復活は生き生きとした希望を与える

福音&主題メッセージ
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復活は、事実に立脚する、信じられる、実感できる、具体的であるという点で非常に生き生きとした希望です。

復活は生き生きとした希望を与える

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【ノート】
イエス・キリストは十字架で死なれたが、三日目に復活され、今も生きておられる神様だ。このことが私たちの救いの土台だ。キリストの復活は私たちに生き生きとした希望を与える。Ⅰペトロ1:3-4。復活は生き生きとした希望だ。

この世の宗教や哲学は生き生きとした希望にはならない。宗教は私たちに道徳を強要する。しかし、生まれながらの人間は腐敗した肉の性質があるので、与えられた道徳的基準通りに生きられない。宗教は私たちが失格者だということを突きつける。だから、世の宗教は私たちに生き生きとした絶望を与える。世の宗教はすべてファリサイ派の人々が律法の行いによって正しい者となろうとしたことに通じる。ローマ3:20。哲学は抽象的な概念を私たちに植え付けようとする。しかし、抽象的な概念は現実感がない。曖昧模糊としていて全然生き生きとしていない。哲学には命が宿っていない。人間の作り事に過ぎないからだ。人間には命を創造することができない。当代最高の知識人の一人であるパウロは哲学をこき下ろしている。コロサイ2:8。

しかし、復活は生き生きとした希望だ。理解できる。信じられる。実感がわく。自分と密接に関係がある。どういう点で生き生きとしているのか、3つの点で学んでいこう。

第一に、復活は歴史上の人物についての歴史的事実である。イエス様は私たちと同じような人間の姿で地上に来られた。イエス様は私たちを同じように少年時代があり、私たちと同じように生きていくために働かなければならなかった。キリストは私たちと同じように感情を持っておられた。私たちと同じように疲れた。眠った。涙を流した。キリストは罪のない方だが、それ以外は私たちと同じようにリアルな人間だったのだ。使徒ヨハネは人間となられたイエス様についてこう書いている。Ⅰヨハネ1:1-4。命の言とはイエス様のことだ。使徒ヨハネは歴史上の人物イエス様を五感で体験した。その方の人格に触れた。イエス様との交わりの内に永遠の命があった。その交わりは、イエス様と直接会った使徒たちだけでなく、御言葉に触れる私たちも体験し、喜びに満ちあふれることができるものだ。
キリストは33年間罪を犯さずに生きた後、最も惨たらしい十字架刑で死なれた。キリストは公開処刑されたので、大勢の人々がそれを目撃した。キリストが十字架上で語ったこと、人々から嘲られたこと、槍で刺されたことはすべて記録されている。そして、キリストは墓に葬られた。墓には番兵がいた。すべての人々がそれで終わりだと思った。しかし、キリストは三日目に復活された。そして、成人男性だけで500人以上の人々に目撃された。彼らはどれだけ厳しい迫害を受けようともキリストを宣べ伝えることをやめなかった。それは別世界の出来事ではなく、2千年前にこの地球で実際に起きたことだ。それは現実であり、少しも曖昧模糊としたところがない。私たちの今は、キリストの復活の延長線上にある。

仏教の浄土真宗のことをキリスト教と似ていると評価することがある。教えに似ている点はある。親鸞の悪人正機説とイエス様が罪人を招くために来たと言われたのは似ている。しかし、歴史的な事実かどうかという点は異なる。浄土教では「南無阿弥陀仏」と唱える。阿弥陀仏はもともと法蔵という名の人間だったのが、長い長い修行の末に阿弥陀仏になったということが「仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)」に書かれている。ところが、法蔵は実在の人物ではない。そのことはお坊さんですら認めている。実在しない、空想に救いを求めているのだ。
しかし、イエス様については実在を疑う学者は誰もいない。聖書以外の古代の書物にもイエス様について言及しているし、敵対勢力すら存在と不思議な業を行ったことを認めている。そして、復活が確かにあったということは、復活があってからすぐに書かれた聖書の記録と目撃者の命をかけた証言によって明らかになっている。今まで論理的に復活を否定できた人は誰もいない。私たちは奇妙な概念とか、空想とか、自分の行いではなく、確固たる歴史的事実に立脚して救われている!ハレルヤ!

第二に、復活は死を打ち破る完璧なしるしだ。しるしとは、誰かが神から遣わされた人かどうかを明らかにするための神の奇跡のことだ。はっきりしたしるしがあれば、その人の言うことを信用できる。イエス様は、たくさんの奇跡を行った。水を葡萄酒に変え、5つのパンと2匹の魚で5千人の群衆を満腹させ、生まれつき目の見えない人を見えるようにし、死んで四日も経ったラザロを生き返らせた。それらの奇跡はヨハネによる福音書で「しるし」と書いてある。こんなことをした人は他にいない!イエス様を信じるべき理由はたくさんあるということだ。でも、イエス様御自身の口では、しるしといえばいつも一つしかあげなかった。ヨハネ2:18-22。死んで三日で復活することがイエス様の最大のしるしなのだ。
なぜ復活が最大のしるしなのか?復活は死を打ち破るからだ。死、死、死!死こそ人間の最大の問題だ。最大の問題を打ち破ることこそ最大のしるしだ。ほかの問題は全部死の影のようなものだ。生まれながらの人間はみんな死が迫れば必ず恐れる。おびえてしまう。いつか死ぬことは人生を空しいもの、意義のないものとする。ソロモンはコヘレトの言葉で救われていない人の人生の空しさをこれでもかと連呼した。何とか死を避けたい。なんとか死を回避するために独自の哲学を作った人たちがいた。しかし、自分が永遠になることを夢想したニーチェは気が狂って死んだ。サルトルは「自分は死を超越している」と豪語したが死ぬのが怖い怖い怖い怖いと言いながら死んでいった。医学もいつも死と戦っている。しかし、いつも必ず最後には負けてしまう。医学が延命治療を発達させても死をやっつけることはできない。人間を機械化してしまえば永遠に生きられると空想する人々もいるが、人間には霊があるので機械になることはできない。このように、肉体的な死だけでも、大問題だ。

