ダビデとヨナタンは二人の間の契約を更新します。
それは主が間におられる永遠の契約です。
ダビデとヨナタンの友情[サムエル上20章]
【ノート】
ダビデはサムエルに頼ってサウルの手から逃れることができた。しかし、ダビデはラマのナヨトから勇気をもって戻り、ヨナタンのもとにいく。それは、ヨナタンが自分と契約を結んでいるからだ。ヨナタンが自分を愛していると知っているからだ。それで、ダビデはヨナタンを信頼して頼った。窮地のとき、頼りになるのは、契約を結んだ人、愛する人だ。私たちは、大勢でなくて良いが、このダビデとヨナタンのように、何人かでも深い関係、窮地のときに助け合える関係、血のつながりよりも深い心の友を作りたいものだ。教会がその友を見出す場所であるように。
1-9節。ここで問題となっているのは、サウルの腹の内だ。サウルは主にかけてダビデを殺しはしないと誓った。ダビデとヨナタンはそれを信頼していた。それなのになぜサウルはダビデに対して暗殺者を送るのか。それがダビデを混乱させた。ヨナタンは自分がダビデとサウルの間に入っているから何かあれば知らせられるとダビデを安心させようとしたが、暗殺者が送られたとき、ヨナタンからの知らせはなかった。ヨナタンの考えは甘い。現実を受け入れられていない。サウルはヨナタンに知らせずにダビデを害そうとしているかもしれない。そこで、ダビデの提案により、サウルがただ悪霊の影響で気まぐれの行動をとっていただけなのか、それとももうはっきりとダビデに危害を加える決心までしているのかを新月祭の食事によって判断することにした。
食事が人の腹の内を判断する材料となる。食事とは本来、親睦を深めるためのものだ。同じ一つのパンをわけて食べるとき、一つのパンが全員の体に入るわけだから、一緒に食べた全員が一体化するという意味合いがある。しかし、一緒に食事をする人の中には、サウルのように、同じ食卓にいる誰かに妬みや憎しみを燃やしている人がいるかもしれない。箴言23:6-8。しかし、もし主が共におられる食事で良からぬことを企んでいる人がいたら、それはたちまち露見することになる。イスカリオテのユダの裏切りはイエス様にばればれだった。だから、私たちは教会で主の聖餐にあずかるとき、主に対しても、その聖餐を囲む人々の誰に対しても、何のわだかまりもない状態でなければならない。少しのねたみも憎しみも持たず、ただひたすら愛の対象として見なければならない。
10-16節。ヨナタンはダビデとの契約を新たにした。契約を結ぶというのは愛の関係をより深める ためのものだ。主がノアと、アブラハムと、モーセと、教会と契約を結ばれたのは、主の愛の表れだ。18章で結んだ契約は、ダビデとヨナタン個人との契約だった。ここでの契約ではそれを拡張し、ダビデの家とヨナタンの家との契約だ。ヨナタンはすでに、自分ではなくダビデこそが、サウルの次の王になるということを悟り、受け入れていた。それで、「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」と言っている。しかし、ダビデが王位を得るときに、ヨナタンやヨナタンの子孫と血みどろの争いをしてほしくない。普通は、新たな家から王が立つと、それまでの王家の人はみんな根絶やしにしてしまうのが、古代の社会では当然だった。ダビデはヨナタンに対して、互いの家に対して、そういうことをしないと主にあって契約を結んだのだ。「とこしえに」と書いてある。それは永遠に変わることない愛の契約だ。
17-23節。もうヨナタンは12節で、「人をやって必ず知らせよう」と決めていた。しかし、契約を再度結んだ後、やっぱり自分でダビデに伝えたくなった。もしそれが悪い知らせの場合、決定的な別れの瞬間になる。そういう大事なことを他人まかせにしたくなかった。では、直接ダビデに口頭で伝えれば良いのではないか。なぜ矢を飛ばして従者に何というかということを合図にする必要があったのか?それは、悪い知らせをしなければならない場合、どうしても口頭で伝えることは忍びなかったからだ。自分の父が自分の友にはっきりとした殺意を抱いている。こんなことは口に出して伝えられない。それで、三本の矢に意味を込めることにしたのだ。
