腰の曲がった婦人を癒す[ルカ13:10-17]

ルカによる福音書
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悪霊はまっすぐなものを曲げてしまうのです。

腰の曲がった婦人を癒す[ルカ13:10-17]

腰の曲がった婦人を癒す[ルカ13:10-17]

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【ノート】
10節。イエス様が会堂で権威をふるうファリサイ派の人々と敵対していたので、多くの会堂がイエス様に扉を閉ざしつつあった。これがイエス様が会堂で教えられた最後の機会だ。実際にこの後には会堂での出来事は全然出てこない。この会堂に出席していた多くの人々にとっては、イエス様の話を聞ける最後の機会だ。イエス様はちょうどこの直前に実のならないいちじくの木のたとえで、神の恵みは豊かだが、それでも全然悔い改めないならいずれもうこれが最後の機会というときが来るという話をされたばかりだ。会堂の人々は悔い改める最後の機会だったがそれを知る由はなかった。また機会があると思っていた。もう機会はこれしかなかった。彼らはその機会を用いて悔い改めたか?この先まで読めばわかるが、残念ながら彼らは機会を無駄にして悔い改めなかった。イエス様の話を聞くのは、いつでもできるか?教会に行けばできる。YouTubeを開けばできる確かにそうだ。便利な時代だ。感謝なことだ。しかし、もしかしたら今日が最後のチャンスかもしれない。そのチャンスを逃すことなく、悔い改めていないことがあれば、今日悔い改めよう。為すべきことをする。

11節。腰が完全に曲がってしまっていてどうしても伸ばせない。努力してみたがどうしようもなかった。これは深刻な問題だ。歳をとると骨粗しょう症性の圧迫骨折によって背骨が曲がることがある。特に40代から50代からその傾向が強くなる。日常生活での姿勢が影響している場合もある。リハビリや矯正治療をしたり、内服薬を使ったりすると改善することがある。そういうこともある。しかし、この女性の場合は、病をもたらす悪霊が原因だと書いてある。この婦人の症状からいくつかわかることがある。
第一に、悪霊はまっすぐなものを曲げてしまう。婦人の腰は本来まっすぐであるところ、曲がってしまっていた。パウロが魔術師エリマと対決したとき、「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」と言った。悪霊は曲げたがるのだ。あなたが御言葉を読むとき、まっすぐにとらえて御言葉に感動して神を賛美すればよいのに、曲がって、ひねくれてとらえてしまい何の恵みも得られないということはあるか?あなたのものの考え方は前向きにとらえればよいのに、考えが曲がってしまい後ろ向きに否定的に悪いようにとらえてしまっていることはあるか?本当は全然そんなことはないのに、絶望的だ、無理だ、みんな私を愛していないと考えてしまうことはあるか?それは悪霊に曲げられてしまっている恐れがある。御名によって悪霊を追い出そう。

第二に、この婦人はずっと下ばかり見ていた。腰が曲がっていると、視野が制限される。首もたげない限り、地面ばかり見ることになる。この婦人は自分の周りのもの、地上のもの、人間のものを見ていた。自分の周りのもの、地上のもの、人間のものばかり見ていると、可能性が何も見えてこない。自分の周りのもの、それは、全世界に比べて非常に狭い範囲だ。その中だけで物事を考えたり判断したりするなら無知なものになってしまう。もう少し視野を広げて地上を見渡してみたらどうか?地上のものはすべていつかは滅びてしまうむなしいものばかりだ。地上にいる神に造られた人間を見たらどうか?人間の小賢しい考えや罪、汚れたもの、貪欲のものばかりが見えてきてしまう。ではどこを見るべきか?上だ。コロサイ3:1-2。神を思い、キリストによる救いを思い、御国を思い、神のご計画に思いをめぐらそう。神は無限にして永遠。神は正しくいまし、不可能はない方。私たちをご覧になり、愛しておられ、迎え入れてくださる方。上を見上げるとき初めて、私たちは十分な視野をもつことができる。
第三に、この婦人は長く苦しめられていた。実に18年だ。生まれつきではないだろう。もし生まれつきの場合、聖書に生まれつきと書いてある。だから、この人は健康なときを知っていた。まっすぐな腰で何不自由なく生活できる便利さ、快適さを知っていた。それがあるとき突然絶たれ、長い苦しみを強いられてきたのだ。長い苦しみは人に何を植え付けるか?あきらめを植え付ける。腰の曲がった婦人は癒しをあきらめていた。ずっとこのまま生きなければならないと思い込んでいた。そうでなければ、数々の病人を癒してきたイエス様が会堂に来られたのだから、自分からイエス様に癒しをお願いしたはずだ。しかし、実際にはイエス様の方が婦人を癒すために近づいておられる。それでは、長い苦しみによってあきらめを植え付けられた人は次にどうなるのか?次に人生への絶望を植え付けられる。どんな苦しみにもいつか終わりが来るからこそ希望が持てる。しかし、一生苦しみ続けて生きなければならないというのでは、人生に絶望せざるを得ない。私たちは、そうならないように、どんな苦しみをもイエス様が憐れんでくださり、いつか癒してくださるという希望を持ち続けよう。そして、どんな苦しみの中でも人生はイエス様によって喜びがあり、生きがいがある。そのことを忘れないようにしよう。

