潔白証明と王制への警告[サムエル上12章]

サムエル記
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神の警告はすべてがうまくいっているときにも耳を傾けなければなりません。

潔白証明と王制への警告[サムエル上12章]

潔白証明と王制への警告[サムエル上12章]

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【ノート】
サウルが王となり、アンモン人のナハシュに勝利してその実力を示し、王国の建国が本格的に進められた。幸先の良いスタートをきった。士師が国を率いる時代は終わり、王が統治する時代になった。それまで国を率いてきたサムエルはイスラエルの最高指導者の座から退く頃合いだ。そこで、サムエルは退く前に、最後にイスラエル全体に対してメッセージを語る。

1-2節。まずサムエルは、自分がなすべきことを果たしたことを告げる。民たちの要望に従って王を立てた。また、年老いた自分に代わる後任として不完全ながらも息子たちを立てた。世代交代は進んでいる。次に、自分の士師としての支配についての清算をする。

3節。これはすべての指導者が見倣うべき態度だ。サムエルはずっとイスラエルを裁いてきたが、自分自身も裁かれなければならない者としてとらえていた。そして、あえて求められてもいないにもかかわらず、自分を裁く機会を作っている。自分で自分を法廷に立たせて訴えさせている。これは非常に良いことだ。強大な権力というものは、それを持つ人を高ぶらせ、腐敗させ、道を踏み外させるものだ。しかし、権力者も含めて、すべての人は、やがて裁かれることになる。指導者として、いつも下の人たちを裁く側だった人でも、やがては、神の御前に立ち、裁きを受ける身分である。そのことを覚えていれば、謙遜になり、公明正大になることができる。やがて裁きを受けることを覚えることについては、ヤコブ2:12-13、ローマ14:10-12。私たちはいつもこのことを覚えていよう。日々、神の御前に立って裁きを受ける準備をしよう。いつも神の御前で語るように語り、行動するように行動しよう。

サムエルはそのように、いつも神の御前に自分を置くように努めていたのだろう。しかし、自己点検するだけでは、気づいていない罪や過ちを犯しているかもしれない。忘れてしまっていることもあるかもしれない。その可能性は否定できない。そこで、サムエルは自分が何か悪事をしていないか人々に確認し、「あるなら、償おう」と申し出ている。指導者が不祥事を起こして引責辞任をするということは、政界や財界で見られるが、その人々が起こした問題について十分に責任をとり、償うべきを償ったか、疑問が残ることは少なくない。辞任して逃げるように人々の前から姿をくらましてしまう人もいる。そうすると、人々は納得しない。その点、サムエルは少しでも自分に問題があれば、全面的に責任を取り、償うという姿勢を示している。人に対しては、サムエルのように、何か損害を与えたら逃げずに償おうとする姿勢は必要だ。

それでは、神に対してはどうか?神に対しては、イエス・キリストが全面的に罪を身代わりに負ってくださっている。キリストが負った罪には、私たちが気づいていないで犯した罪も含まれる。詩編19:13。知らずに犯した過ちや隠れた罪は、自分でもわからないので告白できない。しかし、こう書いてあるということは、主は知らずに犯した過ち、隠れた罪をも赦してくださるし、私たちがそれを願うなら、清めてくださるということ。知らずに犯した過ちや隠れた罪に至るまで清めていただくことを求めよう。

4-5節。誰もサムエルの罪を指摘する人はいなかった。サムエルの自己点検には問題がなかった。サムエルの潔白が証明された。イエス様は「自分の目の中の丸太を取り除け、そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われた。人の指摘をする前にまずは自分が悔い改めなければならないということ。サムエルの目に丸太はなかった。サムエルには遠慮なく兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。しかし、イスラエルの目にあるのはおが屑というよりは丸太だった。アンモン人のナハシュはヤベシュの人々の目を抉り出そうとしたが、サムエルは丸太の摘出手術をしてイスラエルを治療しようとしている。サムエルはイスラエルの悪がどれほど悪いものであるかを堂々と指摘する。

6-11節は主の救いの御業とイスラエルの反逆。6-8節は出エジプト。主は助けを求めて叫んだイスラエルの先祖をモーセとアロンを通して、エジプトの奴隷の軛から救い出して約束の地に導いてくださった。主は求めに応じ、人を送り、解放を与え、約束の地を与えてくださるのだ。これはクリスチャンに起こったことでもある。私たちがこの世で罪の奴隷として苦しんでいた。そのころ、私たちは声にならない祈りのような渇きを世にあって訴えていた。それは虚無感であったり、罪悪感であったり、絶望や恐れであったりした。そこへ、主がイエス・キリストの福音を伝える伝道者を遣わしてくださった。その伝道者から福音を聞いて、信じると、主にある喜びの爆発が与えられた。罪の赦しを体験した。恐れから解き放たれて、御国に対する希望が与えられた。そして、今も世にあって困難や戦いはあるけれども、聖書で神が約束してくださっていることを一つ一つ実現していく人生を歩むようになったのだ。そのことを感謝しよう。

