今まで主は我々を助けてくださった[サムエル記上7章]

サムエル記
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エベン・エゼルは一生の財産です。

今まで主は我々を助けてくださった[サムエル記上7章]

今まで主は我々を助けてくださった[サムエル記上7章]

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【ノート】
契約の箱は、主の臨在をとどめるもの。イスラエルは偶像のように扱って戦いに惨敗、ペリシテ人は主の御前に勝ち誇ったので国全体をはれ物で打たれ、ベト・シェメシュの人々は箱の中をのぞいたので70人が打たれて死んだ。それで、ベト・シェメシュの人々も、自分たちのもとに契約の箱をとどめておくことができないと考え、キルヤト・エアリムに箱を移すことにした。こうして、神の箱はたらいまわしにされてしまった。本来は大きな祝福をもたらすはずの主の臨在なのに、人々は逆に避けてしまっている。主の臨在の中に、力、解放、癒し、喜びがある。私たちが待ち望んでいる御国がすばらしいのは、そこに主の臨在が満ち満ちていることだ。主の臨在を遠ざけようとするというのは、天国を遠ざけようとするようなもの。日本の諺に触らぬ神に祟りなしという言葉があるが、これは完全に間違った態度だ。過ちを犯して打たれることを恐れて遠ざけようとするのではなく、正しい扱いをすることを心がけて主の臨在をとどめようと努めるべきだ。

その点、キルヤト・エアリムの人々は正しくふるまった。1-2節。キルヤト・エアリムの人々も契約の箱を自分たちのもとに置くことのリスクを知っていたであろうが、そのリスクを恐れずに、箱を担いで、民家のもとに安置した。エルアザルという一人の人を聖別して、神の箱を守るようにした。私たちもこの人々のように、自分や教会に与えられている主の臨在が失われてしまわないように、守る責任を果たす者となろう。
契約の箱は丸20年間もキルヤト・エアリムのエルアザルの家にあった。それまでイスラエルはエルカナとハンナの家のように、定期的にシロの臨在の幕屋に行って生け贄をささげて礼拝する習慣を持っていた。キルヤト・エアリムの契約の箱に対してイスラエルの人々がどのような態度をとったかは書いていないが、少なくともシロで行われていた、油注がれた祭司があらゆる祭具を用いて生け贄をささげるといった礼拝を完全に再現することはできなかっただろう。イスラエルは礼拝をささげる場所を失った。それで、霊的な空白が生じて、主に対する飢え渇きが強くなった。ペリシテ人は依然としてイスラエルに敵対して、侵攻してくるという危機的な状況も重なった。それで2節にある通り「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」のだ。

そこへサムエルの語り掛けがある。20年のうちに、エリに代わってサムエルがイスラエルの指導者とみなされるようになっていた。サムエルは、どうすれば霊的な飢え渇きを満たすことができるかを説いた。3-4節。これこそが、エベン・エゼルでの戦いでペリシテ人に初戦で負けた後にするべきことだった。異教の神々やアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えるということ。イスラエルは士師記にある通り、長い間カナンの地に定住するうちに、カナン人や周辺の国々から偶像を取り入れてしまった。生活の中に偶像があるのが当たり前のようになってしまっていた。サムエルはそれらを全部取り除くように命じた。イスラエルも薄々は、「偶像が原因ではないか?」と思いつつも、はっきりとした指摘がなされていないので「どうすればいいのかわからない」とか、「まあ、このくらいのことは大丈夫かもしれない」と曖昧にしてきた。霊的な戦いに負けてしまう理由は何か?霊的な飢え渇きが満たされない理由は何か?多くの人は実は薄々気づいているが曖昧にしているその罪深い習慣が原因だ。それが戦いに負けてしまい、霊的に満たされず、祝福を押しとどめてしまっている原因だ。イスラエルは即座に従順して偶像を取り除いた。決断をもってはっきりと悔い改めて、ただ主にのみ仕える純粋さを取り戻そう。

