あなたに欠けているものがまだ一つある[ルカ18:18-30]

ルカによる福音書
スポンサーリンク

永遠の命は不老不死や永遠に存在することとは異なります。
神との永遠の愛の交わりの内に永遠の命があります。

あなたに欠けているものがまだ一つある[ルカ18:18-30]


YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
前回の2つのエピソードでも救いの恵みにあずかることについて学んだ。義とされる上でのへりくだりと神の国に入る上では乳飲み子のように神への無垢な信頼を寄せることが必要なことを知った。今回は救いの中でも永遠の命を得るという点についてだ。

18節。ある議員がいた。この人はお金持ちであり、権力もあり、人並以上の道徳的な水準で生きていた。しかもほかの福音書を読むならまだ青年であり、若さがあった。およそ、人がうらやむすべてのものを持っていた。しかし、それでも持っていないものがあった。永遠の命だ。永遠の命を得たい、それは古今東西だれしも持つ願望だ。人はやがて死ぬ。どれだけ多くのものを持っていたところで、永遠の命をもっていないなら、それらはほんの一時的なもの、むなしいものに過ぎない。それは恐ろしいことだ。だから、人が永遠の命を求めることはごくごく自然なことだ。真剣に生きている人であれば誰でも求めるべきだろう。永遠の命を得たいとする願望は神の御心にも適っている。「永遠を求めるのは不健全だ」とか、「人間は死んで土に帰ることを受け入れなければならない」というのは悪魔の嘘だ。ほかならぬ神御自身が永遠を求める心を人に与えておられる。コヘレト3:11。神が永遠を求める心を人に与えておられるのは、神が人に永遠を与えることがおできになるからだ。永遠を求める心は、神からの招待状だ。むなしい人生を送るのをやめたいか?永遠がほしいか?ならば私のもとに来なさい。
あなたは永遠の命をもっているか?持っているなら何よりも大事にしなければならない。持っていないなら獲得しなければならない。
この議員は、イエス様に、永遠の命を得る方法を尋ねた。これは大正解だ。イエス様のもとに答えがある。イエス様もそうおっしゃっている。ヨハネ5:39-40。永遠の命を得たいならイエス様のもとへ行かねばならない。

しかし、この議員のイエス様に対する態度は間違っている。まず、この議員は性急すぎる。イエス様のもとに行って、ただ永遠の命を得るための魔法のような答えだけをすぐに得ようと求めている。イエス様からじっくり学ぼうとか、イエス様の弟子として献身しようという気は全くない。それではいけない。大事なものは、それを本当に大事に思うならば、どれだけの犠牲を払ったとしても求める覚悟がなければならない。インスタントにさっと手に入れなければならないという考えをまず捨てよう。

次に、この議員は、イエス様のことを「善い先生」と言っている。これはイエス様がどのようなお方かわかっていたら決して出てこない言い方だ。まず、普通、ユダヤ教のラビに対して「善い先生」という言い方はしない。この議員がイエス様に対してあえて「善い先生」と言ったのは、イエス様に対するおべっかを使っているつもりなのだ。しかし、イエス様はその間違いを指摘する。19節。イエス様は「善い先生」という言い方を否定する。神お一人のほかに善いお方はいないからだ。「善い先生」というのは嘘だ。この人は聖人だ、この人は生涯罪を犯さず善いことばかりした完璧な人だというのは大嘘だ。どんなに善いように見えても、すべての人は神の救いにあずからない限り呪われた罪人だ。ガンジーも仏陀も孔子も罪人だ。ただ、善い先生というのは人々が造り上げた幻影に過ぎない。では、イエス様は善いお方ではないのか?もちろん善いお方だ。だから、この議員がもしイエス様を最大級の賛辞を込めた呼び方で呼ぶとしたら、善い先生ではなく、「神様」と呼ばなければならない。ここは重要なポイントだ。イエス様をただの人間としかみなさないのであれば、永遠の命にあずかることはできない!イエス様は神様だからこそ、罪なき完全な方であり、私たちの罪からの救い主なのだ。
イエス様は永遠の命を得る方法をお答えになる。20-21節。このイエス様の答えに、議員は拍子抜けしたことだろう。「奇跡を行う有名な先生だというから話を聞きに来たのに、そんなことは誰でも知っていることじゃないか!」そして、そういうことはみな子供のときから守ってきたと豪語した。しかし、それでいて、まだ自分には何か欠けていて、永遠の命をもっていないとわかっていたからこそ、イエス様に尋ねたのだ。
それでは、イエス様はなぜこのように答えたのか?ヨハネ3:16。独り子を信じる者が永遠の命を得るのではないのか?イエス様は「善い先生」と呼ぶ議員に対してこうお答えになった。善い先生という言い方は、善人であれば永遠の命が得られるという考えを暗に示している。まずはその考えを改めさせなければならない。そのために、イエス様はまずこの議員の考えを浮き彫りにすべく、あえてまずこの議員が昔から特に心がけてきたことについて語られた。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」これらは当然守るべきことだ。クリスチャンも大前提としてこれらのことはよく守っていなければならない。これは万国共通の道徳的な教えだ。クリスチャンでなくても、どの国、どの社会、どの民族でも見出される掟だ。多くの人々は、これらのことさえよくやっていれば天国に行けると思っている。この議員もそう思って守るように努めてきたけれども、何かが欠けていた。天国に対する確信がなかった。そこで、イエス様が欠けているものを指摘する。

