ダビデの姦淫と殺人[サムエル下11章]

サムエル記
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ダビデは王ですが、指導者、力ある者であればあるほど、サタンの攻撃に遭いやすい傾向があります。指導者が倒れたら神の国の大きな損失になります。そうならないためには、本人の霊性管理と周りの執り成しの祈りが不可欠です。

ダビデの姦淫と殺人[サムエル下11章]


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【ノート】
ダビデの最悪な罪の章。こういう王のスキャンダルが赤裸々に書かれていることから、聖書が真実をありのままに書いた書物だとわかる。
1節。王たちが出陣する時期とある。春の雨季が終わり、乾季になったら戦争がしやすくなる。その時期のこと。このアンモン人との戦いは、10章の出来事の延長線上にある。アンモン人の新しい王ハヌンからダビデの使節が甚だしい侮辱を受けた。それは、ダビデ、イスラエル、ひいては主なる神様に対する侮辱だ。アンモン人から受けた恥を払拭しなければならない。ところが、この大切の戦いで、ダビデは戦場に行かず、エルサレムにとどまっていた。ダビデがイスラエルの人々から愛された理由は何だったか?彼の能力や信仰もさることながら、ダビデは先頭に立って戦ったことになる。サムエル上18:16。先頭は、最も剣や矢が飛んでくる危険な場所だ。そんな場所に指揮官が立つ必要はない。ダビデほどの地位があれば、後ろの安全な場所で指揮をとることもできた。多くの指揮官は命が惜しいので安全な場所から戦場をコントロールした。しかし、ダビデはあえて進んで先頭に立つことによって、イスラエルを鼓舞した。ダビデは自分がほかの民たちとともに危険を負うということを示した。それで、ダビデは兵士たちからの信望を得ることができた。荒れ野でダビデが寄せ集めの軍団を統率できるようになったのも、一つには先頭に立つことができたからだ。これはいわばイエス様が命じられたサーバントリーダーシップだ。マルコ10:43-45。私たちはダビデのように自ら矢面に立つサーバントリーダーシップを発揮する者になろう。

しかし、そんなダビデも、王になって長い年月が経ったからか、戦場にすら行かなくなっている姿を見ることができる。実は10章でも、アンモン人とアラム人の連合軍との戦いに、ダビデは参戦していない。まだ十分戦える年齢だったのに。兵士たちはこのことで不平を言っていない。戦いのことならヨアブ将軍が十分強かった。むしろ、王が討ち取られたらおしまいなので、ダビデが戦場にいない方が安心だったかもしれない。しかし、兵士がどう思うかは問題ではない。問題は、ダビデの中に、王という特権に甘んじてしまい、戦場に行くことを避けようとする傾向が生まれていたことだ。危険を避ければ、安全になるか?いや、危険を避けると、もっと大きな危険に陥りやすくなるというのが信仰の世界だ。信仰はリスクを取るものだ。福音を伝えるというリスクを取る。病人に手を置くというリスクを取る。執り成しの祈りをささげるというリスクを取る。新しい挑戦をするというリスクを取る。神から示されたことをやってみるというリスクを取る。うまくいかなかったらどうしようと思ってしまうようなことを、ただ主の御言葉を信じて実行するのだ。義人は信仰によって生きる。リスクを避けてばかりいたら、信仰に生きることができず、堕落してしまう。ふとしたことから大きな罪に陥ってしまう。ダビデがそうだったように、あなたがリスクを避けてばかりいても、誰からも何も言われないかもしれない。しかし、そういうとき、何も言われないがゆえになおさら、あなたは大きな危険の中にいるということを悟らなければならない。
2節。「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて」、とある。イスラエルでは確かに真昼は暑すぎるので、昼寝の習慣があるが、昼は家臣たちが戦っている時間だ。その時間、エルサレムのベッドの上で気持ちよく寝ていた。完全に家臣たちの献身に無感覚になっている。自分のために、誰かが一生懸命になってくれている。家事をしてくれている。会社で働いて給料を稼いできてくれている。養ってくれている。教会で奉仕をささげてくれている。こういうことに感謝の心、同じ苦労を共にしようとする心がなく、霊的に昏睡状態になっていると、罪は大きな口を開いて私たちを飲み込もうとするだろう。
ダビデは夕涼みの散歩をしていた。別段エルサレムでやらなければならない仕事もなく、暇をもてあましているという感じだ。一国を治める王なのに、本当に為すべきことがなかったのだろうか?休むことは休むことで必要なことだ。仕事を休んで、体を休める。集中的に祈りや断食に励む。家族と良い時間を過ごす。そういうことは必要だが、もしひたすら暇を持て余すばかりの時間を持っているとしたら、それは自分が為すべきことがわかっていないということだ。御言葉からビジョンを得た人は、人生には暇つぶしの時間など存在しないということに気づく。一瞬一瞬充実した時間を過ごせる。もしビジョンを失い、ただひたすら暇を持て余してばかりの時間を過ごすなら、罪が大きな口を開けて私たちを飲み込もうとしていることに気づかなければならない。
ダビデは王宮の屋上を歩きながら、エルサレム場内の屋敷を見ていた。そこで、水浴びしている裸の女性を見てしまった。普通、イスラエルの婦人は自分の肌を見せない。だから、この女性はちょっとおかしい女性だ。女性が公衆の場で裸のような恰好をしていたら、トラブルに遭いやすくなる。ダビデもダビデだが、この場合、女性にも明らかに問題があった。
ダビデは、先頭に立って戦っていたときのように、目覚めている時であればそういうものを見ても全く心を奪われずに、すぐに視線をそらして「ふしだらな女だ」として無視することができただろう。この時には眠ったような霊性で、神を意識することもできなかった。ダビデはまじまじと見て、情欲を抱いた。クリスチャンも、毎日よく祈り、神の武具で武装している聖霊充満な人は、どんな誘惑もイエス様のようにただちに退けることができる。しかし、霊的にぐっすり眠っている日々を過ごしていると、簡単に罪に陥ってしまう。