ちなみに、三本の矢といえば何か?毛利元就は自分の三人の息子に、対して与えた教訓がそれだ。矢の一本一本は簡単に折れてしまう。しかし、三本まとめれば、折るのは難しい。そのように、三人の息子が助け合って、決して折れないようになるようにというもの。聖書も、それと同様の教訓を与えておられる。コヘレトの言葉4:9-12。最初は二人の友が協力することのすばらしさをうたっているが、結論は三つよりの糸だ。三人目は主だ。ダビデとヨナタンの間には主がおられ、このあと別の道を歩むことになっても、決して切れないということ。
ヨナタンは、すべてのことは主が間におられてなされると言っている。ダビデとヨナタンの間の契約のことも、矢の合図のことも、そして、矢の合図は、エゼルの石の傍らにダビデが隠れているときに行われる。「今まで、主は我々を助けてくださった」ということを記念する石だ。どういう結果になったとしても、主がダビデを今まで助けてくださったように、助けてくださるのだ。
24-26節。敵兵を殺害したり、死体に触れたりすると汚れる。そういう要因でダビデが汚れていて清めが済んでおらず、その汚れを他の人に移してしまわないために欠席しているのだろうとサウルは勝手に考えた。
ところで、新月祭とは何か?イスラエルは太陰暦だった。「ローシュ・ホデッシュ」といって新月が毎月のついたちとされている。その日には献げ物を献げることと角笛を吹き鳴らすことが律法で規定されている。それを一つのお祝いとしていたのだ。新月は新しい月の到来を告げるもの。年に12回はあるから、イスラエルにとっては安息日に次いで馴染みが深いものだった。安息日も新月祭も、キリストを指している。コロサイ2:16-17。
27-34節。ここでサウルはヨナタンの気に入らない点について、全部母親つまり自分の妻のせいにしている。サウルの考えの通りなら、ヨナタンの麗しい愛は母親譲りだったということだ。サウルはダビデが生きていてはヨナタンの王権は確かではないという。ヨナタンはサウルの言うことに反論する。サウルは、自分がねたみを燃やしている相手のダビデを自分の息子がかばおうとするのに我慢ならず、怒り狂って、大事な後継者のはずのヨナタンを槍で突き刺そうとした。サウルには他に二人の息子がいたから、息子も替えがきくと思ったのだろうか。この食事によって、サウルの腹の底がはっきりした。サウルとダビデの関係は破綻していて修復不能であることがわかった。そのことを悟ったヨナタンは心を痛めて断食した。
35-42節。「早くしろ、急げ、立ち止まるな」というのは、ヨナタンからダビデへの言葉だ。別れを惜しむ心がある。しかし、どうしても別れなければならない。別々の道をたどらなければならない。ダビデは意を決して出ていかなければならない。未練を断ち切ることができるように、後押しするための言葉だ。ダビデは三度の礼で、ヨナタンの好意に感謝した。なお、ここで互いに口づけをするが、ダビデとヨナタンとの間に性的関係を連想するのは間違っている。ダビデにはミカルという妻がいたし、ヨナタンにもメフィボシェトという息子がいた。口づけは敬愛のしるしとして同性の間でもするものだった。
二人が流した涙が、二人の間の真実な愛の大きさを表している。ダビデはサウルから逃げ回る流浪の旅にでなければならず、ヨナタンは父サウルのもとに残る。しかし、別々の道をたどっても、主を間に交わした契約がいつまでも残る。ヨナタンの友情がダビデの支えとなる。それは二人の命で終わらず、家の間で子々孫々に至るまで続くのだ。
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