サウルとヨナタンの死を悼む[サムエル下1章]

サムエル記
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ダビデは敵であったサウルを愛し、その死を心から悼みました。

サウルとヨナタンの死を悼む[サムエル下1章]


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【ノート】
1-16節。このアマレク人の若者の報告はサムエル上31章のギルボア山(さん)での戦いの描写と微妙に違うように見える。サムエル上31章ではサウルは剣の上に倒れ伏して死んでいて、その後アマレク人によってとどめを刺されたという内容はない。しかし、時間ずれや詳細な若者の報告を考慮すると、大方事実だと言える。この寄留のアマレク人の若者がわざわざサウルから追われていたダビデにこのことを報告したのは、褒賞を期待してのことだ。

この内容から大きく3つのことを学ぶことができる。
第一に、不忠の者は滅びる。アマレク人の若者は外国人だからというのもあるだろうが、サウルの陣営にいながらも、主君であるサウルに対して何ら忠誠心を持っていなかった。サウルが死んだらすぐにダビデに鞍替えする準備ができていた。そして、10節ではダビデのことを「ご主人様」と呼んで取り入ろうとしている。ところが、彼の目論見は完全に失敗した。アマレク人の若者はてっきり宿敵サウルの死をダビデが手をたたいて喜び、一同が大歓声をあげると思っていたのに、全然喜ばず、逆に悲しんでダビデと家臣たちがみんな夕暮れまで断食した。そして、アマレク人の若者は「主が油注がれた方を殺した」罪により処刑されてしまう。裏切り者が滅びることは聖書全体が教えている。主君であるサウルの子イシュ・ボシェトを裏切って殺害したバアナとレカブも、ダビデによって処刑された。ヨアシュ王を殺害した家臣のシムアトの子ヨザバドとショメルの子ヨザバドはアマツヤ王によって処刑された。そして、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは自殺してしまった。イエス様はまさに主が油注がれた方、メシアだ。ただ主御自身が命じられた場合の裏切りのみが限定的に許された。イエフによるアハブの家に対する裏切りがこれにあたる。
私たちは自分が仕えている方に対して決して裏切り者になってはならない。まず、私たちはわれらの王であられる主イエス・キリストを裏切ってはならない。どんな試練や誘惑にあったとしても、決してイエス様に対する信仰を捨ててはならない。背教する者のことをヘブライ人の手紙では「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だ」と書いてある。そんなことがあってはならない。
また、私たちは仕えるべき相手、つまり、会社の上司や自分の夫に対しても、裏切り者となってはならない。聖書では互いに仕え合いなさいと書いてあるが、上司、夫は特に仕えるべき相手だ。エフェソ6:5-7。エフェソ5:24。
忠義を尽くし、決して裏切らない者になろう。

第二に、肉を滅ぼさないと肉に滅ぼされてしまう。ここでいう肉とは、罪深い性質のことをさす。ガラテヤ5:19-21。では肉はどうすればよいのか?ガラテヤ5:24。十字架につける。肉は妥協したり、変化させようとしたりするのではなく、滅ぼしてしまう。それが、クリスチャンがキリストに結ばれて、キリストの十字架の死にあやかるということだ。古い肉は、キリストと共に十字架につけられて死んでしまうので、私たちにもはや何の影響ももたらすことはできない。それでは、キリストの十字架の死にあやからず、肉を生かしてしまったらどうなるのか?古い、悪い性質とはいえ、殺してしまうのは惜しいとして生かしてしまったら?今度は肉が私たちを殺そうとする。それがサウルの身に起きたことだ。アマレク人とはいわば肉を象徴する。ある時、サウル王は預言者サムエルを通してアマレク人を滅ぼすように命じられた。サウルはその命令に対して不忠実だった。アマレクの王アガグを生かしておいたし、動物も滅ぼさないでおいた。
そして、今回のサムエル下1章を見ると、そのほかにもたくさんのアマレク人を生かしておいたということがわかる。そのアマレク人の寄留者の一人が、あろうことかサウルの陣営の一員となった。そのアマレク人に最終的にサウルはとどめをさされてしまった。肉は生かしておいても私たちに感謝なんかしない。かみついてくる。肉を滅ぼさないと肉に滅ぼされる。肉に憐れみをかけてはならない。ダビデはツィクラグに滞在中アマレク人を討ち続けたし、この寄留のアマレク人も打った。それでダビデはアマレク人に殺されることはなかった。私たちもそれに倣おう。肉を滅ぼし尽くそう。私たちはイエス・キリストの十字架によってあやかって肉において死んでいると悟ろう。

