流浪生活は主への信頼を養うための訓練でした。
主は様々な方法でダビデを力づけ、王としての召命を確信させようとします。
アドラムの洞窟で軍団を形成する[サムエル上21-22章]
【ノート】
1節。ダビデはヨナタンと別れて、逃げた。サウル王に指名手配され、追われる身となった。それまでは王の家臣として重宝され、食べる物や戦いの武器を手に入れるのに苦労をしなかった。しかし、これからは、パンを食べるということについてだけでも命をかけなければならない。ダビデはそういう厳しい状況に追い詰められていた。21章では、逃亡生活の始め、人をだますことによって難局を乗り切ることになる。
2-7節。ダビデは自分によくしてくれていた祭司アヒメレクのもとを訪ねて、必要な物資を受け取ることにした。アヒメレクは千人隊長のダビデが従者も連れずに一人で来たので、不安を覚えた。しかし、まだサウルとダビデの間の決定的な決裂を知らなかった。そこで、なぜ一人なのかを尋ねた。もしダビデが正直にサウルに追われていることを知らせたら、断られてしまうかもしれない。場合によっては捕らえられたり、密告されたりするかもしれない。ダビデはすらすらと辻褄の合う話を主の祭司に対してした。従者たちと後で落ち合う予定というのは本当だ。イエス様がこの件を引用してはっきりと従者が一緒にいたといわれたからだ。しかし、ダビデは、自分がサウルからの急なミッションに駆り出されているのだと言った。これは完全に嘘だ。このとき、ダビデは自分が知恵を使ってうまいことやったと思ったが、後悔することになる。
では、ダビデがここでしたように、命に関わる危機を避けるために嘘をつくことは常に悪なのか?罪なのか?これは確かに、「嘘をついてはならない」という神の掟に違反するように思える。しかし、掟の文字通りの遵守ばかりにこだわって、その人の置かれた状況を全く考慮しないことは、主の御心に適わない。たとえば、アヒメレクは、本来祭司の一族以外の人が食べてはならない聖別されたパンをダビデに渡した。イエス・キリストはこのことを引用して、律法を杓子定規に適用することよりも、人を憐れんでその差し迫った必要を満たしてあげることの方が優先されると言っておられる。マタイ12:3-4。聖別されたパンをダビデが食べたことを主はやむなしとしている。主は憐れみ深いお方なので、緊急避難的に、人間が、掟よりも大事になることがある。嘘も、全部常に悪だ罪だというべきではない。まっすぐに生きていたダビデが、サウルにねたまれたばかりに、この世で生きていくために、不本意であっても、この世的を知恵を使って嘘をつくことを強いられる状況だったという点は考慮しなければならない。しかし、一つだけ、命に関わることであっても、決して嘘をついてはいけない事柄がある。それは、イエス様に対する信仰だ。この点については、迫害者から逃げられないときには、殉教を覚悟しても「イエス・キリストは主である」という告白を貫き通さなければならない。
8節。ドエグはサウルがエドムと戦ったときの捕虜だろう。サウルは有能な者であれば誰彼なく召し抱えていたので、ドエグはその有能さをサウルに買われて異邦人ながらサウルに仕えて、牧畜についての管理を担当していた。ドエグはなぜか主の祭司のもとにいたが、「主の御前にとどめられていた」と書いてあることから、これは主のご計画によるものだとわかる。
9-10節。ダビデはちょうどそこに置いてあった最初の大勝利のときのゴリアトの首を切り落とした剣を入手することができた。すべてが首尾よく運んだように思えた。
次に、ダビデはイスラエルの宿敵のペリシテ人の地に亡命すれば、サウルから完全に逃れることができると思った。特にガトのアキシュがくみしやすい相手だと考えた。11-13節。今回はあてが完全に判断ミスだったことがすぐにわかった。ダビデはひそかに亡命するには、有名になりすぎていた。アキシュの家臣によってさっそく身バレしてしまった。
ここでおもしろいのは、ペリシテ人がダビデのことを「かの地の王」と呼んでいることだ。これは一つの預言的な言葉だ。敵から見ても、ダビデは一家臣の身分にとどまらず、王の器に見えていたので、王として知られていたのだ。
大勢のペリシテ人の命を奪ったダビデだと知られれば、亡命どころか、殺されてしまうだろう。それでダビデは非常に恐れ、助かるために芝居をうった。
