あなたにとってのベツレヘムの星は何ですか?
ベツレヘムの星に導かれてキリストと出会う
【ノート】
クリスマスはイエス様がお生まれになったことをお祝いする!イエス様がお生まれになったとき、誰がどんなふうにイエス様の誕生を祝ったのか?それを学ぶことによって、クリスマスのめでたさが良くわかるようになる。とりあげるのは、東方の学者たちについてだ。
マタイ2:1-2節。「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来た」と書いてある。占星術の学者と書いてあるが、原語のmagosという言葉は、知識人全般を指す。賢者、教師、司祭、医師、占星術師、予言者、夢の解釈者、魔術師などと訳すことができる言葉だ。みなさんと似ている。現代で義務教育を終えた人は誰でも、それなりの知識人だ。この人たちはおそらく、バビロンかあるいはメディアとペルシャの方から来たの人たちだ。バビロンといえば、南ユダ王国の人々が捕囚として連れて行かれた国だ。捕囚中にはダニエル、エステル、ネヘミヤなど、高い位についたユダヤ人たちもいた。異邦人にとっては、捕囚の身分でありながら頭角を現し、独特の信仰を持つ不思議な民の存在は強い印象を与えたに違いない。神の民は、完全にアウェーな場所でも活躍できる!それが主なる神を知らない人々に対して証しとなり、伝道の契機となる!ユダヤ人たちは異邦人の中にあって、ユダヤ人の王であるメシアの誕生を預言した。
東方の学者たちは、夜空に不思議な動きをする星を見た。この星が何なのかはわからない。彗星だとする説がある。韓国と中国ではイエス様が生まれたころ、70日間にわたって彗星が観測されたという記録がある。また、レグルスという星と木星と金星が接近したことについてだとする説もある。それは今となってははっきりとわからない。わかるのは、天体の様子が不思議だったということだ。気になった学者たちが調べてみると、それは、数百人も前にダニエルら優れた知識人を輩出したユダヤ人たちが、キリストの預言を残しており、その預言の実現と強い関連があることがわかった。大発見だ!主は夜空にしるしを与えていた!全世界の人々が夜空を見上げれば、東方の学者たちが見たのと同じものを見ることができた。しかし、学者たちを除いては誰も気づかなかった。
主は今もこのベツレヘムの星のようなしるしを与えて、人々をキリストのもとに導いてくださる。人によって、ベツレヘムの星が何かは違う。ある人はコロナをきっかけにこの世界を動かしているものは何かをいろいろと調べ、最終的にキリストにたどりつく。その人にとってはコロナがベツレヘムの星だ。ある人は悪霊現象について調べるうちに、それを解決できるキリストにたどりつく。その人にとっては悪霊現象がベツレヘムの星だ。ある人は進化論が間違いであることに気づき、創造について書いてある聖書を読んでキリストにたどりつく。その人にとっては進化論の間違いがベツレヘムの星だ。ある人は人生の疑問の答えを探して、キリストにたどりつく。その人にとっては人生の疑問がベツレヘムの星だ。ほかの人にとっては、つまらないこと、気にも留めないことかもしれない。しかし、本人にとって強く興味がひかれることであり、神からのしるしなのだ。
東方の学者たちは星について、調べ、その意味がわかった。しかし、キリストの誕生を祝いに行くには、壁があった。距離の問題だ。バビロンからエルサレムまでの旅は約2000kmの道のりだ。1ヶ月はかかる。当時の旅は盗賊や自然の脅威にさらされて命がけだ。大変な時間と労力をかけて、命を危険にさらす覚悟が必要だった。博士たちにとってキリストは他の国の王。そこまでして他の国の王であるキリストの誕生を祝うべきか?そこまでしてクリスマスを祝うべきか?祝うべきだ!彼らは旅立った。ベツレヘムの星を見て行動を起こした。彼らがそこまでしたのは、ケーキやチキンやプレゼントが目当てではない。飾りやイルミネーションが目当てでもない。そういうものが目当てなら行動を起こさなかっただろう。昔の預言者たちが語ったキリストが預言通りに来た!その方と出会うことは、神との出会いにつながる、人生を大きく変える、救いとなるということを直感したのだ。目当てはキリストだ。キリストと出会うためならどんな犠牲だって払う価値がある。
