消毒しないということではない。これは当時のユダヤ人が守っていた昔の人々からの言い伝えだ。旧約聖書には書いていない。食事の前に手を洗わないと宗教的な汚れを受けると考えられていたのだ。ファリサイ派の人々は特に細々とした規定をつくって厳格に守るようにしていた。洗うときは、一定の方法に従って洗わなければならなかった。手を洗う用に、大きな石がめが備えられていた。普通の水は汚れていると考えられていたからだ。一回に使う水の量は卵のから一杯半でなければならない。まず、水は指先に注ぎ、それから手首へと流れるようにする。次にそれぞれの手の甲をこするようにして清める。最後にもう一度、今度は手首から指先に水を注ぐ。ファリサイ派の人にとって、このどれかの手順の一つでも欠けていたら罪を犯したことになる。イエス様がこれらの規定に同意しなかったことを感謝しよう。
イエス様は昔の人々の言い伝えを頭から無視した。そして、非難の心を抱いたファリサイ派の人をこう批評した。39-41節。イエス様はファリサイ派の人のことを外面的なことばかりに厳格だが、心が強欲と悪意で満ちていると指摘する。実際にイエス様の目の前にいたファリサイ派の人がそうだったに違いない。食事の招待も見せかけの友好を、手を洗うことは見せかけの清さを演出するものだった。すべては内側の罪の汚れを隠し、善人を装うためだ。偽善であっても人をだますことはできる。しかし、人の内側をも創造された創造主なる神様と御子イエス・キリストはだますことはできない。私たちは、神を意識し、内なる人の清さを求めなければならない。内なる人を意識して神と人々に真実に仕えるならば、内側も外側も清められる。

42節。十分の一をささげるということは、アブラハムがいと高き神の祭司メルキゼデクに十分の一をささげたことに由来する。旧約聖書の律法でも、十分の一をレビ人にささげ、レビ人はさらにその十分の一を祭司にささげることが定められている。そうすることによって、主なる神に仕える人々が絶えないようにするためだ。イスラエルはこの十分の一をささげるということに忠実でなかったため、祭司やレビ人が神への奉仕に専念できなくなることがあった。その結果、神殿での献げ物、主の例祭を執り行うこと、律法を教えることなどがおろそかになった。それはバビロン捕囚からエルサレムに帰還した人々の間でも見られたものであり、ネヘミヤの改革によって是正されている。ネヘミヤ13:10-12。だから、十分の一をささげること自体は良いことであり、必要なことだった。イエス様もそれは否定していない。イエス様は「十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」と言われた。ヘブライ人への手紙によると、イエス様はメルキゼデクと同じような祭司と書いてある。アブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたように、クリスチャンはイエス様に十分の一をささげる。それによってイエス様の教会で奉仕がしっかりとなされて、神の国が地上に拡大していくことに貢献できる。神の国は私たちの国だ。私たちの国、私たちの教会が発展する上で十分の一を忠実にささげることをおすすめする。
しかし、ファリサイ派の人々は、ここまではさすがに十分の一をしなくてもよいというつまらないもの、薄荷や芸香や野菜に至るまで十分の一をささげた。薄荷とはミントのこと。調味料、香料、薬用などに幅広く使用される植物だ。芸香は香辛料、薬用として使用される植物。あらゆる野菜とはその他のハーブを指す。普通十分の一をささげる対象は「穀物」と書いてあることから食用となる収穫物だ。ファリサイ派の人々は必要以上に厳密に十分の一をささげていたということ。そこまでこだわらなくてもということについてまで細かくこだわった。それ自体は悪ではない。それでいて肝心の、最もこだわらなければならない正義の実行と神への愛はおろそかにしていた。的外れだ!罪はギリシャ語でハマルティア、的外れという意味のある言葉だ。エフェソ5:15では「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と書いてある。私たちは正義の実行と神への愛という点について、特に細かく気を配って歩もう。しかし、人間のキャパシティーには限界がある。つまらないことについては、こだわらなくてもよい。

43節。会堂での上席とは何か?会衆に面する形で置かれた特別席、VIP席だ。ファリサイ派の人々が上席を好んだのは、そこに座ればそれだけで「あの人は上席座ることが許されたすばらしい人だ」として注目を浴びることができるからだ。集会中に、神が受けるべき注目を自分が受けたいと望んでいるのだ。また、ファリサイ派の人々は広場で受ける敬礼の挨拶を受けるとそれだけ気分を良くした。どこにいても人々から立派な人として敬われたいと望んでいるのだ。その動機は一言でいえば虚栄心だ。虚栄心は必要ありません。イエス・キリストが私たちの心を神の愛で満たしてくださる。イザヤ43:4。神の目に私はVIPだ。あえてVIP席に座ったり敬礼を受けたりしなくてよい!神の愛で満たされた人は、誰から良く思われようが、悪く思われようが大したことではない。そして、自分が注目されることではなく、ひたすら神を賛美し、神の栄光を現すことを願う。

44節。民数記19:16。七日間も汚れたら大変だ。汚れた人はその間、公の場に出ることはできないし、神への奉仕が全然できなくなる。エルサレムに巡礼に来るユダヤ人は途中で墓に触れて汚れてしまわないように細心の注意を払った。汚れてしまったら、長旅をしてエルサレムに来ても神殿に入れないということになりかねない。だから、巡礼者が不注意で触れないように、白く塗って目立つようにしていた墓もあった。しかし、中には人目につかない墓というものもある。そういう墓だと意図せず触れてしまいかねないわけだが、それは問題にならなかった。意図しようがしまいが、本人が気づいていようがいまいが、とにかくその人は墓に触れたら汚れるのだ。イエス様はファリサイ派の人々のことをそういう存在だとみなした。ファリサイ派の人々の教えや立ち振る舞いは、周囲の人々にとって害悪以外のなにものでもないのだ。多くの人々は、ファリサイ派の人々と接触することによって、気づかぬうちに、その悪影響によって汚れてしまっている。神について、間違った価値観によって洗脳されてしまっている。偽善、高慢、外面的な宗教を良いものとして受け入れ、腐敗してしまっている。今の時代、どれだけ多くの人目につかない墓があることか。多くの政治、メディア、インターネット、学校教育が嘘と堕落で私たちを汚そうとしていることか。一部の神の教会すら堕落して、人目につかない墓のようになっているかもしれない。その汚れから逃れるには、墓の中から復活されたイエス様の血潮にあずかり、イエス様の内にとどまることだ。
このようにファリサイ派の人々は外面的なことやつまらないことにこだわって、本質を大事にしない的外れな人々であり、それでいて自分たちの教えを熱心に広めてしまっていた。

45-46節。律法の専門家とは、ファリサイ派の中にあって律法を解釈したり、施行細則を定めたりする人々だ。律法の専門家が定めて、ファリサイ派の人々が実践した。ファリサイ派の人々の実践を非難するなら律法の専門家のことも非難するに等しい。それは不当だ。そのように律法の専門家は抗議した。ところが、イエス様は律法の専門家に対しても全く忖度するつもりはなかった。
イエス様は律法学者をも共犯者として厳しく告発する。まず、律法の専門家の悪いところは、無数の律法にまつわる儀式を定めて、人々に守るように強要しておきながら、自分では守っていなかった。彼らは言い訳の達人だったからだ。たとえば、安息日に荷物を運ぶことは禁じられていたが、後に法典化された律法の施行細則にはこう規定されている。「荷物を運ぶ者は、右手左手を問わず、また胸、肩を問わず、すべて違法である。ただし、逆手、足、口、ひじ、耳、頭髪、ひっくり返した財布、財布と下着の間、下着のひだ、靴やサンダルの中、等々で物を運ぶのは違法ではない。なぜなら、そのような運び方は、通常の運び方ではないからである。」これは笑い話ではなく、実際に書いてある内容だ。こんなインチキをいろいろな律法の施行細則に設けて、自分たちはそれを良く知っているので、何か言われてもすぐ言い訳をした。イエス様は神が命じられることを100%果たしておられたし、御自分が教えることを100%実践していた。イエス様はへりくだって弟子たちや群衆たちに仕えたし、敵を愛し自分を迫害する者のために祈った。そして、命を捨てる愛を示した。そして、イエス様はただ模範を示しただけではない。私たちの罪の重荷までも代わりに引き受けてくださった。そして、罪から解放されたクリスチャンが十字架の道を歩くにあたっても共に歩んでくださる。共にくびきを負ってくださるのだ。

47-51節。律法の専門家は死んだ預言者について表面的には賛辞を贈った。それはもうその預言者が死んでしまっているからだ。しかし、生きている預言者に出会ったなら、その預言者を憎んで迫害し、死に至らしめるに違いない。その証拠に、律法学者の先祖たちは預言者を殺し、律法学者は墓を建てているからだ。イエス様はこれを連携プレイとみる。律法学者は先祖たちと一緒になって預言者を葬り去る者たちだという。預言者が語る御言葉は本質をつくものだ。外面的な律法を守るばかりで一向に罪を悔い改めない人々に対してイザヤは預言した。イザヤ1:13-14。とりあえず生け贄をささげておけば神に受け入れられると思っている人々にアモスは預言した。アモス5:22-24。預言者ミカも、神は表面的に律法を守ることを求めていないと預言する。ミカ6:8。枝葉末節にこだわる律法学者たちがこういう預言者たちを憎むのは当然だ。そして、今目の前に、昔の預言者たちと同様に厳しい御言葉によって悔い改めを求めるイエス・キリストがいる。律法学者たちはそのイエス・キリストのことも激しく憎んだ。イエス・キリストはまさに、ゼカルヤに至るまでの預言者たちと同じように、御言葉を拒む律法学者たちの手にかかり、血を流して死なんとしていた。

52節。律法の専門家は、聖書を難解なものにした。彼らが作った膨大で、謎めいた解釈は、人々にとって聖書を理解不可能なものにしてしまった。そして、律法学者たちは自分たちの歪んだ解釈を人々に押し付け、人々が普通に聖書を読んで書いてある通りに意味を理解することを妨害してしまった。イエス様は逆にたとえを用いて神の真理を語り、本当に知りたいと思う者は誰でも真理を知ることができるようにした。イエス様は求める者に知識の鍵を与えてくださる。聖書は、求める心を持って読めばわかる本だ。聖書を読もう。自分勝手な解釈や謎の解釈を施すことなく、書いてある通りに理解しよう。
イエス様がここまで厳しい非難をされたのは、悔い改めさせるためだ。心が頑なで全く聞く耳を持たない人々を悔い改めさせる一つの効果的な方法は、真正面からその罪を指摘することや神の裁きについて宣告することだ。こういう厳しい指摘を受けた結果、悔い改めて救われた人々のことを私は知っている。イエス様が語られたことは単なる悪口でも中傷でもなく、すべてありのままの真実だ。彼らの反応はどうだったか。53-54節。ファリサイ派の人々は自分たちを悔い改めさせる最も効果的な方法を拒絶し、ますます頑なになった。そして、今まで悪意を隠して食事中に密かに行おうとしていた「いろいろな問題で質問を浴びせて言葉尻りをとらえる」ということを、激しい敵意をあからさまにして行った。
私たちも、ファリサイ派の人々と律法学者たちが受けた非難と無関係ではないかもしれない。私たちはそれがイエス様からの真実な指摘であるなら、それがどれだけ厳しく心痛い御言葉であったとしても、心を打ち砕いて、それが事実であると認め、悔い改める者となろう。そうすれば、「不幸だ」とするイエス様の宣言は、一転、祝福に変えられ、私たちはその罪から解放されて自由になることができる。

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