14-16節。ダビデは悪霊にとりつかれて気が狂ったサウルの様子を間近で見ていたので、狂った人がどういう様子かがわかっていた。それで、迫真の演技をすることができた。万事が益となるというのは、こういうことだ。ダビデはアキシュを完全にだましおおせて、何とかその手に落ちることを避けることができた。生きていくために狂人のふりまでしなければならない!なんと不本意な生き方だろう。しかし、そんなダビデの歩みにすら、必要が満たされ、窮地を脱することで主が共におられる痕跡を見ることができた。
ペリシテ人の地への亡命がうまくいかなかったのは、そうする前に、ダビデにはイスラエルの中で、自前の強力な軍団を形成することが必要だったからだ。1-2節。アドラムの洞窟でダビデを中心とした軍団ができる。ダビデはイエス様の雛形だ。だから、アドラムの洞窟はいわば教会のようなものだ。ダビデの所在を聞いた人々は呼ばれてもいないのに次々と集まってきた。まずはダビデの家族。もともとダビデに必ずしも好意的でなかった兄弟たちやダビデに全く期待していなかった両親がそこに含まれる。ダビデが英雄となったことで家族はみんな手のひらを反してダビデを一家の誇りとしていた。ダビデとサウルが敵対したとなれば、自分たちも狙われかねないので、みんなダビデについたのだ。それはイエス様の復活後に、イエス様の兄弟がみんなイエス様を信じるようになったのと似ている。
しかし、ほかにも大勢の人が来た。サウルの体制に反発する人々だろう。困窮している者、負債のある者、不満を持つ者だ。全員マイナス要素で語られている!社会から負け組のレッテルを貼られ、どうあがいても成功しそうにない。そんな人々がダビデの油注ぎを慕って自然に集まってきた。多くの人からサウルに対抗しうる人物とみられていたのだ。マイナスの人々が何人集まっても頼りないし、烏合の衆に過ぎないように思える。ところが、油注がれたダビデが中心にいることで、これらの人々が最強の軍団に成長していくのだ。これもイエス様に似ている。イエス様は疲れた者、重荷を負う者を休ませてくださる。徴税人と罪人を悔い改めさせる。無学な者を天の国の学者し、利己的な人々を奉仕者にする。イエス様にあって、何の役にも立たないと思われていた人々が、変えられて、社会にインパクトを与えるようになる。
ダビデは両親については、もっと安全な場所に非難させようとした。3-5節。ダビデの先祖にはモアブから来た女性のルツがいるので、モアブ人とは遠い親戚の関係にある。それでも外国は外国だ。モアブの王に託すとき、「神がわたしをどのようになさるか分かるまで」と言っている。もしダビデが主による守りを確信しているのであれば、両親を自分のところに置いておくことが一番安全だ。しかし、サウルの思わぬ敵意を経験したダビデにはその確信がなかったので、「神がわたしをどのようになさるか分かるまで」として両親を預けておこうと思った。主はそんなダビデに確信を与えてくださる。預言者ガドがダビデに対して個人的に預言を与えたのだ。主が語られるということは、自分の将来に対して、主のご計画があるということだ!主に従っている限り、将来が保証されている!そこで、両親を呼び戻して、共にユダの地に行った。あなたは主からディボーションやメッセージを通して何かを強く示されることがあるか。預言や幻や夢を通して、御心を語られることがあるか。主の導きを受けることはあるか。もしあるのであれば、あなたには確かに未来がある。たとえ苦境に立たされていても、あなたが主に従おうとしている限り、あなたは大丈夫だ。先行きに不安を感じるなら、主の御言葉と導きを求めよう。
一方のサウルは暗くて悲壮感を漂わせている。6-8節。ぎょりゅうの木は、ユダのベエル・シェバの砂漠を中心にイスラエルの最南端に生える木だ。ユダよりも北側のベニヤミン族の地には、自然に生えることはない。サウルは自然に生えることのないぎょりゅうの木を植えて、自分の統治の目印のようにしたのだ。
サウルのここでのメッセージの要点は二つ。第一に、家臣たちが今の地位と特権を得ているのは、ひとえにベニヤミン族の王である自分のお陰であって、ダビデが王になったらそれを望めないということ。自分の権力と自分に従う利点を示している。しかし、これはサウルの求心力のなさをも示している。ダビデの場合、人々はその油注ぎや英雄としてイスラエルを救ってきた実力を慕って人々が集まってきたのに対して、サウルの場合はただサウルがベニヤミン族の王だから、自分たちを贔屓にしてくれるからという利益目的で集まっていたのだ。