第三に、ダビデは敵を愛した。サウルの死について聞いたとき、ダビデの中でも安堵の心があっただろう。ダビデはサムエル上26:10で「主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、いくさに出て殺されるかだ」と預言した。その預言はダビデの期待の裏返しでもあった。その預言は成就した。ずっと自分を追い回し続けた敵が死んだのだ。しかし、ダビデの中では安堵よりも悲しみの方がまさった。それですぐに自分の衣を裂いて悲しみを表した。ダビデは敵であるサウルを愛していたのだ。それはサウルが「主が油注がれた方」だったからだ。ダビデが決してサウルを手にかけなかった理由もここにある。主が立てた人物であれば、敵でも愛する。イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者にために祈りなさい」と言われた。主が立てた人物ならなおさらのことだ。だから、私たちも主が立てた牧師を愛そう。主にある兄弟姉妹を愛そう。自分と性格が合わなくても、目の敵にされても、愛すべき理由は主にあって常にある。もし相手が本当に悪い人物であれば、サウルのように、主が打ってくださる。
また、サウルのお陰で、ダビデは磨かれ、成長することができた。ダビデがたびたび主の御声を聞く訓練を積むことができたのは、逃亡生活の中でのことだ。そこでダビデのみならず、ダビデの家臣たちも成長することができた。家臣たちの中には歓声をあげたい思いを持った人もいただろう。しかし、彼らはまずダビデの反応を見た。11節で「共にいた者は皆それに倣った」と書いてある。ダビデが主を見て行動し、家臣たちは主を見るダビデを見て行動するという良い図式を見ることができる。クリスチャンのリーダーシップはこのように発揮される。

12節をみると、その他にダビデが悲しんだ理由としては、友人ヨナタンの死を知ったことと、王を失った主の民とイスラエルの家を悼んでのことだった。それでダビデと家臣たちは夕暮れまで断食した。ダビデ集団は元々ならず者の集団だった。困窮している者、負債を持つ者、不満をもつ者の集まりだった。自分たちがペリシテ人の地にいても、「主の民である」というアイデンティティーがダビデ集団を強力な軍隊として一つにしていたのだ。あなたも、どこいっても、周りが全員ノンクリスチャンの場所に行ったとしても「主の民である」「神の子である」「クリスチャンである」というアイデンティティーを持つなら、神の軍隊の一員として用いられる。

17-27節はサウルとヨナタンに対する哀悼の歌。ダビデの詩人として感受性の豊かさがよく表れている。この歌の中にはサウルに対する個人的な恨み節は全くない。さわやかな内容だ。サウルのことは主にあって赦し、ひたすら祝福していたことがわかる。
18節で「ユダの人々に教えるように命じた」とあることから、故人を記念しようとする意図と共に、教育的な意図を見ることができる。ユダの人々はみな、サウルとヨナタンのような勇気と愛を持ち合わせた者になるようにとの励ましだ。
霊的戦いに臨むクリスチャン、試練に直面するクリスチャンも、この歌から教わろう。
21節では戦場になったギルボア山を呪っている。そのため、今日でもイスラエル政府による緑化政策にもかかわらず、植物が育たない。
22節では、ヨナタンの弓は決して退かず、サウルの剣がむなしく納められることもなかったとして、二人の勇気がたたえられている。武器がお飾りではなく、武器を使ってちゃんと攻撃をし、確実に戦果をあげることができたのだ。
23節では、サウルとヨナタンの父と子としての緊密な結びつきが歌われている。まず二人ともイスラエルから愛され、喜ばれ、身体能力も精神力も優れていた。そして、「命ある時も死に臨んでも二人が離れることはなかった」とある。ここでは、ヘブライ語の修辞法の一つのメリズモ法が使われていて、両極端の言葉を使いながらその間にあるすべてを強調している。つまり、「命ある時も死に臨んでも二人が離れることはなかった」とは、「片時も離れることがなかった」ということだ。父と子には強力な結びつきがある。これは父なる神様と神の子であるクリスチャンの結びつきにも適用される。私たちは父なる神様と片時も離れることがない。永遠に離れることがない。
25-26節ではヨナタンの兄弟愛が歌われている。その愛は「女の愛にまさる驚くべき愛」とある。主にある真実な兄弟愛は恋愛よりも優れているのだ。教会でその愛を体験するとき、私たちの人生は本当に充実したものとなる。

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