ダビデ、全イスラエルの王になる[サムエル下4-5章]

サムエル記
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ダビデは御言葉によって王に立てられ、御言葉を聞いて戦いに勝利しました。

ダビデ、全イスラエルの王になる[サムエル下4-5章]


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【ノート】
1節。イシュ・ボシェトはアブネルが殺害されてすっかり力を落としてしまった。サウル家は完全にアブネル頼みだったからだ。アブネルが軍事的にも政治的にもサウル家でリーダーシップを発揮していた。そのアブネルがいなくなったら、もうどうしようもないというわけだ。人間偶像崇拝だ。人間頼みだと、その人間がいなくなると絶望してしまう。そして、人間というのは、いつかはいなくなってしまうもの、この世を去るか、何らかの理由で自分から離れていくということが必ず起こる。ということは、人間頼みの人は、必ず絶望することになるということだ。聖書では、人間頼みの愚かさをこのように語っている。イザヤ2:22。人間の鼻と口をふさいだらどうなるか?あっという間に死んでしまう。人間はほんのわずかの間でも息をとめていたら死んでしまう。そんな人間を頼りにしてはならない。牧師であれ、政治家であれ、誰であれ、人間を頼りにしてはならない。主を頼りにしよう。主を頼りにしていれば、牧師が変わっても、政権が変わっても、師と仰ぐ人がいなくなっても、力を落とすことはない。絶望してしまうことはない。主は変わらない、死なない、離れないからだ。人間頼みではなく、偉大なる主を頼りにする私たちになろう。

2-3節。下手人の二人が紹介されている。二人ともイシュ・ボシェトと同じベニヤミン族だ。この背景からはイシュ・ボシェトを裏切る理由がないことがわかる。二人の犯行が身内を殺害するものであり、弁解の余地のない悪事だった。キリストとクリスチャンの関係はもっと密接なものだ。クリスチャンにとってキリストは王であるだけでなく、罪からの救い主であり、命の恩人だ。さらには、クリスチャンはキリストと一つの霊にされているほど深く結びついている。その結びつきは実の家族よりも強い。これらの背景はクリスチャンがキリストを裏切るべきでない理由となり、仮に裏切るならばその裏切りがどれだけ弁解の余地のない悪事となるかを教えている。

4節。突然、メフィボシェトのことが触れられている。イシュ・ボシェトが暗殺されても、サウル家が完全に絶えるわけではないことをあらかじめ示している。そして、ダビデとヨナタンの間で結ばれた友情に基づく契約を履行する余地があることを知らせている。家族を代表して立つ者が一人でもいれば、その人がどれだけ弱い立場で、障害を持っていたとしても、将来に続く希望の芽が保たれているということ。あなたの存在は、決して小さいものではなく、あなたの家族や周囲の人々を祝福するものだ。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」と書いてある。「あなたがたは世の光である」と書いてある。

5-8節。レカブとバアナのやり方は完全に騙し討ちだった。彼らはイシュ・ボシェトを殺害した後、追手を恐れて夜通し歩いてダビデのもとに行った。そこまでの苦労をしたのは、きっとイシュ・ボシェトを討てばダビデから褒美をもらえると思ったからだ。ダビデがどんな王かを完全に誤解していた。ダビデ自身はギレアドのヤベシュの住民に使者を送って、サウルを丁重に葬ったことをほめて「忠実を尽くす者に報いる」王だと知らせていたが、下手人の二人をそのことをよくわかっていなかった。王のことがよくわかっていなければ、大変な苦労をしたところで、報いられることはない。私たちは自分の王がどんなことに報いる方か知っているだろうか?イエス様はたびたび天の報いについて語られた。私たちは御前に立つときに、イエス様が語られた通りの基準で報いを受けることになる。人前で善行を自慢するなら報いはなくなる。
人知れず善行を行うなら報いをいただける。迫害されるなら報いをいただける。クリスチャンだという理由で水一杯のもてなしをするなら報いをいただける。お返し愛しやすい人を愛しても報いはない。敵を愛するなら報いをいただける。イエス様を最優先にする者は報いをいただける。レカブとバアナのように見当はずれなことに労力を注いではならない。王に喜ばれることは何かをよく知って、王に報いていただける生き方をしよう。

9-12節。ダビデは二人を処刑してさらし者にした。厳しい態度をとった。ダビデは自分の味方をするならだれでも歓迎するわけではなかった。ダビデは、忠実を尽くす者のことを喜んだ。相手がだれであれ、変わらない態度で仕える者を信頼した。ましてや、自分の主君に殺害する者のことなど信頼できない。日和見主義に対しては、容赦しない。これは、イエス・キリストの私たちに対する態度でもある。主は「『然り、然り、否、否』と言いなさい。それ以外は悪いものから出るのである」として、灰色的な態度を悪となさっている。当然私たちはイエス様に対しては然り、然り、アーメン、アーメンと言い熱烈に従おう。イエス様のすべての命令に対して信仰でアーメンと告白しよう。聖書の御言葉の一点一画すらも神の権威によるものだと信じ、聖書全体を神の御言葉として一点の曇りもなしに信じ切ろう。一生涯、変わらぬ忠誠を持って仕えよう。天地が揺り動かされても、我らの主イエス・キリストに対する忠誠は微動だにしないようにしよう。しかし、たとえ、私たちに不誠実なところがあったとしても、私たちの主はどこまでも変わらずに誠実だ。Ⅱテモテ2:13。イエス様は私たちの不誠実さに対しても、誠実さをもって対応してくださる。王であられるイエス・キリストが、私を愛して十字架で死んでくださった。私たちがイエス様に仕え始める前に、イエス様は、もう私たちが一生かかけても恩返しできない恵みを与えてくださった。この救いの恵みにあずかったなら、確かに日和見主義でいることはありえない。できない。都合が悪くなったらサタンの側につくなんていうことはできない。日和見的な態度を捨てて、イエス・キリストにどこまでも忠実を尽くそう。