9-11節はイスラエルの罪、悔い改め、救いだ。詳しい内容は士師記に書いてある。イスラエルの罪は主を忘れて、ほかの神々に仕えたことだ。主を忘れたら主からの保護を受けることができなくなる。それで、イスラエルは周囲の敵から攻撃されてしまった。しかし、主はイスラエルを完全に見捨てることはない。主は憐れみ深い方だ。真心から悔い改めるならば、すぐに救いを与えようスタンバイしておられる。イスラエルが罪を認めて神に立ち帰ると、主は士師を送って救われた。この士師のリストの中に、よく知らない名前がある。ベダンだ。これはダンの息子という意味で、ダン族から出た士師のサムソンのことだと考えられる。イスラエルの歴史を振り返ってわかることは、主はいつも真実なお方、イスラエルを愛して、祈りに答え、救ってくださったお方であるということがわかる。主は確かにいつも助けてくださった。これらもクリスチャンの人生に適用できる。私たちは主を片時も忘れてはならない。主を忘れて、自分の生活のことばかりに心を奪われてしまうなら、悪霊からの攻撃に無防備になってしまう。もしそういうことがあれば、悔い改めて、主と主の御言葉に毎日思いを寄せ、一日のうちに何度も繰り返し思い起こす者となろう。主から与えられている恵みの数々を数えて感謝の祈りをささげよう。そうすれば、主は再び私たちを悪い者から守ってくださる。主は私たちを片時も忘れることなく、いつも御心に留めておられ、私たちの悔い改めを待っておられるのだ。私たちの人生を振り返ってみよう。そうすれば、主は確かにいつも自分を助けてくださったということに気づくだろう。私たちにとって、ギデオン、サムソン、エフタ、サムエルにあたる救いの御業を思い巡らそう。

主には何の落ち度もなかった。それだけに、目先の脅威におびえて主を退けて人間を君臨させようとするのがいかに悪いかということがわかる。12-18節は王を要求したイスラエルの悪に対する警告だ。王を立てることは御心ではなかったが、主は恵み深いお方、それを赦してくださった。だから、王とイスラエルが主に従うなら良いが、従わないなら、それによって被ることになる災いがどれだけ大きいものであるかを警告する。この警告は何の問題もなく、すべてうまくいっているように見えた状況でなされた。サウルは勝利して王としての実力を示した。幸先の良いスタートを切った。すべては民の望んだ通りになった。しかし、サムエルは水を差すかのように、預言者として、再度王政について警告する。主は未来のことをすべてご存知なので、主が何かを警告するということは、本当に気をつけなければならないということだ。何もかもうまくいっていたとしても、御言葉で警告されていることには耳を傾けなければならない。そのときは小麦の刈り入れの時期というのはペンテコステ以降だ。春の雨の季節は過ぎていて、乾季に入る時期だ。サムエルの祈りと同時に季節はずれの雷雨が起こった。それは、主とサムエルの正しさと、イスラエルの悪の大きさに対するしるしだ。

19-25節。イスラエルはしるしによって恐れを抱き、19節で初めて王を求めたことの悪を認めて、憐れみを求めている。それまでは「いや王が必要だ」とサムエルの警告を退けてきた。人は反抗的だ。それはアダムの子孫がアダムから受け継いでいる罪の性質だ。
あなたは自分が柔和で聞き従いやすい人だと思うか?教会、家族、会社などで指導者から何かを指摘されるとき、どういう態度をとっているか?素直に聞き従うよりは、言い訳をしたり、反発したりするかもしれない。私たちは意識して、主が人々を通して語っておられることに耳を傾ける必要がある。そうでないと、私たちを諭すために主は雷を落とさなければならなくなる。

悪を認めるイスラエルに対しては、恵みの言葉が語られた。王を求めたことについては、主は不問にしてくださっている。ただ、これから、ちゃんと主を畏れ、主の偉大な御業をわけまえ、主に心を尽くして従うことだけが求められている。

ここで主が示してくださっている恵みは二つ。第一に、主は御自分の民を御自分の民として決めておられる。主は御自分の民を決しておろそかにはされない。それは、イスラエルがどんなに頑なであっても、主の民であるということは決定事項であり、後で撤回されるということはないからだ。撤回するというのは、間違うことがある場合にのみ必要となる。人間であれば、間違った判断や失言を撤回しなければならない場面はいっぱいある。そういう場合に撤回しないのは、頑固で融通が利かない人だ。政治家や会社の上司が方針を変えることがあっても、怒らないであげてほしい。しかし、主は、絶対に間違いを犯すことのないお方である。その主が、御自分の民について、「この人は私の民だ!」ということを決定事項としておられる。それはもう永遠に有効ということだ。あなたはクリスチャンか?あなたは主の民か?もし、そうであれば、それはあなたが神の民であることは、ただあなたがそう思っているだけでなく、主なる神による決定事項だ!くつがえらない!主は決してあなたをおろそかにはしない!

第二に、指導者からの執り成しの祈りと教えを与えてくださる。サムエルは最高指導者の座を降りても、引退するつもりはさらさらなかった。最後まで自分が主から与えられている預言者と祭司としての務めを果たし、始まったばかりの王政を支えていくつもりだった。そして、サムエルは23節で「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」と言っている。これは、サムエルが勝手に作ったルールではない。罪は神が定めたことに反することだ。だから、主がサムエルに対して、まかされている人々のために祈らないのは罪だとおっしゃっているということだ。主は、羊飼いに対して絶対に必要なこととして、羊のために祈ること、教えることを要求しておられる。牧師から、その他の教会のリーダーから、祈ってもらっているか?教えを受けているか?それは主から出た恵みだ。
また、あなた自身、まかされている人々がいるか?牧師や小グループのリーダーでなくても、あなたは王の系統を引く祭司だ。教会、家庭、職場で祈りを必要としている人のために執り成そう。祈らないと罪だから、ネガティブな動機ではなく、主からの愛に動かされてそうしよう。

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