深く掘り下げて、世とは逆の方向に向かいます。
岩の上に土台を置いて家を建てる[ルカ6:43-49]
【ノート】
43-44節。木によって、結ぶ実は決定しているということ。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。いちじくの実を結ぶのはいちじくの木だけであり、ぶどうの実はぶどうの木からだけとれる。それ以外の結果が得られることは絶対にない。ここでいう木というのは人間のこと。良い木は良い人。悪い木は悪い人。良い実とは良い言動のことであり、悪い実とは悪い言動のこと。良い人は絶対に良い言動をし、悪い人は絶対に悪い言動をする。ここから大きく2つのことがわかる。
第一に、悪い人が良い言動をとることは不可能だ。もし、私たちが聖書に書いてあるいろいろな掟にばかり注目し、それを必死で守ろうとするだけなら、私たちは失望するしかない。生まれながらの人は全員悪い人だ。どれだけ歯を食いしばってがんばっても、努力しても、その結ぶ実は悪い実でしかない。ファリサイ派の人々は徹底的に律法を守ろうと努力をしたが、その結果、イエス・キリストから最悪の評価を受けることになってしまった。悪い実の中身はどんなものか?ガラテヤ5:19-21。肉と書いてあるが、これが生まれながらの人間が全員持っている罪を犯させる性質だ。こういう性質を抑制し、なるべく悪さをしないようにするのが、悪い性質を出さないようにすることが世の中でよく教えられていること。消極的に悪を避けて、生きるということ。しかし、それでは不十分である。バプテスマのヨハネが教え、イエス・キリストも説いておられるのは、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」ということだ。イエス・キリストは葉ばかりで実がなっていないいちじくの木をご覧になって、一言呪ってその木を枯らされた。そのいちじくの問題は悪い実を結んでいたことではなく、良い実を結んでいなかったこと。良い実を結ぶ者とならなければならない。しかし、悪い木、つまり悪い人であればそれは不可能だ。それでは、どうすればいいのか?新たに生まれれば良い。イエス・キリストは「霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われた。イエス・キリストを信じる者は、聖書様による誕生を経験する。このことを新生という。生まれなおすことにより茨がいちじくになるような変貌を経験する。その人は自分の内に良いお方である聖霊様をもっているので良い実を結ぶことができる。その良い実とはどんなものか?ガラテヤ5:22-23。信仰を持ち、聖霊様による交わりを豊かにもっている人は自然に良い実を結ぶ。だから、私たちは、イエス様への信仰を深め、聖霊様による交わりを大切にしよう。その上で掟を守る者となろう。私たちを通して良い実が豊かに結ばれることを信じる。
第二に、結ぶ実によって人の性質がわかる。葉っぱだけ立派な人がいる。学歴は立派、肩書は立派、能力はすごい、人気は絶大、しかし、良い実を結ばない人はいる。それこそ聖霊様の賜物をものすごく豊かにいただいて様々な奇跡に用いられているのに、聖霊様の実は全然結ばない人が残念ながらいる。主は実で判断される。私たちも愛の実が結ばれているかによって、自分について判断する者となろう。あなたは自分がどんな木だと思うか?聖霊様から恵みの養分をいただき、おいしい実を結ぼう。
45節。心には、悪いものか良いものが入っている。それが、言葉として口から出てくる。あなたの倉の状態は?悪口や陰口、否定的なこと、不信仰なことばかり口にする人は悪い世にあって、心に悪いものを入れているからそれが口からあふれて出てくるのだ。心にある悪いもののリストがマタイ15:18-19に書いてある。インターネット、テレビ、人との会話の中で、あるいは環境や状況を通して、悪魔の毒が私たちの目や耳や考えに入る機会が頻繁にある。クリスチャンであっても私たちはこの悪い世で生きているので、悪いものを心に入れやすい。悪いものをたくさん入れると良いものが入るスペースが減ってしまう。それではどうすればいいのか?まず、何を心に入れるかを決めるのはその人次第だ。私たちは心を守ることができる。戦って勝つことができる。箴言4:23。悪いものが来ても、ブロックすることはできる。はじきとばすことはできる。
真理の御言葉に照らして、「これは主から来たものではない!」と退けることはできる。また、間違って悪いものを入れてしまった場合は、それを祈りの中で主の御前で告白して、取り除いていただくことができる。悪い思いや考えについては、イエス様の御名で退けることもできる。私たちには心の倉のお掃除が定期的に必要だ。
それでは私たちの心を満たし、心から取り出したい良いものは何か?まず、聖霊様。聖霊様で心を満たすには、信仰によって祈り求めることだ。主はパンを欲しがる子供にパンを与えてくださるように、聖霊様を欲しがる私たちに聖霊様を与えてくださる。子供のような素直な心、純粋な心で必ず与えられると信じて求めれば与えられる。そして、私たちの口からは異言や預言があふれ出るようになる。次に御言葉。御言葉の朗読によって、御言葉の暗唱によって、ディボーションによって御言葉を心に納めることができる。そうすれば、御言葉が口から出てくるようになる。いつも聖霊様で満たされ、主に統治された心で生きるなら、口からは塩味の利いた言葉が自然と出てくる。人を励まし、建て上げる恵みの言葉があふれでてくるようになる。