5-6節。あなたたちのために祈ろうと言っている。これは「執り成そう」という意味。旧約で祈りというと執り成しと同義。執り成しというのは、二者の間に立って関係を取り繕うこと。サムエルは主とイスラエルの間にたって関係を取り繕おうとした。この執り成し手なしにはそもそも悔い改めは成立しない。ここでは、サムエルを通じてイスラエルは主に立ち帰ることが可能となった。今では、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストの執り成しによって主に立ち帰ることができる。
イスラエルはサムエルの命令で、ミツパに集められた。ミツパでの集会は、士師記でも行われた。ベニヤミン族が忌まわしい罪を犯したので、その処断を決めるための会議を開いた。その際のイスラエルのやり方は行き当たりばったりで拙かったが、主からの託宣を求めようとはした。ミツパは見張り所という意味。主が悪を行わないか見張っているということ。すべてを見張っておられる主の御前では何も隠すことができない。イスラエルはミツパで断食し、罪を洗いざらい告白した。リバイバル集会だ。このとき集まって心を尽くして主に立ち帰るために必要なことが全部行われた。水をくみ上げて主の御前に注ぐというのは、悔い改めの表明だ。哀歌2:19。心を注ぎ出すというのはハンナが子供を求めるときにした祈りでも行われた。ここではハンナが産んだサムエルのもとで全イスラエルが国家規模で心を注ぎ出して悔い改めている。

このとき、サムエルはミツパで「イスラエルの人々に裁きを行った」と書いてある。「あれ、執り成しではなく裁き?」と思うかもしれない。実は裁きという言葉には「人の権利を建てる」つまり、救うという意味がある。つまり、裁きびとは救助者なのだ。そして、カナン定住以後イスラエルを裁いてきたのは士師だ。サムエルはここでイスラエルの最後の士師として主によって立たされている。

7-11節。ペリシテ人はイスラエルが集まって断食して弱っている隙に攻撃しようと思ったのだろうか、ミツパに攻め上ってきた。「主は恐ろしいが、イスラエルは恐れるに足りない。神の箱はミツパにないので大丈夫だろう」という考えかもしれない。そこでイスラエルがとったのは、ペリシテ人を迎え撃つべく戦闘の準備をするのではなく、サムエルを通してひたすら主に頼ることだった。イスラエルはサムエルに執り成しを続けさせ、すべての望みを主に託した。ここでサムエルは生け贄をささげることで、預言者だけでなく、祭司としての役割をも果たしている。忠実な指導者と悔い改めた民が信仰を持って主に助けを求めている。主が聞いてくださらないわけがない。主が雷鳴を起こしてペリシテ軍を混乱に陥れたので、イスラエルはペリシテ人を打ち負かすことができた。イスラエルが軍事行動を起こす前にペリシテ人はもう主によって打たれていたのだ。20年前は神の箱を陣営に持ってきて大歓声をあげて地をどよめかせたがあっさり負けた。ここでイスラエルは主に助けを求めて一見弱々しいが、主からの雷鳴がとどろいて勝利した。イスラエルはサムエルの指導の下確かに変わった。

12節。エベン・エゼルは20年前にイスラエルが負けた苦い記憶の場所だ。そこに、今度は主の御助けによる勝利を記念する石を立てた。そのエベン・エゼルを見た者はみな、罪を犯すと負けるが、主はリバイバル集会の後、敵を打ち破ってくださったということを思い出す。そして、困難に直面したとき、「今までも主は助けてくださったのだから、また助けてくださるに違いない」という信仰を持つことができる。あなたにとってのエベン・エゼルにあたる出来事は何か?奇跡に用いられたこと、困難に思えることが悔い改めの祈りによって可能となったことはあるか?それを石に刻むようにしっかり記録し、記憶しよう。私たちの信仰を強めるための一生の財産として、用いることができる。
13-17節はサムエルの功績のまとめ。
13-14節。サウルが王になった後は、またペリシテ人の侵入があるが、サムエルがメインのときには、ペリシテ人は一切手出しできなかった。しかも、軍事的な指導者でもないのに、攻撃を防ぐだけでなく、領土を奪還することにまで成功している。

15-17節。サムエルは生涯現役だった。ダビデが登場した後も亡くなる直前まで長く用いられる。巡回伝道者のように、イスラエルの中心地をめぐって紛争の解決や預言をしてイスラエルを指導した。

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