3-5節。調べてみると、バト・シェバがヘト人ウリヤの妻だということがわかった。今戦場でダビデのために戦っている家臣だ。関係を持ったら大きな罪になるとわかった。ここでやめなければならなかった。しかし、ダビデは罪だとわかった上で罪を犯した。イエス様は「知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む」と言われた。よくわかった上で犯す罪はその分重い。王とは言え、これは姦淫の罪であり、律法に照らすと死罪にあたる。罪の証拠としてバト・シェバが妊娠した。このままでは、姦淫の罪が露見することになる。

6-8節。ダビデはウリヤを家に帰して妻と関係を持つように仕向け、生まれてくる子が誰の子かわからないようにしようとした。つまり、ダビデは罪を隠そうとした。ダビデの子ソロモンが格言として言っている。箴言28:13。家臣が戦場で戦っている間、その家臣の妻と姦淫の罪を犯した。そういうことを告白したら王としての権威が地に落ちる。しかし、その方がまだ良かった。告白せずに隠そうとしたせいで、ダビデは大きな代価を払うことになってしまう。

9-11節。ウリヤはどこまでの忠実な家臣だった。ウリヤはヘト人だから、異邦人だ。それなのに、神の箱とイスラエルを思い、またヨアブとほかの家臣たちが野宿していることを思い、自分だけ家で安穏と過ごすことはできない。彼らと同じようでありたいと願った。これはイスラエルの王なのに、神や兵士たちのことを思わずにエルサレムでやりたい放題していたダビデにとってはぐさりと刺さる言葉だったに違いない。もちろん、ウリヤはダビデへの当てつけで言ったわけではないだろう。しかし、神はこのウリヤの言葉のように、個人を意図しない言葉によって私たちに悔い改めを促す。
礼拝のメッセージや誰かの何気ない言葉を聞いて、まるで自分に語られたかのようにぐさりときたことはあるだろうか。そういうとき、「なぜ私にあてつけてそんなことを言うのだろう」と思わないでほしい。それは神からの悔い改めを促すメッセージだ。だから、素直に悔い改めよう。悔い改めずに頑なになると、ダビデのようにさらなる罪を犯すことになる。
ダビデはウリヤの言葉で悔い改めて、罪を告白すべきだったがそうしなかった。本来はその忠実さを喜ぶべきウリヤの言葉を疎ましく思う状態だった。