今は距離の問題はない。あなたが求めさえすれば、今すぐにでもイエス・キリストと出会うことができる。あなたには、ほかに何かキリストに出会う上での壁はあるか?その壁が何であれ、イエス・キリストにはその壁を乗り越えるだけの価値がある。
東方の博士たちは旅立った。長くて険しい旅の間、東方の学者たちを支えたのは、夜空に輝くベツレヘムの星だ。ベツレヘムの星を見るたびにキリストと出会う希望をもって、旅を楽しいものとした。もしあなたがまだ旅の途上だと感じているなら、あなたにとってのベツレヘムの星を大事にしよう。それが、あなたに希望をもたらし、旅を足取りを軽くする。
こうして、キリストによってバビロン捕囚と逆のことが起こった。ユダヤ人たちはバビロン捕囚に遭い、エルサレムから王たちまでも何人か連れ去られたが、キリストの誕生ではユダヤ人の王キリストを慕ってバビロンの学者たちがエルサレムに行ったのだ。
学者たちはエルサレムに到着し、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と質問することで、奇しくも「キリストが預言通り来られた!」という福音を告げ知らせることになった。おもしろいことに、神の民でないはずの異邦人が神の民であるはずのユダヤ人に福音を告げ知らせている。キリストにあって、異邦人とユダヤ人の立場が逆転するのだ。世の終わりに、キリストが再び来られる前にも、同じことが起こる。異邦人がユダヤ人に福音を告げ知らせて、ユダヤ人が主に立ち帰るということが起こる。
このように、大変な犠牲を払って異国の王を慕って遠い国から来る人たちもいれば、ユダヤにいながらも自分たちの王キリストを受け入れない人々もいた。ヘロデ大王とエルサレムの人々だ。彼らはキリストの誕生の知らせ、 ヘロデ大王は、エドム人だ。エドム人は、ハスモン朝の時代にユダヤ人に屈服して、ユダヤ人に吸収された。それで、エドム人はみなユダヤ人になったのだが、イスラエル人の血を引くユダヤ人の中には、エドム人の血筋のヘロデ大王を嫌う人々が多かった。しかも、ヘロデ大王の地位は自分の軍事と政治に関する功績をローマに認められて一代にして築いたものなので、盤石ではない。いつ誰かが自分の地位を脅かすかわからない。ヘロデ大王は恐れにかられ、身内も含めてあらゆる人々を信じられず、少しでも疑わしい者はみんな処刑してしまった。それで、自分の奥さんと実の息子3人までも処刑してしまった。「私が王だ!誰にもこの地位を渡すまい!」ヘロデはそういう自己中心の人だった。そんなヘロデ大王だから、ユダヤ人の王が生まれたと聞いて嬉しくない。預言された人物が生まれるといっても、ヘロデにとっては自分のライバル、自分の地位を脅かす存在でしかない。そこで、キリストを亡き者にしようとした。
では、エルサレムの住民たちはなぜ福音を聞いたのに不安を抱いたのか?おそらくはヘロデ同様、自分の生活を脅かすことを不安に思ったのだろう。エルサレムはユダヤ最大の都市。そこに住んでいる住民はそれなりに快適な生活をしていた。家族がいて、仕事があって、神殿に行けば宗教活動ができる。すべてのニーズが満たされる。私は今の生活で満足、この生活を少しも変えたくない。もしキリストが来ると、大きな変化が起こり、今までの慣れ親しんできた生活を失ってしまうかもしれない。戦いが起こるかもしれないし、礼拝のありようも変わるかもしれない。それはその通り。その不安は的中する。キリストが来られるとすべてが新しくなる!変化が起こる!形式的な宗教は霊と真理による礼拝に変わる!肉親の家族に加えて、信仰による家族ができる!神の国の経済生活の原理が導入される!悪霊になじんできた偽りの平和の生活から悪霊と霊的な戦いをする戦争状態に突入する!なまぬるくなって妥協して罪と決別することになる!キリストがすべてを変えてしまう!それは良い変化!私たちに命を与えるものだ。しかし、良い状態への変化よりも、悪い状態の維持を望んでしまうことが多いのが罪深い人間だ。