46-49節は家と土台。イエス様はここで平地の説教の絶大な権威を示して締めくくっている。イエス様は人間の心をご存知のお方。イエス様がはっきりと命じても、聞くだけで満足してしまい、多くの人がいろいろな理由をつけて主の御言葉にそのまま従おうとしないことをご存知だった。御言葉を聞くときは感銘を受けるけれども、すぐに忘れていつもの生活をしてしまう。そこで主は締めくくりに従順と不従順には大きな違いが生じるということを明言しておられる。御言葉に対して、従順するか、不従順するかは私たちの未来を決定づける。
46節。たまにこんな人がいる。「私たちはイエス・キリストを信じてすべての罪が赦されて天国に行けるのだから、なんでそんなに熱心に御言葉を行おうとする必要があるのか?」そして、熱心に主に従おうとする人がいると水をさす。「そんなに熱心に従おうとするのは行き過ぎている。私たちは恵みにより、信仰によって救われたではないか。そんなにがんばるのは律法主義だ。」信仰によって救われたことを感謝!しかし、私たちはどのような信仰によって救われたのか?それは、イエスを主とする信仰だ。ローマ10:9-10。それで、イエス様を主と呼ぶ。この主というのは、原語にギリシャ語ではキュリオスという言葉が使われている。キュリオスは名前ではなく称号だ。そこには「ご主人様」という意味が含まれる。クリスチャンの信仰にはイエス様を自分のご主人様として従うということが含まれる。だから、主よ、主よというだけでイエス様の御言葉に全然従わないというのは矛盾だ!それは口先だけの信仰となってしまう。さらに、イエス様がここで問題としている人の中にはすばらしい御業に用いられているが、全部自分のためだけに行っている人も含まれる。人から脚光を浴び、注目され、お金をたくさんもらうことが目的で、イエス様をご主人様として仰いで仕えるのではなく、逆にイエス様が自分の僕であるかのように御名を利用する。主の御名には力があるので、そういうことができてしまう。私たちは、自分の立場をはっきりさせよう。主を自分の主人として、主に仕えよう。
47-49節。家を建てるというのは人生のこと。私たちの人生は何の上に建っているか?岩の上に家を建てた人も、土台なしに家を建てた人も、家を建てることには成功している。一見、何の違いも見出せない。それで、「聞き従っても聞き従わなくても、結果は変わらないではないか」と思い込んで、しっかりとした土台の上に建てることを怠る人がいる。しかし、違いは川の水が押し寄せることによって明らかになる。これは、主から与えられる試練や裁きだ。そして、それは必ず与えられる。地上での人生の途上にそういう機会が訪れることもあるし、そうでなくても御国に入るときには必ず与えられる。川の水は必ず押し寄せてくる。イスラエルでは夏になると川が干上がって川床が現れる。しかし、秋の雨が降ると干上がっていた川は激流に変わる。手を抜いてやわらかい地面に建てた家はすぐに倒れる。これは、かろうじて天国に行けるかもしれないが、何の報いもない人生。岩の上に土台を置いて建てた家はびくともしない。これは豊かな報いを期待できる人生だ。
このたとえから、人生の土台を築くことが大切だとわかる。人生の真の土台はただひとつ、イエス様の御言葉に従順することだ。二人の人の決定的な違いを二つ挙げる。この二つのことを押さえて、イエス様の御言葉の実践の伴う人生を歩む者となろう。
第一に、将来のことを考えたかどうか。岩の上に土台を置いて家を建てた人は確実に押し寄せる川の水に備えた。しかし、土台なしに建てた人は目の前のことしか考えなかった。自分の建てた家が半年後にどうなるか、考えもしない。自分の人生が将来どうなるか考えないで生きる生き方は最初から破綻している。私たちは、確実に訪れる主の裁きの日を見据えて今の人生を生きる者となろう。川の水が必ず押し寄せてくることを認識して、イエス様の御言葉の実践を土台とする生き方をしよう。
第二に、見えない部分に労力をかけたか。岩の上に土台を置いて家を建てた人は、大変な労力をかけた。人の目には見えない土台の重要性を理解していたからだ。48節で、「地面を深く掘り下げ」と書いてある。土台なしに建てた人は上に上にと人の目に映る部分を着々と建てていくのに対して、逆に下に下にと人の目に映らないところを深く掘っていく。これは主の御言葉を深く掘り下げて、しっかりと悟り、実践していく過程だ。御言葉を前にして、「これを自分の生活で実践するというのは具体的に何をすることなのか」ということを掘り下げなければ、実践には至らない。そして、何をすれば良いのかわかったら、その通りにする。それはたやすいことではない。しかも、地味で目立たず、世の中からは評価されない。だから、土台なしに建てた人のように怠り、安易な道を進もうとする人がいる。しかし、掘り進めて行けば岩に到達する。ここでいう岩は何を指しているのか?岩はイエス様を指している。詩編18:3。イエス様の御言葉の実践は、イエス様との深いつながりの中で可能なものだということ。御言葉の実践は自分の行いで自分を守ることではなく、イエス様による保護、イエス様による支えを得るものなのだ。
イエス様に支えられて、イエス様の御言葉の実践を土台とするなら、どんな困難が訪れようとも、いつの日か主の御前に立つ時も、決して揺り動かされることのない強さを持つことができる。損なように見えて、最も安全で、最も賢明で、最も祝福された人生を歩むことができる。
私たちはたとえ大変な労力が必要だったとしても、イエス様とのつながりの中で、イエス様の御言葉の実践を土台とする人生を歩む者となろう。
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