1-5節。ダビデは自ら王になろうと画策せず、主によって王に立てられるのを待った。ダビデはどのくらい待ったか?イシュ・ボシェトがイスラエルの王だったのは2年間で、ダビデがヘブロンでユダの王だったのが7年半だと2章に書いてある。ということは、イシュ・ボシェトの暗殺から5年半もの間、待ったということだ。権威は主によって立てられる。自ら偉大な者になろうとあくせくするのではなく、主がふさわしい時にふさわしい立場を与えてくださるのを待とう。
イスラエルがダビデを王にしたのは主の御言葉によるものだった。主がダビデに言われたのは、「わが民イスラエルを牧するのはあなただ」だ。神の民は牧される必要がある。羊飼いが必要だ。ペトロは「私の羊を飼いなさい」と命じられた。クリスチャンも牧される必要がある。クリスチャンには牧師が必要だということだ。牧師頼みになるということではない。私たちに対して、主は私たちが所属する教会に立てた牧師を通して語られ、癒され、成長させ、ビジョンを与えるということがある。教会に所属しないクリスチャンは、羊飼いのいない羊のような存在だ。教会に所属しつつ、YouTubeでいろいろな牧師のメッセージを聞けるのは恵みであり、感謝なことだ。しかし、もし、そういうことをすることで、自分の教会のメッセージを聞けなくなってしまっていたら、YouTubeを見るのをやめて、自分の教会で語られていることに集中しよう。

6-10節。エルサレムはエブス人に支配されていた。エブス人というのは主が滅ぼすように言われたカナンの地の七つの民族の一つ。エルサレムは難攻不落の城塞都市だったので、イスラエルが約束の地に入ってもう数百年経過していたが、いまだに陥落させることができていなかった。それで、エブス人たちは要塞の守りを頼みとして、「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でもお前を追い払える」と言って侮った。今度は物を頼みとしている。ダビデは数百年落とせなかった要塞を陥落させた。約束の地をことごとく手に入れることができるという神様の約束を信じていたからだろう。詩編20:8。物よりも、主が頼りになる。一見不可能に思えることも、神様の約束に基づいて行動するとき、成し遂げることができる。お金がなくても、人が少なくても、能力がなくても、状況が悪くても、主の約束の御言葉があるなら、必ずできる。
ちなみにここには「水くみのトンネル」という描写が出てくるが、エルサレムの発掘調査の中で、ちょうどダビデの時代にあたるトンネルが発見されている。聖書の記述はすべて歴史的な事実である。

11-12節。王位が手に入り、都市が手に入り、さらには外国からの支援により王宮の建設までできた。主の御働きだ。主の御働きにゆだねるならば、自分であくせくするよりもどれだけうまくいくかわかる。

13-16節。ダビデはさらに妻と側女をとっている。王がやってはならないこととして申命記に規定されていることを破っている。ハーレムの拡大=罪の拡大。罪は一度良しとしてしまうと破滅するまで拡大の一途をたどる傾向がある。ここまでするつもりはなかったというところまで言ってしまう。

17-25節。主の御声に聴き従ってペリシテ人に勝利している。ここでのポイントは、二度の戦いで、ダビデはどちらについての主の御声を聞いてから戦っているということだ。毎回御声を聞くことが大事だ。なぜなら、勝利の方法はワンパターンではないからだ。最初は正面からの戦いでバアル・ペラティムの勝利を得られた。しかし、二度目は背後に回り込んで奇襲攻撃をかけて打ち破った。主は別の方法で勝利をもたらされた。方法論に頼ってはならない。「前回はこのテキストを使って人が救われた。前はこの順番に賛美をする主の臨在が濃くなった。去年はこういう祈りの言葉に神様は答えてくださった。」もちろん、それらを引き出しの一つ、武器の一つとして持っておけばまた役に立つこともあるだろう。しかし、「だから、今回も同じ方法を…」というのは違う。主は新しいことをなさるお方だ。イザヤ43:19。主はワンパターンではないお方だ。だから、毎回御声を聞く。主が心に語られるのを聞く。聖書を開いてディボーションをし、主が今、私と私の教会に何を語っておられるのかを聞く。時には被災地にも行く。私たちを必要としている人々のもとに行く。一つだけいつも同じこと、ワンパターンなことがある。ダビデが二度託宣を求めると、どちらについても主はこうこうこうすれば勝てると言われた。聞き従うなら、主が必ず勝利を賜る!われらの主はペリシテ人が捨てていった偶像とは全然違う!偶像は戦いで何の役にも立たない。どうすればいいか聞いても何も答えてくれない。われらの主は、答えてくださり、聞き従う者に確実に勝利を与えてくださる。一歩一歩、主に聞き従い、勝利を得る者になろう。アーメン。

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