もう1パターンの人々がいる。祭司長たちや律法学者たち、つまり宗教指導者たちだ。4-6節。彼らは聖書の知識が豊かだった。ヘロデ大王に質問されたら、聖書を引用して適格な答えをすることができた。しかし、それだけだ。彼らは何もしなかった!キリストを拝みに行こうとしなかった!行動を起こさなかった!なぜか?聖書の御言葉が信仰によって自分と結びついていなかったからだ。ただ、学問的な知識、あるいは職業上の知識として聖書を読んでしまい、自分と関係のあるものとして読んでいなかった。問題は御言葉ではなく、読む人の方にある。これはクリスチャン歴が長い人でも陥りやすい。御言葉は私たちに語られた神の言葉だ!それらは私たち一人ひとりのためのものだ。神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すように刺し通し、心の思いや考えとを見分けるものだ。そういう信仰によって御言葉を自分と結びつける者となろう。
私たちはどうだろうか?学者たちのようにキリストを慕い求めるか?それとも、ヘロデ大王のように、「自分自分自分自分」と自己中心になって、キリストをライバル視し、排除しようとするか?それとも、多くのエルサレムの住民たちのように、神を知らない生活にとどまることを望み、キリストを拒否するか?それとも、死んだ知識だけを蓄えて、生きておられるキリストに無関心になるか?キリストを慕い求めよう!キリストを慕い求めよう!そうするとどうなるか?
学者たちの旅のゴールを読んでみよう。8-12節。イエス・キリストと出会うとどうなるか?喜びにあふれる!救いの喜びが爆発する!この喜びを奪い去る者は誰もいない!学者たちはイエス様と高尚な会話を楽しんだわけではない。一緒に食事をしたわけでもない。イエス様はまだ幼子だった。しかし、イエス様はそれと同時に神が人となられたお方だ。学者たちは神と出会った!イエス様を通して神とつながった!神を知る者となった!クリスマスに与えられた神からの最高のプレゼントはイエス・キリストだ。キリストが与えられたのは、私たちが優れていたからでも、良い行いをしたからでもない。ただ、神が私たちを愛して、私たちを罪から救うために、神からのご好意として、キリストは与えられた。
救いの喜びは、私たちを礼拝へと導く。学者たちは幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を献げた。これらの献げ物よりも、神がくださったキリストの方がはるかにまさる。しかし、これらの献げ物はキリストのご性質を表す上で優れている。黄金は何を表すか?黄金は王位の象徴。王位の象徴である「黄金」をイエス様にささげたことは、すなわちイエス様が「王の王」と呼ばれる存在であることを、世界に示した。イエス様が常にナンバーワン!国々の王、大統領、首相、将軍のさらに上に君臨しておられる。私の上には常にイエス様が君臨しておられる。
乳香は何を表すか?乳香は祈りの象徴。祈りをささげる対象はただ神のみ。祈りの象徴である「乳香」をイエス様にささげたことは、イエス様が神として崇め、祈るべき対象であることを示している。日本では何かすごいことを成し遂げた人をすぐに「神」と言ってしまう。しかし、ユダヤ人が神として崇めたのは、天地万物を創造された絶対者だけだ。イエス様は何かすばらしいことをしたから神になったのではない。イエス様は生まれたばかりの幼子だった。イエス様は生まれたときから、むしろ地上に生まれる前から、永遠に絶対者なる神であられた。
没薬は何を表すか?没薬は死の象徴。没薬は死者を埋葬するときの防腐剤。幼子にささげるには最もふさわしくない。死を象徴する「没薬」をイエス様にささげたのは、イエス様が私たちの罪を身代わりに背負って苦しんで死なれるために来られた罪からの救い主であることを示している。イエス様は生まれる前から誕生が預言されているだけでなく、十字架で死なれることも預言されていた。イエス様は死ぬべき私たちが生きるためにお生まれになったのだ。
学者たちは夢でお告げを受けた。異邦人が預言を受けた。神の民となった証拠だ。
私たちにはイエス様がおられる!王であり、神であり、救い主であるこの方がおられる!だから、私たちはもう大丈夫!何も心配することない!この方を信じてすべての重荷をおろそう。イエス様は私たちを御自分の王国に迎えてくださる。罪を赦し、永遠の命を与えてくださる。
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