ただし、肉体的な死は霊的な死と比べれば副次的なものであり、そんなに大した問題ではない。もっと致命的な問題は人間が神に逆らって罪を犯し、霊的に死んでしまったことだ。霊的な死とは神との断絶だ。人間の祖先は、神に反逆して、食べると必ず死んでしまうと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまった。その結果、命の源である神から離れてしまった。人間は神の栄光の輝きを失い、人生の目的を失い、無価値で無力で呪われた者となった。霊的に死んだ者が肉体的に死ねば、永遠の死、地獄が待っている。すべての人が罪を犯し、永遠の地獄に落ちなければならないものとなった。肉体的な死は自力で克服できない。同じように、霊的な死も、自力でどれだけがんばったとしても、絶対に克服することができない。永遠の死である地獄も、絶対に避けられない。お金によっても、宗教活動によっても、慈善事業によっても、霊的な死を何とかすることはできない。死を前にしてすべての人が敗北者であり絶望するしかない。すべての人は罪と死からの救いを必要としているのだ。
例外なくすべての人に死は臨んだ。この人も死に、あの人も死んだ。この人も罪人であり、あの人も神と断絶していた。王も英雄も資産家も政治家も発明家も道徳家も哲学者も芸術家も学者も宗教家も死んだ。同じパターンが繰り返された。人類の数だけ死が臨んだ。しかし、ただイエス様だけが死を打ち破って復活され、今も生きておられる。
ここに唯一無二の生き生きとした希望がある。そして、この方が私たちに言う。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」復活した方が言われるなら信じられる。信じられる。最大の問題である死を打ち破ったイエス様こそが私たちの罪からの救い主だ。ハレルヤ!

第三に、復活は私の身に起こる。そう、イエス様を信じる者は死んでも生きる。イエス様の復活はイエス様で終わらない。私も体験できる。私と関係がある。復活の私たちのためなのだ。ローマ4:25。復活の目的は私たち一人一人だ。イエス様を信じるなら、私たちは復活することができる。では、私たちはいつどのように復活するのか?実はすでに復活している。コロサイ3:1-5。最初に「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」と書いてある。もう復活させられたのだ。イエス様を信じると、それまで死んでいた霊が復活する。罪によって断絶していた神との関係が回復し、神と交わりを持つことができるようになる。この霊的な復活の力は5節にある地上的なもの、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去る上で力を発揮する。復活の力は罪に打ち勝つ力なのだ。
あなたは復活の力を体験しているか?復活の力はどうやって体験するのか?それはもちろん神との交わりだ。霊が復活して神と交わりを持てるようになっても神と交わらなかったら意味がない。祈ることだ。地上的なものではなく、上にあるものを祈り求めることだ。信仰、希望、愛、きよめ、聖霊の賜物、永遠の報い、知恵、神の御心、神の栄光、御国など祈り求めるべきものがたくさんある。上にあるものを祈り求めれば求めるほど、いかに地上的なものが無価値で空しいものかに気づかされる。神との交わりの中で、祈りの中で罪に打ち勝つ復活の力を体験しよう。復活の力を体験する中で、私たちはなおのこと生き生きとした希望を持つようになる。

復活は二段階で起こる。もうすでに霊は復活している。しかし、肉体はまだ朽ちる肉体のままだ。再臨がまだならやがて肉体は死んで塵に帰る。やがて世の終わりに天使のラッパが鳴り響く時、眠りについたクリスチャンたちが朽ちない体を与えられて復活する。これが未来の肉体の復活だ。新しいエルサレムでは、私たちはちゃんと体を持っている。そのときには、復活されたイエス様のような栄光の体となる。もう死ぬことを心配しなくていい。死はイエス様によって征服された。死も悲しみも嘆きも労苦もない。もう老化を心配しなくていい。永遠の若さが保証されている。罪を犯したり、過ちを犯したりする心配もない。復活の体は強く、栄光の輝いているので弱さを嘆いたり、自己憐憫に陥ったりすることもない。悪霊との戦いはもうない。悪魔の嘘にだまされることはもうない。永遠の愛と喜びと平和がある。全く欠けることのない満足がある。この世で味わったことのない幸せがあり、その幸せが終わる心配はない。私たちは神が設計された栄光に輝く都市に住むことになる。その城壁は宝石、城門は真珠、道路は黄金でできている。都は御父と御子の栄光によっていつも輝いているので、ずっと昼が続く。ハレルヤ。これが私たちの前に待っている報いだ。非常に具体的に啓示されていることを感謝しよう。御国に行くのが待ち遠しい。この世で辛いことがあっても、イエス様の復活の希望があるから耐え忍ぶことができる。一見、状況が悪くなっているように思えるときも、キリストに結ばれる者はみんな永遠の栄光に向かっている。神様は私が望むことをはるかに超えた約束をしてくださっている。ハレルヤ!真剣に信じるなら早く復活の体をもって天国に行きたいと思うのが当然だ。でも、その前に私たちはこの地上でなすべき使命がある。まだイエス様の十字架の死と復活を知らない人々に伝えることだ。伝えよう。復活の力をいただき、この生き生きとした希望を大胆に宣べ伝える者となろう。

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