22-23節。全財産を貧しい人々に施しなさい!イエス様は難しいことを命じられている。議員は非常に悲しみ、イエス様の命令を実行せずに去っていった。なぜイエス様はこの人にだけこんなにレベルの高い要求をなさったのだろう。それは、この議員の欠けているものを満たすためだ。この議員の欠けていたものは何だったのか?神への愛だ。この議員が守っていた「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」は全部十戒の中に登場するが、人間についての掟だ。神についての掟については、イエス様は全く言及されなかった。この議員は善人であろうとしていたが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛していなかった。この議員は神よりもお金を愛していた。その証拠にこの議員はお金に固執してイエス様の命令を実行できなかった。お金を他の人のために使おうとせず、全部自分のために使ってしまっていた。その意味で隣人に対する愛もなかった。この議員はお金を神とし、お金を礼拝の対象としていた。最も大事なものが神であり命であるなら、この議員にとってお金こそが神であり、命だった。
イエス様の言われる永遠の命とは、単に永遠に存在することではない。人間には不滅の霊があり、地獄に行こうと天国に行こうとどの道永遠に存在することになる。ヨハネ17:3。永遠の命は神との永遠の愛の交わりを喜び楽しむことだ。この議員は永遠の命を求めながら、神を神とせず、命としておらず、愛していなかった。私たちはどうか?神を神としているか?何よりも愛しているか?神が何にも代えがたい命か?何よりも神を愛そう。お金よりもこの肉体の命よりも神を愛そう。

24-27節。ラクダが針の穴を通る!これは人間がやろうとしてもどうあがいても不可能なことだ。それよりも、金持ちが神の国に入ることは難しいとは!このことは人々にショックを与えた。お金は神からの祝福の証拠と見られていたからだ。祝福されている金持ちが神の国に入れないなら、一体だれが入れるのか!?それで人々は「それでは、だれが救われるだろうか」と質問した。もしここでイエス様が「貧しい人が入れる」と言えば、イエス様が共産主義革命を起こそうとしたと評価するのはあながち間違っていないだろう。イエス様の教えからそういう解釈をする人々は実際にいる。
しかし、イエス様は「人間にはできないこと」と言われた。そもそも神の国に入ることは人間にはできない。誰にもできない。貧しい人にもできない。聖人と思われている人々にもできない。人がうらやむすべての特徴を持っている人にもできない。善い人は誰もいないからだ。義人はいない。一人もいない。それでは誰も救われないのか?そうではない。「人間にはできないことも、神にはできる!」神には何でもできるからだ。神にはラクダに針の穴を通らせることすらできる。罪深い人間を救うことができる。ただ、人間の方はそのことを信じて、神を神として何よりも愛して従っていけば良いのだ。

28-30節。イエス様は弟子たちの献身をお認めになった。私たちは、イエス様の献身、イエス様の十字架と比べたら、私の献身なんて何でもないと感じるかもしれない。イエス様の御業は確かに素晴らしすぎてすべてが霞んでしまうが、イエス様御自身は私たちの献身を否定しない。ちゃんと評価してくださる。私たちの伝道、私たちの奉仕、私たちの献金、私たちの無料食堂をちゃんと評価してくださっている。そして、それらに報いてくださる。神様を神様として愛して自分の財産や肉親よりも優先するなら、報いがある。この世でも、何倍もの報いがあり、後の世では神の国での永遠の報いがある。ということは、私たちの犠牲は犠牲のように見えて実は犠牲ではない。すべては何倍にもなって返ってくるのだから!このことは真剣に実践してみたすべてのクリスチャンがうなずくところだろう。神を知らない人が「厳しい!大変だ!」というところをクリスチャンは通ることがある。しかし、本人は、世が決して知らないし、誰も奪うことのできない神の無限の愛を知り、人知を超える平和を体験し、喜び楽しみながら永遠の御国に向かう道を歩いているのだ。
イエス様はこの豊かな約束を、貧しい漁師だったペトロをはじめとする弟子たちにお与えになった。貧しい漁師であっても、すべてを捨ててイエス様に従うなら、永遠の栄光がある。これを考えるとき、あの議員が悲しんで帰っていってしまったことはものすごくもったいないことだ。もし彼がこのとき、イエス様の命令通りにしていたらどうなっていただろうか?彼は十二弟子やパウロ以上に用いられる者となったに違いない。神の国でもイエス様と共に治める王とされ、他の誰よりも永遠の報いを豊かに受け継ぐ者となったに違いない。
私たちは何倍もの報い、永遠の報いの約束を信じて、喜んで神を愛し、神にすべてをささげる者となろう。アーメン。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました