アブサロムの孤独な死[サムエル下18章]

サムエル記
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聖霊様はあなたが神の子であることをあなたの霊と一緒になって証ししてくださいます。
あなたは愛されているのであり、孤児ではありません。孤児の霊を追い出しましょう!

アブサロムの孤独な死[サムエル下18章]


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【ノート】
1-4節。荒れ野で霊性が回復したダビデがリーダーシップの賜物を発揮している。まず、千人隊長、百人隊長と3人の将軍を任命している。これは組織の再編成だ。急にエルサレムからマハナイムに逃れたので、兵士全員を動員することはできなかっただろう。ベストメンバーではなかっただろう。しかし、今いるメンバーで、最善を尽くすための人事異動だ。3人の将軍の中には、いつも二人、ヨアブとアビシャイに加えて、イスラエルに亡命してきたばかりなのにダビデと共に逃亡生活を送ることを選んだイタイも含まれている。進んで献身する者は大いに報いられる。このように、状況によって臨機応変に形を変えられる組織は強い。4月は特に人事異動が多い月で、まさに変化にこういう状況に直面している人もいるだろう。教会や会社でも、人を送り出したら寂しさはあるし、新しい人をお迎えすると変化が要求される。それを嫌がらず、新しい環境を主が与えてくださったものとして感謝して、適用することのできる強いものになろう。

次に、ダビデは自らも出陣することを願った。どうしてだろうか。アブサロムの場合、フシャイの言葉に乗せられて大軍を率いてかっこよく勝利する栄光をつかみたいということだったが、ダビデの場合は違いそうだ。自分が蒔いた種だからというのがあるだろう。責任を取りたい。自ら決着をつけたいという思いだ。また、バト・シェバの事件の反省もあるだろう。あの時は、兵士たちが戦場で命がけで戦っているのに、それに無感覚になって快適な王宮でぬくぬく寝ている時に罪を犯してしまった。指導者は自らが陣頭に立って危険にさらされることを躊躇してはならない。このダビデの思いだけで兵士たちは十分鼓舞されただろう。「王は我々と共に出陣することを望んでいる」と。
しかし、兵士たちはダビデの参戦を望まなかった。アブサロム側にとってダビデ以外の兵をたくさん倒しても、勝ったことにならない。アブサロム側はダビデ一人の命を狙っている。だからこそ、ダビデがいない方が戦況を優位に進められる。ダビデの身を案じて、町から指揮をとることを願い、ダビデもそれを聞き入れた。王と兵士たちが互いに互いを思いやる麗しい関係をここに見ることができる。主にあって、このような麗しい関係を築いていく者になろう。アーメン。

5節。私情を語っている。これから戦いが始まろうとするときに、こんなことを言っていいのかと思ってしまうような発言だ。どこから出てきた発言だろうか。
第一に、ダビデは勝利を確信している。アヒトフェルの助言を覆したのは、主が祈りに答えてくださったからだった。いまだに主がダビデに味方してくださっていることがそのことで明らかになった。主が味方してくださっているなら、勝利は確実だ。ダビデは勝利を確信する者の余裕としてアブサロムを気遣っている。詩編118:5-7。あなたには主が味方してくださっているか。何らかの兆候によってそのことを確認したか。それであればあなたの勝利は確実だ。あなたは勝利を確信して恐れずに戦えばよい。

第二に、ダビデは反逆するアブサロムをそれでも愛していた。それでも、自分の子供だから。ここに罪人に対する父なる神様の愛の構図を見ることができる。人間は確かに反逆者だ。神を退けて神のようになろうとして善悪の知識の木の実に手を伸ばした。アダムとエバに限らず、今でもそういうことが日常的に行われていて、多くの人は神を人生から締め出し、自己中心に生きることがかっこよいと思っている。神様は罪人を敵として、戦わなければならない。神様は罪人を一ひねりにできる。しかし、それは本意ではない。神様は、本当は罪人と戦いたくないし、罪人を傷つけたくない。わが子の反乱に心を痛める父なる神様の御心を悟る者となろう。
6-8節。普通は人数の多い方が勝つので、十二部族全部によって構成されたアブサロムのイスラエル軍が勝ちそうだ。しかし、ダビデの家臣の一方的な勝ち戦になった。主が味方しておられたからだ。「密林の餌食になった者は剣が餌食にした者よりも多かった」というところから、主が味方しておられることにより、自然までもダビデに味方するのを見ることができる。密林はどちらの軍にも脅威になりそうだが、イスラエル軍ばかりを餌食にしたのだ。また、戦いを早期に決着させて内戦を終結させるという主の御心もあっただろう。イスラエル人同士の戦いだから、本当は互いに相手を殺害するのは気が引けるところがあったはずだ。それでダビデ王家とサウル王家の戦いは長い年月を経て少しずつダビデが優勢になるというふうに推移したが、ここではたったの一日で決着がついている。主が私たちの味方なら、自然も私たちの味方をし、あっという間に勝てるということだ。

9節。反逆者のみじめな末路を見ることができる。大群を率いていたはずなのに、護衛すら一緒にいない。乗っていたらばにすら見捨てられている。完全に孤立した孤独なアブサロムを見ることができる。たくさんの人々に囲まれていても、孤独になることがある。一つの場面だけを切り出せば、一見、人望があり、人に恵まれているように見える。しかし、SNSでたくさんのフォロワーがいても、勝ち馬に乗ろうと利益目的で人が群がってきても、孤独になりうる。なぜなら、状況が悪くなるとその人たちはみんな去っていってしまうからだ。手のひら返しをして、バッシングをするようになる人々もいる。愛に根ざした関係が全くないのであれば、周りに何万人という大軍がいても孤独になりうる。アブサロムのみじめな姿はその実態を暴いたものだ。どうしてこんなことになってしまったかは、自慢の長い髪が命取りになったことからわかる。長い髪はアブサロムのプライドを表している。アブサロムが人を集めたのは、愛に根ざした関係を築くためではなく、プライドを満たすためだった。プライドが私たちを導くのは、すべての人に見捨てられて、宙づりになったアブサロムの姿だ。「痛手に先立つのはおごり、つまずきに先立つのは高慢な霊」と箴言に書いてある通りだ。虚栄心を満たすためだけの空しい関係を築こうとするのはやめよう。空しい人数を追い求めるのはやめよう。少人数でもいいから、主にあって、中身のある関係を築く者になろう。アーメン。

10-13節。アブサロムへの対処について口論になっている。ヨアブは、ダビデから直接「アブサロムを手荒に扱わないでくれ」と命じられていたのに、アブサロムを殺害することを当然としている。しかし、この名もない兵士は、戦功を立てて褒賞を得ることよりも、ヨアブの言う通りにするよりも、あくまでも王の言葉を聞き従うことを優先している。兵士は王が将軍に語ったことであり、自分に直接言われたことでもないのに、王の言葉を聞いて、王の心を理解したので、その通りにしようとした。ヨアブではなく、王がすべてを決める力を持っているからだ。これはまさにクリスチャンが取るべき態度だ。私たちは、お金よりも他の人の言葉よりも、何よりも我らの王イエス・キリストの御言葉を恐れなければならない。時に、目上の人の言葉が王の言葉と食い違うこともある。その時には、人を恐れずに、御言葉によって示されている王の御心通りにする者となろう。

それでは、ヨアブはなぜ王の命令に背いてアブサロムを殺害することにこだわったのか。14-17節のヨアブの様子からよくわかる。棒を三本つきさし、さらに従卒十人で取り囲んで滅多打ちにする。ただ命をとるだけの目的だったら、ここまでする必要があるか。あきらかにやりすぎだ。アブサロムは反逆者であっても王子なのだから、しかも身動きがとれない状態なのだから、それ相応の敬意を払ってしかるべきだ。それが全く見られないのは、これはヨアブにとって恨みを晴らすための復讐だったからだ。ヨアブは、自分の地所の畑をアブサロムの部下に燃やされたことをずっと根に持っていた。それで、アブサロムは絶対に亡き者にしなければならないと決めていた。それをここで実行に移しているのだ。肉に引きずられて、恨みつらみを捨てられないと、このように王の命令に背き、怒りにまかせて残酷なことをしてしまうようになる。これは対処しようとすれば必ず対処することができる。ヤコブ1:14-15。肉の思いを放置し続けていると、罪になり、死になる。放置せずに、その思いが出てくるたびに対処すれば、害になることはない。草刈りをするようなものだ。誰かに対して憎しみの心が出てきたら、そのたびに赦しと祝福を宣言しよう。

18節。アブサロムは息子がいなかったか?サムエル下14:27には3人の息子がいたと書いてある。それではどうしてここに跡継ぎの息子がないと書いてあるのか?息子たちがみんな死んでしまったか、いなくなってしまったのか?その可能性もあるが、新改訳2017年版では「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」となっている。アブサロムは息子たちにすら忘れられると思っていたのだ。兄弟からは妹を辱められ、父親からは見捨てられ、息子たちからは忘れられる、アブサロムはそう思っていた。アブサロムには孤児の霊で満たされていたのだ。孤児の霊とは、「自分は一人ぼっちだ、孤独だ、誰からも愛されていない」とする思いでその人を満たす。忘れられることを恐れさせ、愛され、認められるためには大きな成功を収め、自分の力を誇示しなければならないと思い込んでしまっている。それらは事実ではなく、すべて思い込みである。アブサロムは、本当はダビデから愛されていた。それに気づいていなかっただけだ。あなたは、アブサロムのように「自分は一人ぼっちだ、孤独だ、誰からも愛されていない」という思いに苛まれることがあるか?もしそうなら、悪魔が植え付けようとする孤児の霊を追い出そう。悪魔の嘘を信じるのはやめよう。あなたは愛されている。仮に肉親から見放されたとしても、神様から愛されている。そして、周りの人々からも本当はあなたが思っているよりもずっと愛されている。孤児の霊があなたの見方をゆがめてしまっているのだ。詩編68:6。神様があなたの父となられている。父なる神様はイエス様にそう言われたように、あなたに対しても「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださる。ヨハネ14:18。イエス様があなたを迎えに来られる。ローマ8:15-16。聖霊様があなたと一緒になって、あなたが孤児ではなく神の子であることを証ししてくださる。天のお父様とお話しよう。その方と祈りの中で親しく交わりを持とう。

19-32節。ヨアブは、ダビデにアブサロムの死を報告させるにあたって、祭司ツァドクの息子のアヒマアツではなく、異邦人であるクシュ人を用いた。しかし、どうしてもアヒマアツは勝利の報告をしたかったので、ダビデのもとに走ったが、結局ダビデにアブサロムの死を伝えることができなかった。ここから大きく3つのことがわかる。
第一に、戦いに勝っても、自分の子供が死んだら良い知らせにはならない。ダビデの関心はその第一声からわかるように、自分が勝つことよりも、アブサロムの無事を確認することだった。人間が神様に反逆し続けるなら、神様は人間と敵対し、争わなければならないが、人間を打ち負かしたところで、神様は全然うれしくない。ましてや、罪人が死ぬことを、神様は望んではおられない。神様にとって罪人でも、愛するわが子のようにかけがえのない存在だから。エゼキエル33:11。
もしあなたが罪を犯して、まだ神様に敵対して争っているなら、神様はあなたが死ぬのを喜ばず、あなたが立ち帰って生きることを望んでおられる。立ち帰ろう。

第二に、悪い知らせを伝える者はどんなに急いで伝えようとしても報われない。アヒマアツは、クシュ人を追い越してダビデに一番乗りで勝利を報告した。しかし、ダビデは勝利に全く関心を示さず、開口一番に「若者アブサロムは無事か」と尋ねた。そこで、アヒマアツは自分が持ってきたのは、良い知らせではなく、悪い知らせだと悟ってごまかしてしまった。アヒマアツが一生懸命走ったことは報われなかった。悪い知らせは誰も聞きたくない。サタンが支配するこの世界では、悪い知らせが満ちている。悪い知らせは耳をふさごうとしてもニュースを見ると聞こえてくるので、みんなうんざりしている。そんなことを伝えるためにがんばっても、決して報われない。

第三に、祭司は良い知らせ、つまり福音を伝えるように聖別されている。どうしてヨアブは祭司の子アヒマアツではなくクシュ人に悪い知らせを伝えるように命じたのか、どうしてダビデはアヒマアツを見て「良い男だ。良い知らせなので来たのだろう」と言ったのか。どうしてアヒマアツは悪い知らせを正直に伝えることができなかったのか。それは祭司というものは良い知らせ、福音を伝えるように聖別されているからだ。アヒマアツの姿はクリスチャンを予表している。私たちは王の系統を引く祭司である。福音を伝えるように聖別されている。福音を伝えることは大いに報いられる。福音を受け入れたら人々が救われ、変えられ、喜びに満ち溢れるようになる。そして、福音を伝えるというのは特別なミッションだ。人々は福音を聞いて救われる準備ができていても、私たちが黙っていたら信じて救われることができない。ローマ10:14-15。私たちはこの美しい足を持つ者になろう。福音を伝えるために聖別されていることを感謝しよう。福音がなければ、この世は完全に絶望で覆いつくされていて、何の望みもない。これは私たちにしかできないことだ。救いをもたらす福音を伝えるべく、走る者になろう。そうすれば、あなたは必ず報いられる。

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