悪霊によってまっすぐのものを曲げられてしまうこと、下ばかり見てしまうこと、長い苦しみによって植え付けられるあきらめと絶望、これら3つの問題はすべて、イエス様とイエス様の御言葉によって解決される。12-13節。イエス様はその女性の痛々しい有様を見ると、何の躊躇もなく癒しを行った。イエス様は婦人に触れる前に御言葉で癒しを宣言している。「婦人よ、病気は治った」と。この御言葉によってあきらめと絶望が取り除かれ、婦人の心に信仰と希望が与えられた。そして、イエス様に触れられることによってどうしても伸ばすことができなかった腰がまっすぐになった。さらには、下ばかり見ていた婦人は、天を見上げ、神を賛美した。全部の問題が一気に片付いたのだ。私たちが直面している問題、それは数が多いように思えても、イエス様はそのすべての問題に癒しと解放を与えてくださる。そのことを信じよう。いまも、そのことを信じる者にイエス様の霊が触れてくださり、婦人に起きたことが私たちにも起こる。イエス様とイエス様の御言葉が曲がった考え、性格、言葉、行動をまっすぐにしてくださる。イエス様とイエス様の御言葉が上にあるものを見上げることを可能にさせてくださる。イエス様とイエス様の御言葉が絶望を消しさってくださる。ハレルヤ!

婦人は神を賛美した。神が働いてくださって癒しが起こった。それは誰の目にもあきらかだったが、喜ばない人がいた。14-16節。神を賛美すべきなのに、会堂長とそこにいた何人かは、腹を立てた。安息日には仕事をしてはならないことが十戒で命じられている。そして、病人を癒すことも治療行為であり、律法学者がつくった律法の施行細則に照らすと仕事にあたるので、安息日にしてはならないと考えられていたからだ。会堂長は自分の考える義の基準に照らしてイエス様に腹を立てた。しかし、そもそも癒しは神によってなされる。会堂長はイエス様が癒しを行うことを良しとされた父なる神様とイエス様と共に働かれた聖霊様にも腹を立てていた。結局は律法の適用に固執するあまり、律法を定めた三位一体の神に対して腹を立てるという本末転倒のことをしてしまった。聖書に基づいて神に従うことは良いことだが、神の御心を考えずに掟ばかりに注目すると神に従うどころか逆に神に背く結果になることもあるということをこの例から見て取ることができる。会堂長はイエス様に直接抗議する勇気がなかったので、群衆たちに安息日に癒してもらおうとしてはならないと呼びかけた。それは間接的にイエス様に対するあてつけだった。イエス様は回りくどいことをせずに真っ向から語られる。
イエス様が語られた内容の意味はこうだ。あなたがたが守っている律法の施行細則では、安息日であっても、家畜の拘束を解いてあげて、水を飲ませに行かせることは問題ないとしている。家畜にすら、安息日に縄目を解いている。それなら家畜よりもはるかにまさる神に似せて造られた人間であり、その中でも特に神に選ばれたアブラハムの子孫である女性が長年サタンによって縛られ続けていたのだから、安息日にその束縛から解いてやるのは当然だ。律法学者のつくった施行細則は、イエス様から言わせればこのように多くの矛盾をはらんでいたのだ。イエス様の御言葉から神の御心について大きく二つのことがわかる。

第一に、杓子定規の掟の適用よりも憐れみの方がまさる。婦人に対する深い憐れみがイエス様を動かした。それでイエス様は婦人に最初癒しに対して求める心や信仰がなかったにもかかわらず、イエス様の方から動いて婦人を癒した。また、イエス様は、律法主義者たちからどう思われようが関係なく、人目をはばかることなく、行動に起こされた。深い憐れみが人を動かす。クリスチャンはイエス様の御心を心とすることが求められる。私たちはどうすればイエス様のように憐れみ深くなり、人々に助けることに積極的になることができるだろうか?憐れみは同情によって生じる。つまり、相手が自分だったらどれだけ大変か、どれだけ辛いのかを深く考え感じ取るようにするのだ。それで相手の苦しみに深く共感するのだ。イエス様はまさに私たちの苦しみを全面的に共感し、苦しんでくださる。十字架の苦しみは、私たちが体験するあらゆる苦しみを共有するものだ。イエス様がそうなさったように、私たちも助けを必要とする人々のために苦しむのだ。しかし、気をつけなければならないのは、共感するだけで終わってしまったら鬱になってしまうということだ。大変な感情を共感して、何もしないと自分も精神的に参ってしまうのだ。イエス様は共感するだけでなく、行動を起こして癒した。私たちには何ができるか?癒しの祈りができるし、本人の前で祈らなくても、執り成しの祈りをすることができる。相手のために祈るのだ。すると、相手から受け取った様々な苦しみが消え去る。すると、不思議なことに祈った相手にも良い変化が生じてくるようになる。

第二に、神はご自分の子が一瞬でも早く苦しみから解放されることを願っておられる。イエス様には、安息日に癒さずに次の日まで待つということはできなかった。目の前にサタンに束縛されている人がいるのに、すぐに解放せずに翌日まで待つ手はない。イエス様は今束縛されている人を今解放したい。確かに、神は何らかの理由により、すぐに癒しと解放をなさらないこともある。だからといって、神が人々の苦しみを延ばしたいと考えておられると誤解してはならない。もし、万事状況が整っていて、私たちが癒しを受け取るにふさわしい信仰や罪の告白などをして、必要な条件を満たしているなら、神はすぐにでも癒しと解放をなさる準備があるのだ。神の御心は一瞬でも早い解放だ。そのことを信じて癒しと解放を受け取る者となろう。

17節。反対者である会堂長たちにも自分たちなりの義があった。人々がイエス様に反対するときにも、ただ純粋に悪意によるのではなく、自分たちなりの義によるものであることも多い。それなりのもっともな理由を持ってイエス様に反対するわけだ。しかし、どんな理由であれ、どんな義をかざしてしたものであれ、イエス様に反対するなら、最終的に恥じ入ることになる。私たちは何によってであってもイエス様に反対することをやめよう。イエス様に賛成し、イエス様とイエス様の御言葉を喜ぶ者となろう。

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