預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはありえない[ルカ13:31-35]

ルカによる福音書
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預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはありえない[ルカ13:31-35]

預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはありえない[ルカ13:31-35]

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【ノート】
31節。大多数のファリサイ派の人々はイエス様に敵対していたが、イエス様を真実に慕うファリサイ派の人々もいた。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが命を狙っていると危険を知らせてくれた。どのグループに属していても、イエス様を慕うことはできる。第一に、自分の置かれているグループによってイエス様への信仰を左右されてはいけない。第二に、他人が置かれているグループだけで判断してはならない。

32節。イエス様はヘロデを狐と呼んでいる。狐ということから象徴されるのは何か?第一に、狐は臆病者だ。狐は知能が高く、用心深くて臆病だ。他の動物の裏をかいて生き延びる習性がある。人間のハンターが来れば、近寄らずにうまく回避することができる。
第二に、狐は有害な動物だ。人間の農作物を荒らす害獣だ。雅歌には、狐が悪さをすることが書いてある。雅歌2:15。ここでは狐は若者とおとめの間の恋愛を妨害する悪者を表している。雅歌はキリストと花嫁なる教会の愛の関係を歌ったもの。狐はその愛の関係を妨害し、引き裂こうと悪を象徴するものなのだ。狐には要注意だ。キリストと私たちの愛を冷まそうと妨害する狐は何か?迫害か、金銭欲か、虚栄心か、出世欲か、情欲か、この世の儚い楽しみか。何であれ、つかまえて取り除いてしまおう。
第三に、狐は役に立たない人間の象徴だった。狐はなつきにくく、ペットにするのは難しい。人間に害は与えど益にはならない。
イエス様は領主ヘロデのことを神に対してそのような人間とみなした。小心者で、神の働きを妨げようとばかりし、神に仕えて役に立つ見込みの全くない人物だというのだ。決してイエス様から狐と言われるような者になってはならない。私たちはむしろ聖霊様で満たされて大胆に神様が喜ばれることを行う者となろう。
権力者である領主ヘロデのことを狐呼ばわりするのは、よほど無礼で無謀な人間か、領主ヘロデにまさる存在かのどちらかだ。イエス様は後者である。ヘロデは一人の領主に過ぎないが、イエス様は王の王であられる。この方の前ではすべての存在が小さくなり、恐れるに足りなくなる。
イエス様からの伝言は「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」これはどういう意味か。領主ヘロデごときがイエス様を殺そうとしたとしても、イエス様の今日の働きにも、未来の働きを全く阻止することができないということ。そして、三日目にすべてを終える!これは、イエス様の十字架の死と復活によって救いの御業を成し遂げるということ。領主が妨害しようとしても、イエス様の地上での働きは全部成し遂げられるのだ。私たちの主人がイエス様なのだから、狐のような者を恐れることのないようにしよう。私たちも、信仰に堅く立つなら、多くの危機や妨害に直面したとしても、神から定められている善い業を最期まで成し遂げることができることが約束されている。フィリピ1:6。

33節。イエス様は脅迫されてもひるむことなく、一日も欠かすことなく、毎日神様がお定めになった御自分の道を進まれる。私たちもイエス様に倣って、どんな時でも毎日一日も欠かすことなく、神様がお定めになった道を邁進しなければならない。あなたは神様がお定めになった道を毎日邁進しているか?「道と言っても、よくわからない!」という方もいるかもしれない。それは絶対にわからなければならない。ここでいう道とは、神様から与えられている使命のことだ。イエス様の場合は、教え、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒し、弟子を育成し、十字架で救いの御業を成し遂げることだった。
あなたの場合どうか?もしわからなければどうすればわかるのか?第一に、神に聞けばわかる。神があなたを様々な働きに召すのだから、神に聞けばよい。進むべき道を教えてくださいと祈り、聖書の御言葉を開くと示される。

第二に、何に熱意を持っているかでわかる。何か良いことに対して熱意を持っているということは、神がそれをお与えになったのだ。ローマ12:11。私たちの内に燃えるものを与えてくださるのは、聖霊様だ。フィリピ2:13。神が私たちに何かをしたいと思わせる。だから、もしあなたが路傍伝道がしたい、学生伝道がしたい、インターネット宣教がしたい、カフェ伝道がしたい、刑務所伝道がしたい、ホームレス伝道がしたい、賛美伝道がしたい、家族伝道がしたい、キリストの弟子を育てたいなどといった熱い思いが与えられていたら、それは主からの召しのサインだ。それをしなさい。私も良いことであれば、たいていの場合、禁止しないし応援する。互いに協力して成し遂げていこう。

第三に、持っている賜物によってわかる。音楽の賜物があれば賛美をすることに召されている可能性がある。絵を描くのが上手であれば、絵やデザインに関する奉仕に召されているかもしれない。週報、ホームページ、チラシ、看板などに載せる絵を描く。文章を書く賜物があれば、兄弟姉妹の恵みのための文章を配信したり、伝道のための情報発信をするように召されているかもしれない。ビジネスの賜物があればビジネスでのノウハウを教会にも取り入れたり、牧師や宣教師をサポートすることで神の国の拡張に貢献したりすることに召されているかもしれない。