12-13節。ダビデは、ウリヤの忠実さを折るべく酒に酔わせて家に意思をにぶらせて家に帰らせようという作戦に出るが、ウリヤには効果がなかった。ウリヤの態度こそ、神を愛し、隣人を愛し、情欲を退ける聖霊充満のクリスチャンのそれだった。対するダビデは、サタンの手先かのように誘惑をする側に回っている。誘惑に陥った者は、悔い改めないと今度は誘惑をする側にもなってしまうことをここで見ることができる。

14-17節。ウリヤが忠実な家臣であることは、はっきりした。にもかかわらず、ダビデは自分の罪を隠すためにウリヤを殺害することを決意した。ダビデは以前、自分のことを忠実な者に報いる王だと紹介していた。しかし、ここでは、忠実な者を殺害する王になっている。罪が人をどれだけ醜く変えてしまうかがよくわかる。ビジョンの喪失やリスクの回避による霊的な昏睡状態⇒罪を犯して悔い改めずに隠そうとする⇒さらに大きな罪を平気で犯す。
ダビデはウリヤ自身にウリヤ殺害命令を書いた書状を託した。ヨアブは良くも悪くもダビデの忠実な部下だ。アブネル暗殺に見るように倫理観が欠けているが、有能で、何でも命令をよく実行する。ダビデの汚い命令についてまで、反対せずに忠実に実行してしまう。すぐに事情を察して、軍の司令官としての立場を利用してウリヤをあっさりと亡き者にしてしまう。もしヨアブがいなかったら、ダビデもこの計画を実行できなかったかもしれない。汚い命令をも信頼してまかせられる人がいると、それだけで汚い命令を出すことについて誘惑となる。私たちは、明らかに御心に反することを頼まれたら、相手が目上の者であったとしても反対しなければならない。

18-25節。城壁に接近して戦うというのは駄目な戦術だということをヨアブはよく知っていた。ダビデも戦術の心得があるのでそれがまずい戦い方だとすぐわかる。そのことを責められないようにするために、ヨアブは報告の言葉の中に一言合言葉のように「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」と添えさせた。ヨアブの手にはまだ王の書状があっただろう。「あなたの命令なのだから私を責められませんよ。証拠は私の手の中にあります」ということだ。ダビデは納得して、そのことを責めなかった。こうして共犯者同士互いに秘密を守る協定が密かに二人の間で結ばれた。

26-27節。ダビデはバト・シェバを妻とした。それは、バト・シェバとの姦淫がばれないようにするためだ。しかし、最終的にダビデはバト・シェバの最初の子と二番目の子ソロモンを愛し、ソロモンを後継者にしている。ダビデはバト・シェバを愛するようになったということだ。ダビデが最初バト・シェバの外見を見て、美しいと思ったが、ダビデが抱いたのは情欲であって愛ではなかった。ダビデはその後の関係によってバト・シェバを愛するようになったのだ。外見からは愛は生まれない。愛は関係性から生まれるものだ。外見は看板だ。ただのきっかけに過ぎないということを心得よう。
一見、ダビデの罪はばれることなく、完全犯罪が成立したかのように見える。しかし、最後にすべてをご存じの方の評価が最後に書かれている。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と。ダビデはこの方にも罪がばれないとでも思ったのだろうか?主がご存知なことはよくわかっていただろう。詩編で、ダビデが罪を犯した後、罪意識にさいなまれ、主にある救いの喜びを失い、聖霊様の臨在を失ったということが書いてある。苦しい葛藤の日々を過ごしたに違いない。

11章はダビデの人生の中の最も暗い章だ。ダビデは大きな罪を犯したが、それは彼の絶頂期に起こった。神の御声を聞いて、王座につき、大いなる名声、莫大な財産、絶大な権威を持ち、どんな敵国を打ち破る無敵の王として君臨していた。誰もダビデを倒すことはできないと思われていた。しかし、サタンはそんなダビデを罪のどん底に突き落としてしまった。このことから、どんな偉大な人物も誘惑を免れないし、誘惑に陥りうるということを知ることができる。大きな成功を成し遂げたときには、ダビデの罪を思い出して気を引き締めよう。まさに今がピークという状況にいるときこそ、誘惑に陥らないように神の武具で武装するものとなろう。

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