第二に、ダビデとヨナタンに関して、誰もサウルに同情して助けてくれないということをすねている。サウルの言う通り、家臣たちはサウルが王なのでとりあえず従っているが、ダビデとヨナタンの件についてサウルに積極的に同調して味方する人は全然いなかったのだろう。サウルと家臣たちの心はばらばらだった。
9-10節。王が困っているのを聞いて、チャンスだと思い、ドエグは点数稼ぎのためにアヒメレクのことを密告した。サウルは自分に味方する声を聞いて喜び、暴挙に出てしまう。
11-19節。サウルは最初から明確な殺意を持って祭司たちを全員呼び出した。サウルは尋問をするが、アヒメレクの弁明に全く聞く耳を持っていない。王の家臣たちは、命令されても主の祭司を打って主を敵に回すことは恐ろしくてできなかった。そこで、サウルはドエグに命じて主の祭司を全滅させ、さらには、祭司の街のノブの人々と家畜を滅ぼし尽くしてしまった。滅ぼし尽くすというのは、サウルがアマレク人を打つときに主から命じられたのに従順せず、主に見限られたことだ。サウルはそのことを根に持っていた。それで、意識してか無意識でかはわからないが、主に対して仕返しするかのように、主の祭司の街を滅ぼし尽くしてしまったのだ。人は神に対してすら恨みを持つことがある。その場合、私たちは神を赦さなければならない。そして、神が自分に対してする仕打ちを全面的に受け入れなければならない。神は常に正しいことを成しておられる。私たちの能力ではそれが理解できないだけなのだ。神を赦そう。
このことはサウルの人生の中で最大の汚点だろう。主はなぜ自分の祭司たちが滅ぼし尽くされるのを止めなかったのかと思うだろうか?実はこのことの中にすらも主のご計画がある。主が、祭司エリの息子たちの罪に対する裁きとして、一人の祭司の家系を除いて全滅すると預言者を通して預言していた。それがこのとき部分的に成就したのだ。悪魔が最も猛威をふるうときにすら、主のご計画は進行中なのだ。ハレルヤ!
20-23節。一人だけ生き残った主の祭司アビアタルは、ダビデの陣営に逃げてきた。預言者の次は祭司もダビデについたのだ。ダビデはアヒメレクの一族に起こったことを知って自分の責任だと認めた。主を信頼しきることができず、嘘をついたばかりに多くの人の命が失われてしまった。しかし、このときのダビデはすでに主に対する信頼を強めつつある。「私のもとにいれば、あなたは安全だ」と告白している。サウルに狙われているのにどうして安全なのか?それは主が守ってくださるからだ。
逃亡生活のはじめは、追い詰められた状況の中で、ダビデは主を信頼することができず、嘘をついたり、判断を間違えたり、恐れおののいたりした。それはダビデに後悔させ、屈辱を与える経験となった。
しかし、その中でも、主はダビデと共におられ、ダビデを変わらずに守り、将来のための備えをしておられた。ダビデはただの主君のもとから逃げ出した一家臣にとどまる人ではなかった。依然としてダビデは主から油注がれた人であり、王になるべき導きのもとにある人だった。主がダビデの味方だ。そのことを主は様々な人々を通して示された。ヨナタンは自分の家とダビデの家との間に契約を結んだ。ダビデ「家」がサウル家よりも大きくなると悟っていたのだ。敵であるペリシテ人たちはサウルではなくダビデのことを「王」と言った。ダビデのもとには募集もかけていないのに、主の油注ぎに引き寄せられるように、400人もの人々が集まってきた。預言者ガドはサウルではなく、ダビデに預言した。そして、祭司の街ノブがサウルによって打たれた後は、祭司アビアタルがダビデを頼って逃れてきた。つまり、サウルとサウルの名目上の王として地位のもとにある人々以外のあらゆる部類の人がダビデを認めていたのだ。
厳しい放浪生活は、ダビデがそのことを悟って、主に信頼し、主の導きを事あるごとに仰ぐようになるようになるための訓練過程だ。私たちは、厳しい状況に追い詰められても、主への信頼を失うことのないようにしよう。厳しい状況にあっても、クリスチャンは変わらずに主にあって神の子、愛されている者、聖霊様に導かれる者、王であり祭司だ。主はあなたを御自分の子として愛しておられ、貴く用いたいからこそ、あなたを訓練される。厳しい状況にあるときは、主からの訓練として耐え忍ぼう。続けて主を信頼し、主の御言葉に従順しよう。そうすれば、やがて豊かに実を結ぶときがくる。
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