それでもわからない場合、霊的に未成熟のため、まだ神様が信頼してまかせるまでに至っていない可能性がある。聖書を学ぼう。信仰の成長に注力しよう。また、明白にこれこそが、私の召しだとわからなくても、今与えられている働きを忠実にしよう。自分の目にそれが小さなものに思えても、実はそれこそが神様から今現在まかされている使命なのだ。そのことを忠実に果たすものに将来もっと大きなこともまかされるのだ。与えられた使命が何かわかったら、毎日そのことに取り組む。イエス様が毎日福音を伝えながら進んでいたように、毎日前進を続けるのだ。いつも具体的な行動をとることができなかったとしても、そのことのために祈ることは少なくともできるだろう。また、本を読んで学んだり、研鑽を積むための何かをしたりすることもできるだろう。毎日励もう。

毎日励むとなるとモチベーションが必要だ。目指すべきゴールがわかっていると、モチベーションが上がるし、脇道に逸れにくくなる。私たちが定められている道のゴールはエルサレムだ。イエス様は道半ばでヘロデに殺される心配を全くせず、エルサレムでの十字架の死を目指して進んでいた。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだという。しかし、エルサレム以外の所で死んだ本物の預言者は本当にいないのか?いる。ダニエルは異国の地で死んだだろう。北イスラエル王国で活動していた預言者たちは皆北イスラエル王国で死んだだろう。ここには霊的な意味があるだろう。預言者がエルサレム以外で死ぬことはありえないとはどういうことか?

第一に、エルサレムは最も高い場所だ。人は東京に行くとき、上京するという。標高は関係ない。首都が国家の中で最も上であり、地方は下であるという意識のもとに使う言葉だ。地方出身者を差別するわけではない。単なる事実だ。エルサレムは山城なので、標高も高いが、それにしても上るという言葉が使われる。詩編にも都に上る歌というのが出てくる。そしてエルサレムより上はない。エルサレムこそが最高到達地点なのだ。
私たちの神への奉仕の歩みは、神が用意しておられる最高到達地点を目指して、常に上に上り続けるものなのだ。そして、エルサレムで預言者が死ぬのであれば、私たちは人生の終わりに至るまでさらなる高みを目指して向上し続けられるということだ。人生の途中で、私たちは成し遂げた、到達した、これ以上はないということはない。その時は死ぬときだからだ。上るということの中には、研鑽を重ねる。奉仕を質的にも量的にも向上し続ける。人格的にも成長し続ける。そして、神の国の領土を広げ続けるということだ。すべての人がエルサレムまで行けるわけではない。恐れたり怠けたりせずに、信仰をもって忠実に歩み続けた人だけがそこに至る。過去をふりかえってはならない。過去の栄光は決して将来私たちが到達できるエルサレムに比べればずっと低いものだ。私の人生にはもっと上がある。教会にはもっと上がある。人生の終わりまで、頂上を目指して進み続け、エルサレムにて終わりを迎えるものとなろう。

第二に、エルサレムは神の臨在の中心だ。エルサレムには神殿があったし、神の箱があった。神の臨在が満ちていたのだ。私たちが使命を果たしていく歩みは、神と共にする歩みであり、人生の終わりに向けて、神の臨在を日ごとに強く体験していく歩みとなるのだ。昨日よりも今日、今日よりも明日、私は神の臨在に強く触れていただくことができる。

第三に、エルサレムは神の計画の中心だ。エルサレムに神殿が建って以来、エルサレムはずっと神の計画の中心地として用いられるようになった。そこで、イスラエルの歴史がつむがれた。イエス様が十字架にかけられ、三日目に復活され、聖霊様が注がれて教会が誕生した。大宣教命令はエルサレムから始まり、エルサレムで終わる。千年王国の首都であり、永遠の天国の名前は新しいエルサレムだ。私たちは忠実の奉仕の歩みは、異邦人のガリラヤにあたる小さなことから始まり、エルサレムにあたる神の計画の中心で用いられるようになるのだ。

第四に、エルサレムは天国だ。人生の終わりの死はより優れた命の始まりだ。召しに忠実な奉仕者には、豊かな報いも待っている。神を知らない者には人生は空しく、下り坂をたどり、死は恐ろしい。しかし、神に忠実な人の人生は最後の最後まで最高の目的地を目指す楽しい旅路だ。

34節。雌鶏は神であり、キリスト。イスラエルの民が雛。主は繰り返し預言者に送ってイスラエルの民を御自分のもとに立ち帰らせようとされた。それは雌鶏が雛を守るように、イスラエルの民を破滅から守るためだ。しかし、イスラエルの民は応じず、預言者たちを石で打ち殺してしまった。そして、今最大の預言者であり、神の子であられるイエス様をも十字架にかけて殺そうとしている。そんなことをすれば、いよいよ神がイスラエルの民を守ることは不可能となり、災いが降ることになる。どんな災いか。
35節。お前たちの家とは神殿のこと。紀元70年のエルサレム陥落のときに神殿も崩壊し、ユダヤ人の国家は完全消滅した。「主の名によって来られる方に祝福があるように」ということになるのはイエス様の再臨のとき。詩編118:26。これはエルサレム入城のときに一度成就している。ホサナといってユダヤ人はイエス様を歓迎した。しかし、最終的にほとんどのユダヤ人は悔い改めず、イエス様を十字架にかけてしまったので、紀元70年の出来事があった。イエス様はクリスチャンと共に地上に再臨し、反キリストを倒して迫害されていたユダヤ人を救済し、エルサレムに歓迎されることになる。今はイスラエルが再建されているので、そのことの実現が差し迫っている。預言者の語ることに聞き従わなければ破滅する。あなたは預言者の声に従っているか。聖書はすでにある。礼拝でメッセージが語られている。今日は何が語られたか。狐の妨害を恐れずにエルサレムに突き進んだイエス様に倣って自分の道を毎日進むことだ。その通りに実践しよう。

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